カテイのクサビ~或作家の回想

与方藤士朗

愛情あふれし館への道

第1話 増本さん宅との出会いまで


 あれは、私が小学3年生、1978年ですから、昭和53年の夏休みでした。春にキャンディーズが解散して、それだけでも何だか、時代が変わったような気持ちで小学校に通っていました。

 それだけとれば普通のことのように思えますけど、当時の私は、岡山市内の養護施設にいたのね。今は児童養護施設と言われるようになって久しいですが、当時は単に養護施設と呼ばれていました。

 その年の夏休みになってしばらくした頃、私はある児童指導員の方から、通っている小学校の近くにある少し小高くなったあたりに住まれているご家庭に行ってみなさいと言われました。

 すべてはそこから始まるのですが、その前の経緯をお話しておきますね。


 養護施設に入ったのが1975年の秋口でして、その冬は病床の父方の祖父を見舞に正月に備前市の自宅に戻った記憶もありますが、それを最後に、私は大学に合格するまでその家には戻っていません。もっとも、その家に戻ったときには、荒れ果てていましたけどね。まあいいでしょう。

 小学校に上がって1年目と2年目は、夏と冬に当時の担当の職員の方のご自宅に何日か泊めさせていただくという形で遠出ができていました。

 これは今思うと、非常にありがたかった。

 今思うに、この2年間こそが、私のその後に大きな影響を与えているのではないかと思われてなりません。


 そうそう、小学1年生のときでした。当時担当保母だった坂上さんのご自宅に、その夏と冬に「里帰り」させていただきました。

 短期里親的な仕事を兼ねて職員に帰省させるという、一石二鳥な手法ですね。

 あれは夕方ごろでしたっけ、たまたまテレビに映っていたルパン三世のエンディングテーマの「ワルサーP38」という銃の名がなぜか今も印象に残っています。

 あの年、小学校1年生の時の小学校での出来事なんて、何一つと言ってもいいほど覚えてもいないのに、ね。


 小学校の2年生の夏休みには、佐賀県にある当時担当の保母さん宅に、このときは確か5泊6日で行かせていただきました。

 行きに乗った列車は急行の「西海」でしてね、これ、大阪から佐世保迄の14系の座席車だけの列車。長崎行の「雲仙」との併結列車でした。糸崎あたりで20系の「あさかぜ」とすれ違いましたが、あのときの食堂車の灯りと窓の向こうの飾られた花、ウエイトレスさんがきびきび働いていらした姿、今も覚えていますよ。帰りは急行「弓張」で博多まで出ました。確か、非冷房であったという記憶があります。博多からは新幹線の「こだま」でゆっくりと岡山に帰ってきましたっけ。各駅の漢字が書かれた駅名が、随分印象に残っています。これ、新倉敷から先博多までの各駅、同じようになっています。岡山から東には、それ、ないのよね。


 冬休みには、2泊3日で、滋賀県出身の児童指導員の方のご自宅に伺いました。京都の市電も、あのとき見ているはずです。帰りは、153系の新快速と湘南電車80系の普通列車を乗り継いで岡山に戻ったことを覚えています。


 なんか、鉄道のことで覚えていることが多いねぇ。

 夏に九州、冬は関西。期せずして、結構な距離の遠出をさせていただいていたことになります。当時の児童指導員の方々のおかげですよ、これは。

 後に園長になった大槻さんと、先ほどの滋賀県出身の高尾さんのお二人の方針がしっかりされていたからというのもあります。ただ、このお二人自体は仕事の方針が決して合うわけではなかったのは確かです。

 当時、他の施設の男性児童指導員の皆さんは後の園長さんをものすごく立派な先輩という印象を持たれていたようです。

 そんな中、おひとりだけ、大槻さんの問題点をすでにして見破っていた方もおられます。滋賀県出身のこの高尾先生がそうでした。実家がお寺で、今は滋賀県の故郷で御実家とは別のお寺の住職をされているような方ですからね。この方の物事を見る目は、厳しいところがありました。

 

 しかし、最善の場所ではなかったかもしれませんが、こういうところで見るに、次善の策的な形でも、それが最善並もしくはそれ以上の効果をもたらすかの如く、私の周りがうまく機能してくれていたようなところがありました。そういう意味ではありがたい場所だったと思っています。


 こうして当時を回想して検証してみるに、行った先のことはほとんど覚えていませんけれど、このときの列車の行き帰りだけはよく覚えています。

 それは確かに、私のその後の方向性を定める兆候となったのかもしれません。


 各職員さんのご自宅に伺っては泊めていただくというのは、その職員さんにとっては一種の短期里親的な仕事にもつながることであるとともに、その対象となる子にとっては他人とは言え家族や家庭の姿をいささかでも垣間見るという点においてある意味一石二鳥な効果があることは確かです。


 とはいえ、いつまでも特定の子をその手でというわけにもいかないわな。

 言い出したらキリのないことかもしれないが、先方に行っている間の事故やもめごとが起きたときのリスクを考えると、ね。

 とはいっても、小学校低学年の子が起こすもめごとなんて知れていますから、そのくらいまではこの手法、有効に機能したと言えるかもしれませんよ。

 そこで、先日滋賀県の自宅に招いて下さった児童指導員の高尾先生から、その施設、申し訳ないが某園としておきますが、その某園があった学区内にあって、しかもうれしいことに小学校にとても近い場所にある御家庭に、毎年夏と冬、小学生の間は春にも何日か行って泊めていただくことになったのですよ。


 記憶が定かであれば、某園から歩いても行ける距離とは言え公用車の緑色のボンゴというバンで増本さんという方の家に向かわされたのは、その年の8月8日だったと思います。だとすれば、その年の立秋。夏と言えばそうだが、暦上では秋の始まりでもある日でした。今思えば、それまで蓄積されていた問題点が、秋の始まりとともに静かにその熱を冷ましていく、その始まりの日にふさわしい日だったのかもしれませんね。これは、こじつけかもしれませんけど。

 ともあれそこから4泊5日。

 私は、つかの間とは言え増本さん宅の末っ子のような扱いで、その家で過ごすこととなったのです。


・・・ ・・・ ・・・・・・・


「そういう経緯で、あなたは増本さん宅の「里子」になったわけね」

 作家氏の話を聞いているのは、岡山市内のとある大学でフランス語を教えるフランス系アメリカ人のメルさんことメルジーヌさん。作家氏より数歳年長。

 彼とは数年前にひょんなことで出会い、その後交流が続いている。傍から見ると日本人男性と外国人女性の夫婦に見えないわけでもないが、特にそういう関係があるわけでもない。なお、どちらも独身で、特に子どもがいるわけでもない。


 岡山駅近くのあるホテルの作家氏の宿泊している部屋に、彼女が訪れている。彼女もまた、別の部屋に宿泊中。こういう場所でないとなかなかこういう話もできないからだ。

 作家氏、メルさんに限らず、人にこのことを真剣に話すのは初めてである。

 彼女のほうはかねてその話を著作や直接の話で知ってはいるが、まともに聞くのは今回が初めて。いずれこれをまとめて出版しようという話になっている。

 今日はそのための取材なのである。作家氏は、大学教授の女性に述べた。


「そのとおり。なんせその頃完全な「孤児扱」にされて養護施設という有象無象の子どもらの集められた場所で過ごしていたわしには、家庭というものの温かさには本当に癒された。いや、それどころじゃないよ。愛情というものがはぐくまれたことには間違いない。ただそれは、成長していく上で、あるいは先方の情勢が変わっていくにしたがって、少しずつ微妙に、やがて大きく、変わっていった。そのことまで、メルちゃんには今日話す」

「じゃあ、せーくん、続き、よろしく」


 パソコンのカメラで、この対談は動画を撮影している。彼女は止めていた動画のボタンをマウスでクリックした。


・・・ ・・・ ・・・・・・・

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