2024
家に帰りたい気分ではなく、雨宿りをすることに決めた午後19時過ぎ。今日、母は旧友とディナーに行くと言っていた。つまり、家に帰っても誰もおらず、夕食を作らなくても問題がない日である。どこで夕飯を食べようか、甘い物でもいいなと考え、しとしとと降る雨を小さな折り畳み傘で凌ぎながら適当に歩いた。
雑居ビルの前、小さな立て看板に気が付いた。カフェが入っているらしい。ビルを見上げるとカフェがあるらしい3階に灯りが点っているのが見えた。看板も出ていることから、営業しているのは確かだろう。周りを見渡すと、土曜日だからか雨にも関わらず、どこか人が多いように感じる。
少しだけ迷った。昼間にも由紀とカフェに行ってしまった。二食とも外食なのは如何なものか。金銭的にも健康的にも、自炊ばかりのわたしには普段しない食生活である。しかし辺りには居酒屋や少し高めなイタリアンレストランしか見当たらない。雑居ビルの中にもいくつか飲食店があるようだが、見た感じバーや居酒屋が多いようだった。
知らないビルに入るのは目的が何であれ緊張する。勇気を振り絞り、古びたエレベーターに乗る。6人くらいしか乗れなそうな狭いエレベーターは、湿気に満ちて暑い。先程まで人の出入りがあったのか、床には濡れた足跡が残っている。
エレベーターを降りると、店の入り口と思しき扉が2つ。一つは入り口にシーシャバーの表記があった。目的はこっちではない。もう一つの茶色い扉の前で立ち止まる。『cafe&bar carnation』の表記がある。ビルの前で見た立て看板と同じ物が立っていて、『OPEN』の札も垂れ下がっていた。ビルの廊下は人気がなく、隣のシーシャバーからは少しBGMが漏れ出て聞こえるものの、茶色い扉の中からは何も聞こえてこない。
ひんやりしたドアノブを握り、扉を開ける。扉の内側に付いていたベルが扉を開ける振動で揺れ、音が鳴る。中は薄暗く、アロマとコーヒーの香りが入り混じっている。
「一人なんですけど……」
折り畳み傘をしっかりと畳み、人差し指で一人だと示す。入口左側のカウンターの中には男性が一人、カウンター席には小学生くらいの女の子が一人で足がつかない椅子に腰かけている。右側のテーブル席には誰もいない。
「未華子さん?」
店内を見渡していたわたしに、聞き覚えのある声がかかった。
「凪ちゃん?」
数日前に出会ったばかりの母の生徒、凪ちゃんだった。カウンター席に筆箱やノートが広げられ、彼女が勉強をしていたことは見て分かった。しかし、ここは図書館でもなければ、子供が一人で来るような場所でもないのである。
「どうしてここに?」
「ここ、パパのお店なの」
わたしの言葉に、凪ちゃんは少しはにかんで答える。
「パパ……」
母に数日前に聞いたことを思い出す。凪ちゃんの家庭は父子家庭だということ、ついでに発表会の衣装制作のことも思い出し、少しだけ複雑な気持ちになった。何よりわたしは、彼女の父親に会ったことがない。このような形で顔を合わせてしまってもいいものか。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中からも声がかかる。掴みどころのない、高いとも低いとも言えない声。店内のジャズミュージックと波長の合う声には、初めてのはずなのにどこか聞き覚えがあった。
「え」
思わず、声になったかなっていないか微妙な大きさの声が出る。それは驚愕の感情から発せられた声だった。いや、音に近い。
「慧くん……?」
緩やかなパーマが掛かった髪はミディアムマッシュに伸びており、細渕の眼鏡を掛けている。少し撫で肩で服の上からでも分かる身体の薄さ、ブラウスの上にブラウンのエプロンを纏っている。眼鏡のガラス越しに見える目は少し垂れ目で、何を考えているかわからない目つき、その目が大きく見開かれた。
「未華子……」
やはり正解だった。驚くわたしに負けないくらい、彼も驚いた顔をしている。
「凪ちゃんのお父さんって、慧くんだったの……?」
”樋上"という苗字は、ありきたりでもなければ凄く珍しいわけでもない。全国にどのくらい存在するかはわからないが、人生で何度かは出会う苗字だとわたしは思う。だからこそ、凪ちゃんのフルネームを聞いた時も特に何も思わなかった。
「……とりあえず、好きなところに掛けてよ」
一瞬止まった時間を進めるように、慧くんが言う。わたしもカフェに入ったという当たり前の現実を思い出し、凪ちゃんの横のカウンター席に掛ける。凪ちゃんの席にはお洒落なグラスがコースターに乗って置かれており、中には飲みかけのココアと思しき飲み物が入っている。上にのっているホイップクリームは混ぜる派なのか、ココアにはガラス越しに白いクリームが混ざっているのが見える。
「はい、メニュー表」
カウンターから骨ばった手が伸び、薄いメニュー表がさし出された。わたしが開くと同時に、おしぼりとお冷も出される。一言お礼を言い、わたしはメニュー表に目を通す。写真のないメニュー表にはコーヒーや紅茶といったドリンクや酒類、パスタやトーストといったフード、スイーツの欄にはケーキやパフェといったものがある。
「パパと未華子さんは知り合いなの?」
凪ちゃんが尋ねる。きっとわたしと慧くん両者に尋ねているようだった。
「高校の時の同級生だよ」
慧くんがわたしより先に答える。その声にどんな感情が含まれているかがわからない。
「あの、アイスコーヒーとナポリタン一つ」
「かしこまりました」
油断すると、ただの客として初対面のマスターに注文を述べる気持ちになってしまう。今起こっている現実を、まだ理解しきれていない。
慧くんの立つカウンターの後ろは棚になっていて、コーヒーカップや皿、酒のボトルが並べられている。彼は少し背伸びをし、上の方からグラスを取り出している。
手持ち無沙汰になったわたしは机上を見やる。小さな花瓶には薄いピンク色の花が生けられている。薄暗い店内ではその小さな花たちの色がより明るく見える。
「その丸っこいのがデイジーで、薄ピンクのがガーベラだよ」
凪ちゃんが花を見つめるわたしに言った。花には詳しくない。凪ちゃんはにこっと笑う。
「初めて知った。物知りなんだね」
微笑み返すと、凪ちゃんはへへっと笑った。
「さっき俺が教えたんだろ」
手元を動かしながら、慧くんが凪ちゃんに言う。受け売りの知識らしい。慧くんが父親をしている、という現実離れした現実に、わたしの頭はやはりついていかない。
「はい、アイスコーヒー」
コルク製のコースターが出され、上にアイスコーヒーの注がれたグラスが置かれる。少し遅れてミルクピッチャーとガムシロップも置かれる。慧くんはパスタの準備に掛かったのか、コンロから点火する音が聞こえた。
何も不思議な話ではない。わたしは今年でどう転んでも35歳。わたしが35歳である以上、同級生である慧くんも必然的に35歳である。結婚し、子宝にも恵まれた同級生を何人も見た。由紀のようにSNSに幸せを吐露する人もいれば、年に一度の年賀状で結婚や出産を知った同級生もいる。結婚式にもそれなりに呼ばれたし、たまに外出先で偶然同級生に再開した時、ベビーカーをひいていたこともあった。むしろ独身であることの方が珍しいとまで感じる中で、慧くんが結婚していようが子供がいようが、一般的に考えても何も不思議な話ではない。
しかし、一人であることになんの寂しさも抱いていなかった慧くんが今は一人ではないこと、それどころか一人ではない生活を何年も営んでいたということに驚きが隠せない。
隣では凪ちゃんが、考え込むわたしをよそにココアを啜っている。その横顔は、確かに言われてみれば端正で童顔な慧くんに似ている気がする。
目の前で野菜を切ったりフライパンをに向き合ったりする慧くんは、高校の頃の顔立ちと対して大差がない。思わず羨ましく感じてしまう。35歳であることは、きっと自ら言わない限りわからないだろう。わたしの視線に気づかない慧くんは、そのまま料理を続けている。手早い料理手順を見るに、カフェだけでなく家でも料理をしているような気がした。手つきが慣れている。
「パパのナポリタンは美味しいんだよ」
凪ちゃんが言った。わたしがカウンターを見つめていることに気付いたのだろう。
「そうなんだ、早く食べたいな」
凪ちゃんに笑い返すと、彼女は嬉しそうな顔を浮かべた。
アイスコーヒーは美味しく、ミルクで少し苦みを消した。苦いコーヒーが苦手なわけではないけれど、今日は少し苦みを抑えたい気分だったのだ。
「コーヒーも美味しい」
「でしょ!パパのコーヒーは常連さんから評判なんだよ」
自慢げに笑う凪ちゃん。その姿は、父親のことが大好きな娘の姿である。しっかりと父親をしているんだな、と訳の分からない目線で考えてしまう。慧くんが子供と遊ぶ姿など想像も出来ない。
「おまたせしました」
少し時間が経って、ナポリタンがのった皿がカウンターから出される。オレンジ色のソースがパスタに絡み、湯気がたっている。斜め切りにされたソーセージや細切りにされたピーマンが混ざり、上には粉チーズが降りかかっている。フォークとスプーンが皿の左右に置かれる。そのタイミングで骨ばった慧くんの手を何の気なしに見る。
「すごい、家事やってる人の手だ……」
思わず口をついて出た言葉。慧くんの手がびくっと跳ねて引っ込んだ。彼の手は所々あかぎれが起きている。包丁で切ったのか、切り傷が透明な絆創膏でケアされていた。
「そんなことない。それを言ったら未華子も」
フォークに手を伸ばしたわたしの手を慧くんが指さす。わたしも自分の手を見る。自分ではあまり気にしていなかったが、日々の料理で軽いあかぎれが出来ていた。
思わず自分の手の状態を棚に上げてしまったわたしと、慧くんの相変わらずの口調に笑ってしまう。
「本当だ。お揃いだね」
わたしが自分の手を上げ、開いたり閉じたりすると慧くんも少し驚いた後に笑った。
わたしの終わったはずの青春の歯車が、少しだけ動いた気がした。
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