2007

 数日後の梅雨に入ったばかりの放課後だった。雨がしとしとと降っている。窓から見えるグラウンドの土はぬかるみ、少しだけ開けた窓から雨音が教室に入り込んでいる。

 教室の生徒は殆どが帰り支度をしており、今教室に残っているのは雨がやむのを待っているクラスメイトや時間潰しに教室に居座るクラスメイトたちだけである。

 わたしも例に漏れず、傘を忘れて雨があがるのを待っていた。春子はアルバイトがあるからとそそくさと帰宅し、由紀は日直仕事のために職員室へと出向いている。

 湿っぽい教室は蒸し暑く居心地が悪い。外は徐々に薄暗くなり始め、それにもかかわらず雨があがる気配はなかった。じんわりとした汗によってべたついた前髪を櫛で梳き、窓際に寄り雨を眺める。

「やまなそうだな」

 スクールバッグを傘代わりに頭に載せて、そのまま走って帰ることを覚悟する。白いブラウスは透けそうだし、ローファーにはきっと水が入り込むだろう。落ちかけのメイクも雨によって、おどろおどろしい落ち方をするかもしれない。

「傘ないの?」

 わたしにすぐ傍から声がかかった。

「樋上くん……」

 先日の昼休み、初めて会話をした樋上くんだった。自身の椅子に腰かけたままわたしを見上げてる。相変わらず片耳にはイヤホンがついており、有線イヤホンのゴールはウォークマンである。皆が帰り支度をしたり会話に花を咲かせたりしているにも関わらず、彼は一人で帰り支度などせず呑気に音楽に耳を傾けている。まるで彼だけが昼休みのようだった。

「帰らないの?」

「まあね。放課後に予定もないし」

 樋上くんは机上に置かれた自身の紙パック飲料を手に取り、躊躇いなくストローで啜った。眼鏡越しに何を考えているかわからない目で窓の外を見ている。

「やみそうにないね」

 雨は相変わらず降り続け、グラウンドに水たまりを作っている。体育の授業や部活動のために引かれていた石灰の線は完全に消え去り、雨脚も先程より強まっているようにすら感じられた。

「今日、いつもいるお友達は?」

 樋上くんがイヤホンを外して聞いてくる。両耳が周囲の喧騒を聴くことに慣れていないのか、教室の喧騒に顔をゆがめている。

「あぁ、由紀のこと?由紀は今日直で職員室。この後バイトあるみたいだし、もしかしたらもう帰ったかも」

「一緒に帰るわけじゃないんだ」

「一緒に帰る日もあるよ。でもそんな四六時中一緒にいるわけじゃないよ」

「意外だ。女子たちって、いつでも群れているイメージがあるから」

 不思議そうな顔をする樋上くん。わたしからすると高校生男子も十分に群れているイメージがあるが、樋上くんはどう考えても例外だろう。

「樋上くんは誰かと帰ったり遊んだりするの?」

 彼が誰かと帰っているところや群れるようにコミュニケーションをとっているところが、わたしにはどうにも想像し難かった。孤独、というよりきっと孤高。彼が一人でいて寂しそうな顔をしたことは果たしてあっただろうか。むしろ望んで一人でいる、一人でいることが快適とすら思っていそうだった。

「あまりしないかな。友達がいないわけではないけど、休日や放課後にわざわざ集まるくらい仲のいい人はいないかも」

 少し考えるように言う樋上くん。

「困らない?」

「どうして?」

 わたしは一人が好きではない。一人になったとして何もできなくなるほど幼稚ではないが、周りに見知った人がいない寂しさや居心地の悪さが何となく好きではない。だからこそ、わたしの純粋な問いかけに、更に疑問で返って来るとは思わなかった。

「うーん。寂しかったり喋りたくなったりしないの?課題のことだって聞けないよ」

「別に寂しくないよ。僕は家でも一人だから、一人には慣れてるんだ。課題だって一人でも出来るし、わからないときに聞けるくらいの仲の友達はいる」

 どうして困るのか、とでも言いたげな目線と口調である。一人でいること、一人で物事をこなすことに何一つ不自由を抱いていないようだった。

「東雲さんは苦手なの?一人」

「嫌いじゃないけど、好きではないかな。ちょっとだけ落ち着かない気持ちになる」

「今も?」

「どうして?今は樋上くんが隣にいるじゃん」

 わたしの言葉に、樋上くんは少々驚いた顔をする。つくづく表情が読めない。わたしは今目の前に樋上くんがいる、それは一人ではないとただ当たり前のことを言ったまでだ。

「そうなんだけど……。だって殆ど、こうしてゆっくり喋ったの今日が初めてなのに」

「確かにそうだね。わたしの中では、だいぶ話しやすくて慣れてきたけどね」

 わたしが笑うと、樋上くんもふっと微笑んだ。笑顔も微笑みも、きっとレアだ。

「東雲さんたちのグループ、いつも戯れてて派手だからもっととっつきにくいかと思ってた。意外とそうでもないんだね」

「そう思われてたの?!ただ見た目に気を遣ったり人とおしゃべりしたりするのが好きな三人が偶然集まっただけだよ」

「ちょっとだけ見方が変わったかも。先入観ってよくないね」

 わたしは彼からのイメージが変わり安堵した。

 雨が徐々に弱まっている。先程まで残っていたクラスメイトたちも気づけば殆ど教室を後にしている。

「わたしもそろそろ帰ろうかな」

 時計は17時前を指している。母のピアノ教室も、そろそろ生徒が帰宅した頃だろう。夕飯も作らなくてはならない。

 机に掛けていたスクールバッグに化粧品や携帯電話を仕舞う。

「これ、よかったら使って。今日大きいのと二本持ってきてるから」

 樋上くんが折り畳み傘を差し出してくる。

「いいの?」

「うん。まだ少し降ってるし」

 樋上くんはまだ帰る気がないのか、特に焦っている様子もない。相変わらず椅子に腰かけたまま、わたしを見上げている状態だ。

「ありがとう。乾かして返すね」

「わかった。……あとさ、メルアド交換しない?」

「え?」

 一人を好む樋上くんからの意外な言葉に、わたしは耳を疑った。だが、それはとても嬉しく、わたしの心は一気に跳ね上がった。

「もちろん」

 互いの携帯電話を向かい合わせ、赤外線通信を行う。

「高校の女子と交換したの初めてだ」

 何の気なく言った彼の言葉に、更に高く飛び跳ねそうになるくらい嬉しくなる。

「ありがとう」

 わたしは彼に借りた黒い折り畳み傘を指しながら、最初に送る文面を考えつつ帰路についた。

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