2024
雨音が聞こえる。窓が開いているのか開いていないのかはわからないけれど、どこか遠くでアスファルトに滴が着地して跳ねる音が、わたしの耳に細々と届く。梅雨時の雨は読めない、とつくづく感じてしまう。薄暗い店内は空調の除湿モードが作動しているのか、雨にも関わらずべたついた感覚がなく有難い。汗だか雨だかわからない額と前髪の湿り気も、いつの間にか乾いてしまっている。
凪ちゃんがココアを啜る。ストローの中を殆ど空気が通ったのか、ずぼぼと音が鳴る。「こら、行儀が悪いだろう」とカウンター越しで注意をするのは、紛れもなく高校生の頃のクラスメイト、慧くんである。わたしは目の前のナポリタンの皿を見つめる。会話をしながら食べているからか中々ナポリタンは減らないが、慧くんは特に気にしていないようだった。雨の晩は客足が悪いのか、特に他の来客があるわけでもなく、だからわたしもより帰る気もなくだらだらと食べては居座った。
凪ちゃんが頬杖をつき、ぼっと何処かを見つめている。わたしと慧くんの会話を邪魔しないようにするためなのかな、と少し考えた。凪ちゃんはこのカウンター越しで、どんな思いで父である慧くんを見ているのだろう。彼女はこの背の高い椅子に大人のように座っている。足が地面についていないのに、飲んでいるのはココアなのに、身長はわたしより低いのに、どうしてか大人が隣に座っているかのような雰囲気がある。大人ぶってはいないだろうに、無意識でこの大人っぽさがにじみ出る小学一年生に、わたしは複雑な気持ちを抱いた。
「パパ、おかわり」
凪ちゃんが沈黙を裂くようにグラスを持ち上げた。溶けて小さくなった氷がからんと音を立て、グラスに結露していた水滴が数滴、凪ちゃんの指を伝って机に滴る。
「甘いものばかり飲んだら太るぞ」
慧くんのデリカシーのない一言に、凪ちゃんはわざとらしく腕を胸の前で組む。
「いいでしょ!まだコーヒー飲めないんだから」
子どもらしい発言である。わたしは思わず笑った。慧くんがグラスを受け取り、二杯目のココアを注いでいる。
「未華子さんは小学生の時、コーヒー飲めた?」
少し空気が和らいだのを察したのか、凪ちゃんが会話を振って来る。わたしは少し考えて言った。
「飲めたけれど、あまり飲まなかったかも。わたしもココアが好きだったから」
凪ちゃんが嬉しそうに笑う。そして声高々に言った。
「ほらね、パパ!未華子さんだってココア好きだって。飲んでたって言ってるよ。でも太ってないじゃん」
にやにやと笑い、凪ちゃんが言う。父親とはいえデリカシーがなさすぎた発言を、小学生の女の子なりに引きずっていたようだ。
「未華子は元々スタイルがいいんだよ」
ココアの入ったグラスを凪ちゃんのコースターに置きながら、さらりと言った慧くんの発言に、思わずわたしは慧くんを見る。わたしの視線に気がついた慧くんが少し笑って言った。
「今も変わってなくて驚いたけどね」
この人、わたしの高校生時代を思った以上に覚えているらしい。もう十年以上前だというのに。むしろわたしの方が、当時の自分を覚えていない。制服を着こなしたくてダイエットしてたこと、わざと脚が長く見えるように折っていたチェックのスカート、ペットボトルに被せて緩くなるようにしていたルーズソックス、当時雑誌で見て毎日行っていたモデル流の小顔マッサージ。
洒落ていない今のわたしを見て、彼は何を思うのだろう。
変わっていないのはわたしではない。確実に、絶対に間違いなくあなたの方だ。
怠ったらすぐに崩れたルーティンと、それに伴って満足がいかなくなった体型や髪型や肌。変わっていないわけがない、むしろ全て変わってしまった。
もしかしたら、彼なりのお世辞なのかもしれない。あまり当時を覚えていないのか、変わったわたしのフォローのためにわざと言っているのかもしれない。
「慧くんの方が変わっていないよ」
わたしは少し皮肉を込めて言った。そして会話を区切るためにフォークを手にし、残りのナポリタンに巻き付けた。
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