2024 凪
未華子さんは21時ごろまで滞在し、現金で支払いをして帰って行った。その頃には土砂降りだった雨もやんでいて、窓を少し開けると近くの飲食店の楽しそうな喧騒が耳に届いた。
未華子さんとパパは他愛のない会話を繰り返した。でもどこか、互いに互いを探り合うような雰囲気があり、それは最後まで変わることがなかった。
「今日はもう、店閉めかな」
パパがエプロンを外しながら言う。未華子さんの後にお客さんが来ることはなく、店内のジャズミュージックが大きく感じる。わたしも二杯目のココアが底を尽き、グラスに入った氷も小さくなっていた。水の音が聞こえ、パパが洗い物をしているのがわかる。
「わたしがやろうか?」
カウンターの中に入ると、パパは大丈夫だよと笑う。
「今日は来客が少なかったからね。すぐ終わるさ」
パパの細い手が水に濡れ、更に白さが増して見える。
「看板、下げてきちゃうね」
「ありがとう、助かるよ」
いつも通りの閉め作業を行う。店の扉の外に出ているメニュー表と看板を下げ、”CLOSE"の札を扉に掛ける。メニュー表や立て看板を店内の隅に置き、わたしはまたカウンター席に座る。
「パパと未華子さんは元々仲がよかったの?」
わたしの問いかけに、パパが皿を拭いていた手を止める。パパがわたしに未華子さんのことを話してきたことはない。それらしき高校生の頃の友達の話も。なんなら、パパはわたしに高校生の頃の話をしたことがあっただろうか。覚えている限り、きっとなかったと思う。
「どうだったかな」
パパは言う。嘘とも本当ともとれる微妙な言い回しと声のトーンに、わたしは少しばかり困惑した。少しの嘘も入っていると思う。本当に接点がない人だったのなら、きっと数年ぶりに会っても顔を見ただけでは思い出すことなどないだろう。かといって二人の距離感は仲がいい二人、といった風でもなかった。
「よく覚えていたよね、お互いに」
「まぁ、未華子は目立つ人だったからね」
今の未華子さんからは想像し難い。派手だった頃の未華子さんなんて想像もつかないのだ。
「それより、凪のピアノの先生が未華子の母親だったってことの方がパパは驚いたよ」
「前にハムカツくれた人がいたって言ったでしょ?あれが未華子さんだよ」
わたしの言葉に、パパは驚いたものの納得したように言った。
「あぁ、それで接点があったのか」
「あれがなかったら、わたしは未華子さんと知り合ってないもの。未華子さんはピアノの先生じゃないからね」
パパがまた手を動かし始める。シンクとカウンターテーブルを拭き始め、戸締りを確認し始めた。自分の親ながら、まだまだ知らないことだらけだと今日一日で感じてしまった。パパの学生時代も友人関係も、わたしが生まれるまでどんなふうに生きてきたのかも、わたしはさっぱりわからない。聞いたら聞いた分だけ誤魔化したり、はぐらかしたりされそうだ。わたしも大きくなったら、パパの気持ちがわかるのかな。
「パパの昔の話、聞きたい」
わたしが少しばかり無邪気なトーンで尋ねると、パパは少し笑って言った。
「面白いものじゃないよ。パパは友達も少ないし、外向的な方ではないんだ。話せる話なんて殆どないさ」
「未華子さんは友達だったのに?」
「レアなタイプの人だよ、彼女は」
また含みのある言い方をされてしまう。
「レアって?」
「パパのことを知ろうとしてきた、とてもレアな人」
眼鏡越しに遠い目をするパパ。わたしは少しばかり興味が湧いた。パパと、高校生の頃の未華子さんに。
「また会いたい?未華子さんに」
「もういいかな」
予想外れの返答に面食らう。きっぱりとしたその口調は淡々としている。思わずわたしは続ける。
「どうして?」
「胸がつっかえる感覚がする」
パパはそう言って、店内のスピーカーの電源を切った。ジャズミュージックが消え、わたしたちを包む音が消える。
「帰ろうか、凪」
パパが差し出してきた手を、わたしは何も言わないままで握る。胸がつっかえる思いをわたしはしたことがない。長距離走をして息が切れる感覚とか、人前で話すときの緊張する気持ちとか、胸がつっかえる感覚はあるけれど、きっとそれとは違うだろう。
パパの温もりが、骨ばった手を伝ってわたしの小さな手に届く。わたしにはママがいないから、この手を握ったことがあるのはパパと数人の友達だけだ。
パパの手を握ったことがある人は、パパが手を差し出した人は今までに何人なんだろう。どれくらいの人がパパの手の温もりと触感を知っているんだろう。パパの三五年の人生は想像がつかない。パパは自分の友達や知り合いを家には呼ばないし、休日もわたしと過ごしてくれる。それは凄く嬉しいし有難いことなのだけど、わたしはそんなパパが窮屈で我慢をしていないか、少しばかり不安だった。
「パパ、もっと一人で出かけてもいいし家に人を呼んでもいいんだよ」
「おかしなことを言うね、凪は」
歩きながら、パパは可笑しそうに笑う。不意に手が離れ、その手は私の頭のてっぺんに置かれる。
「何か心配になったかい?凪がいれば、パパは充分だよ」
きっとその言葉と声は、紛れもなく本心だろう。頭から降ろされた手をどちらからともなくまたつなぎ、わたしとパパは帰路へとついた。
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