2024

 退勤時間である17時までにきっちりと仕事を片付け、帰宅ラッシュの電車に揺られた。職場から家までは乗り換えもなく5駅ほどだが、扉の開閉以外で入れ変わることのない車内の蒸し暑い空気は、何百回と電車に乗っても慣れない。

 最寄り駅で下車し、駅前のドラックストアで今朝切れかかっていたトイレットペーパーと洗濯用洗剤の詰め替えパックを買う。いつもは利用しないスーパーで、冷凍食品と総菜のタイムセールをやっていた。思わず自動ドアを潜り、入ってすぐの冷凍庫を覗く。殆ど売れてしまい余白が目立つ冷凍庫。わたしの好きな春巻き、そしてほうれん草のソテーが1袋ずつ残っていた。反射的にそれらを手に取り、何となく手に取った安売りのハムカツ4個入のパックと共にレジに持っていく。近くの客が行うキャッシュレス決済を横目に、わたしはがま口から小銭を支払い店を出た。


「ただいま」

 玄関の扉を閉め、履き慣れた黒いパンプスを脱ぐ。壁に掛かったキャラクターものの時計が、17時50分を指している。時計の秒針の音をかき消すように、ピアノの音がする。わたしの母は家の一室を使用し、子供を対象とした個別のピアノ教室をしている。近所迷惑にならないよう配慮し防音設備は整えた我が家だが、同じ屋根の下では防音性に欠ける。教室とは壁や廊下を挟んでいる玄関や2階にあるわたしの部屋でも、レッスンの度にピアノの音がする。なにかしら曲を弾いているな、と感じる程度には。

 靴を揃えようと下を向くと、少し泥のついた薄ピンク色の運動靴が綺麗に置かれていた。靴底に印字された消えかけのサイズ表記を見るに、靴の主は小学校低学年だろう。耳を澄ませると、たどたどしいピアノの音色が壁を隔てた隣室から聞こえてくる。音は時に跳ね、時に一音上を行き、時に別の音と共に耳に届く。書かれた場所の鍵盤をただ押している、そんな具合だった。

 まるで無表情な人を表しているような抑揚のない音色を聴きながら、わたしは先程買ったトイレットペーパーと洗濯用洗剤を補充する。ダイニングキッチンでハムカツを耐熱皿に置き換え、レンジで温める。

「なに食べるの?」

 ピアノ教室と繋がる横開きの扉が開かれ、小柄な少女が顔を覗かせていた。水色の大きなビーズがついたヘアゴムで胸下まである髪の毛をローツインテールに結び、花柄のワンピースを着ている。

「あら、帰ってたのね。おかえり」

 キッチンを覗いていた少女に気付き、母も顔を覗かせる。

「凪ちゃん、そっちは開けちゃダメって言ったでしょう?」

「ごめんなさい。でも、電子レンジの音が聞こえたんだもん。お腹すいちゃった」

 苦笑いで注意する母に、”凪ちゃん”と呼ばれた少女は不服そうに唇を尖らせる。お腹すいた、お腹すいたと連呼する凪ちゃんに母は軽く笑った。レッスンも一区切りついたのか、2人は扉を閉めるのも忘れて会話を続けている。

「ピアノを弾くとお腹空くの、なんか不思議!走ってないのにね」

「指を沢山動かして、頭も沢山使うからよ。凪ちゃんがレッスンを頑張った証拠」

 凪ちゃんは納得したようにけらけらと笑っている。おてんばそうな少女だ。

「今日はお父さん、迎えに来られそう?」

「うん、少し遅れるけど来るって言ってた」

 バッグに楽譜や筆箱を詰めながら、凪ちゃんは嬉しそうに笑っている。ダイニングの時計は18時を指しており、レッスンも丁度終わる時間のようだった。

「お父さんが来るまで待ってようか」

 母がそう言い、ダイニングの方へ凪ちゃんを案内する。時間や曜日を設定できる教室だが、時折こうして時間ぴったりに両親が迎えに来られない生徒がいる。母はそんな生徒にダイニングで麦茶を出し、一緒に迎えが来るのを待ってあげることがある。母がピアノ周りの片づけを初めてしまったため、わたしが凪ちゃんに冷えた麦茶を出した。足のつかない椅子に座り、凪ちゃんは子供らしく礼を言って麦茶をぷはっと飲み干した。そしてまた、わたしに徐に問いかけた。

「ねえ、さっきのレンジの音何?何を食べるの?」

 興味津々な目で、わたしを見上げる凪ちゃん。わたしはすっかり電子レンジのハムカツの存在を忘れていた。投げかけられた純粋な疑問で抜け落ちた記憶が戻り、慌ててハムカツを取りに行く。

「何それ、コロッケ?」

 幼い少女には、コロッケもカツも同じ茶色い物体に思うだろう。わたしは少し迷った後、ハムカツの一つを別皿に移し、箸と一緒に凪ちゃんの前に置いた。不思議そうな顔をする凪ちゃんに、わたしは少し声を潜めて言った。

「今日だけの特別」

 わあっと目を輝かせ、凪ちゃんはハムカツを見つめた。きっとこの売れ残った総菜のハムカツは、どの人に買われたハムカツよりも幸せな末路を辿ることになるだろう。凪ちゃんは手を合わせ、いただきますと呟き大きな一口を頬張った。

「コロッケじゃない!ハムが入ってる、すごい!」

「ハムカツ、食べたことないの?」

「ない、パパは料理が苦手だからね」

 ハムカツを頬張りながら、またおかしそうに凪ちゃんは笑う。彼女の弾くピアノの音色にはまだ抑揚がないが、対照的に彼女の喋る声には大げさな程の抑揚がある。

 母がダイニングを覗き、ハムカツを頬張るわたしと凪ちゃんを交互に見て首を傾げた。

「なあに、それ」

「先生見て!お姉さんがくれたんだ、ハムが入っているの!」

 凪ちゃんが食べかけのハムカツを箸で掴み、母に見せる。凪ちゃんの箸の持ち方は幼いながらに正確で、彼女の親が食事マナーをしっかりと教えていることが伺えた。しっかりと左手は皿を持っている。

「お母さんのもあるから後で食べていいよ。タイムセールのお惣菜だけど」

 わたしがそう述べると、母は少し笑ってありがとうと礼を言う。凪ちゃんは不思議そうにそのやりとりを見ていた。

「先生の子供?」

「ああ、そっか。凪ちゃんは未華子に会うの初めてだったわね。私の娘の未華子よ」

「名前言うの遅くてごめんね。未華子です、よろしく」

 わたしが名乗ると、凪ちゃんは椅子からひょいと立ち上がった。

樋上凪ひかみなぎ、小学校1年生です。よろしくお願いします」

 ぱっとその場で自己紹介し、深々と頭を下げた。1年生とは思えないくらいしっかりとした女の子である。きっと育ちがいいのだろう。

「そろそろパパが来るから外に出るね。ハムカツありがとう、未華子さん」

 凪ちゃんはそう言うと、ピアノの近くに丁寧に置かれた薄紫色のランドセルを手に取り背負う。まだ殆ど傷のない、真新しいランドセルである。凪ちゃんが背負うとランドセルが大きく見え、ふっくらと型崩れのしていないそれは、パワフルで清楚な彼女によく似合っていた。


「先生、ありがとうございました!」

 玄関先で凪ちゃんが挨拶をしているのが聞こえる。

「また来週待っているわね。宿題頑張ってね」

 母がその挨拶に答え、数秒後に扉の閉まる音がした。開いている窓の外から、「パパ!遅いよ」と凪ちゃんの声がした。迎えに来た父親と合流出来たようだ。

 わたしは凪ちゃんの使った箸と完食された皿を流しに持っていき、先程の会話で食べ忘れていたハムカツの残りを頬張った。

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