2024

「もしもし由紀?……あ、下の子が熱?うん、仕方ないよ。……そうだね、また日を改めようか。うん、また連絡するね。お大事に」

 職場のデスクで弁当を広げたわたしの元に掛かってきた電話の主は、高校の頃の旧友、由紀だった。先月新車を納車したという由紀は、一昨日わたしをドライブに誘っていた。今週末にドライブの予定が控えていたが、直前になり3歳の息子が熱を出してしまったという。

 東雲未華子、35歳。独身、恋人ナシ。至って平凡な事務系会社員。昼休みになった職場のデスクで、ありあわせのおかずを詰めた弁当に箸を伸ばす。

 通話画面を閉じたスマートフォンの液晶に触れ、SNSのアイコンを指で再び触れる。写真や動画を好きなタイミングで共有出来るアプリである。ブログの写真メインバージョンだな、とアプリをインストールして間もない頃のわたしは感じ、その印象は今も変わっていない。特に発信するようなこともないが、由紀が昨年わたしのアカウント登録を行い、消し方もわからないためそのままになっている。流行に敏感な由紀に対し、わたしはスマートフォンの使い方に疎いのだ。

『念願のファミリーカー納車!!軽とのお別れは超寂しいけどネ(涙)♯ファミリーカー♯4人家族♯軽自動車♯ばいばい』

 SNSの一番上には、数日前に投稿された由紀のアカウントと投稿内容が表示されている。写真の中央には、真新しい黒い大型車の前でポーズを決める2人の男児。2枚目の写真は、高校卒業後から長年由紀が乗り回していたピンク色の軽自動車と、その横で大きくピースをする由紀の写真だ。

 長身でジーンズの似合う体型や、豹柄やハワイアンな系統を好む部分などは高校時代となんら変わらない由紀だが、大きく変わったことがある。

「子育てって大変なんだな……」

 ふと呟いた。

 あの頃と変わらずわたしと仲良くしてくれる由紀だが、私生活では夫を支える妻となり、2人の子供を育てる母親となっている。SNSにあがる投稿の文面は華々しく過ごした高校時代のブログのような書き方だが、彼女の載せる投稿の殆どが、自身の子供の写真や子育てについてだった。夕食の写真や長男の入園式について、時には家族旅行の写真もあった。今回の自動車の買い替えも、一人では広いくらいだった軽自動車が子供の成長につれ狭くなったことが要因だと別の投稿の文面で吐露していた。


「東雲さん、明日来週納期の資料打ち込み終わってる?」

 近所のコンビニから戻って来たであろう中年上司、影井がコンビニ袋片手に問いかける。

「大方終わってます。あとはもう一度最終チェックしたら印刷して、データも送ります」

「ありがとう、流石だね」

 そう言って影井は買ってきたコンビニ弁当の封を開け始めた。生姜の匂いが部屋中に充満し、影井は少し申し訳なさそうに窓を開ける。窓からは春の日差しが差し込み、生姜の匂いも春の香りに負けたのか徐々に薄れていった。

 わたしが働く職場は大手企業の下請けの、そのまた下請けの企業である。そのため部署が少なく社員数も少ない、加えて完全週休2日制と、令和の割に出来た職場である。そのせいか、わたしは8年も事務職として居座ってしまっている。小規模ホワイトな中小企業であるため、数年に一度しか求人も出さない。わたしは未だに職場の中ではである。

 昼食を食べ終え、また作業途中のパソコンに向かう。影井の淹れたであろう珈琲の香りが、換気のために開けられた窓から吹く風に乗りわたしの鼻にも届く。

 今日中に資料の打ち込みが終わりそうだ。スプレッドシートを眺め、わたしは内心ガッツポーズを決めた。

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