2024 凪

 アイスココアに入った氷が、ストローでかき混ぜる度にからんからんと音をたてる。わたしはココアのてっぺんにのっているホイップクリームは、毎回問答無用でかき混ぜてぐちゃぐちゃにする。ココアのほろ苦さとホイップクリームの甘さが混ざって丁度いい塩梅になるからだ。ストローで啜った時、溶け切っていないホイップクリームが少し形を残したまま口に入ることもあって、なんとも言えない美味しさがある。

 カフェの掛け時計の秒針が、時間を刻む音がする。その横にはドライフラワーが飾られている。すぐ目の前、机上にある花瓶には名前のわからない薄いピンク色の花が生けられて、薄暗いカフェに一滴の絵の具を垂らしたような色彩が加えられている。

「その丸っこいのがデイジーで、薄ピンクがガーベラだよ」

 花を軽く鉛筆でつつくわたしに気付いたパパは、作業の手を止めて言った。

「ふーん」

 あまり花には興味がない。名前も花言葉も覚えたら楽しいだろうけど、覚えるまでに相当な時間がかかりそうだからだ。

 今日はパパのカフェが夜営業をする日。数少ない土曜日営業。わたしはカウンター席の背の高い椅子に座っている。細長いグラスにアイスココアを入れてもらい、贅沢にホイップクリームまでのせてもらった。

 バーや飲食店が幾つか入った雑居ビルの2階の一室が、パパの仕事場。元々バーだった部屋らしく、キッチンやカウンターが古いながらも完備されていたらしい。その中をパパが内装にこだわり、昼は陽が当たりやすく、夜は照明を暗めにして敢えて薄暗い、そして家具はブラウンや深紅色で揃えたお洒落なカフェ&バーに生まれ変わらせた。カウンター席は5席、テーブル席は少し狭いながらも2人掛け席が2席、4人掛け席が1席ある。昼間は学生や主婦がよく来ているらしい。そして夜は仕事帰りの会社員や、飲み会終わりの女性がよく来店している。

「今日はお客さん、あまりいないね」

「土曜だから、居酒屋やファミレスに流れているのかな」

 パパが言う。わたしとパパ以外、今は誰もいない。時刻は19時。先程まで一人で来店していた男性がいたが、コーヒーを一杯飲み切り、早々に退店してしまった。

 パパの手元をカウンター越しに覗くと、パフェに使う苺を細かく切っているところだった。切った果物は小分けにして冷蔵庫か冷凍庫に入れられる。客足の少ない日は、パパは大体こうして材料の作り置きを作っている。わたしはココアを啜り、再び宿題に向かい合った。ひらがなドリルと算数ドリル、どちらも2ページずつの宿題が出ている。

「学校には慣れてきた?」

「まあまあかな。友達は増えてきたよ」

「そうか」

 パパは安心したように笑った。入学前、パパはわたしの小学校生活をとても不安がっていた。授業についていけるか、友達は出来るか、そもそも通うことが出来るか。不安げな顔をしながら、わたしの持ち物に丁寧に名前を書いてくれた。

 パパはわたしにママがいないことを、昔から申し訳なく思っている。パパに直接打ち明けられたことは殆どないから、あくまでわたしの想像だけれど。小学校の入学式でも保育園の卒業式でも、沢山の母親が見に来ている中で、パパは少し萎縮しているようだった。そして、わたしにママがいないこと、両親が揃っていないことを帰り道に謝ろうとしてきた。察したわたしは、すぐに話題を変えたけれど。

 店内のアロマの香りに混ざって、コーヒーの香りが漂う。パパがコーヒーミルを回し、コーヒー豆を挽いていた。気づけば果物の作り置きは切り終わったようで、キッチンも少し片付いている。

「少し足が痛むな。凪、雨が降ってるか確認してくれないか」

 パパが言う。わたしは足のつかない椅子から飛び降りて、テーブル席の横の窓を開けて外を覗いた。小雨が降っている。窓を閉めていたから音こそ聞こえていなかったが、窓から見えるアスファルトは濡れている。降り始めてもう時間が経っているようだ。

「小雨が降ってる」

「じゃあ、いつもよりお客さんは来ないだろうな」

 パパは少しだけ足が悪い。もう殆ど治っているけれど、こうして天候が悪い日は自然と足が痛むらしい。

「足、大丈夫?」

「大丈夫だよ、いつものことさ」

 パパはそう言う。立っていられるから、きっと大丈夫。

 からんからん。

 ドアに掛かったベルが鳴る。この音はお客さんが来た合図。わたしはカウンター席に慌てて戻り、パパも仕事モードの顔になる。

「あの、一人なんですけど……」

 折り畳み傘を畳みながら、ベージュのワンピースを着た女性が人差し指を立て、”1人”だとジェスチャーをする。髪が少し雨に濡れ、前髪が額に張り付いている。中にわたしたち以外の人がいないことが見えたのか、薄暗い照明に照らされた顔は少し不安げである。その顔に見覚えがあった。

「未華子さん?」

 わたしが思わず言うと、女性がはっとした顔になる。

「凪ちゃん?」

 この前ハムカツをくれた、ピアノの先生の娘である未華子さんだった。今日は何処かに行った帰り道なのか、前に会った仕事終わりの時より服装も化粧も余所行きに見える。

「凪ちゃん、どうしてここに?」

「ここ、パパのお店なの」

「パパ……」

 未華子さんの目線が、わたしからカウンターの中にいるパパに移る。

「いらっしゃいませ」

 パパがそう挨拶すると、未華子さんの顔は更に驚いた顔になる。

「え、慧くん……?」

 未華子さんは今確かに、パパの名前を呼んだ。

 今度はパパがはっとした顔をし、そして曖昧に笑った。嬉しそうにもばつが悪そうにも見える、そんな顔。少しの沈黙がある。時計の秒針の音が、いつもより大きく聞こえる。

「未華子……」

 パパがそう呟いた。開けっ放しの窓から雨音が響いている。雨音は、先程より強くなっている。

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