第二章 出会い

(一)樊城の初対面

 建物に入ると視界が暗くなり、ひんやりとした空気が身を包んだ。陽に照らされた大通りを歩いて汗ばんだ肌にはその清浄な冷気が心地良かった。

 目が日陰の暗さに慣れるまでしばらく入口に佇んでいた。高く薄暗い天井に人々の談笑が反響していた。想像外に多くの人々が集まっているようだ。気後れしたが歩き出す。太い柱と人々の間を縫うようにして奥へ進んだ。暗い階段に突き当たり、どちらへ行けば良いか分からず引き返そうとした時、案内人に呼び止められ広間へ連れて行かれた。

 広間にはすでに多くの食客希望者が集まっていた。あちらこちらで人の輪ができ談笑が始まっている。大げさに挨拶する人々や笑い合っている人々の傍らを通ると、耳に入るのはどこかで聞いたことのある名ばかりだった。

 この場には荊州の名士〔※7〕が一堂に会していたのだ。広間にいた人々の年齢はだいたい四十代から五十代で、皆貫禄かんろくがあった。私と同じくらいの年齢の若者も何人かいたが、彼らは皆、有名な父親に伴われて来ていた。しかも彼らは金糸で刺繍を施した錦を纏い、態度も堂々としていて自信に満ちていた。比べて私は有名な父親の同伴もなければ、単色で刺繡のない布衣ほい〔※8〕を着たみすぼらしい若者であった。このため私はこの場ではひどく浮いて見えた。人々は皆、口には出さないものの「どうしてこんな場違いな若者が紛れ込んできたんだ?」と不審の目で私を見ていた。

 食客は通常、身分の低い浪人などが衣食を求めて志願するもの。しかし劉備に召し抱えられたいと望む者は多いようだった。何とか劉備と面会し自分を売り込もうと、このような機会があれば真っ先に有力者たちが詰めかけていたらしい。従ってここでは衣食に困る浪人など一人も見かけなかった。本物の浪人が訪れても煌びやかな会場を見れば場違いを悟って帰っただろう。だから会場の中で最も若くみすぼらしいのが私だったというわけだ。

 私はいたたまれなくなり広間の隅の壁際に隠れるようにして立った。

“やはり来るべきではなかった。今後はどれほど頼み込まれても脅されても来るものか”

 心の中で繰り返していたが、舅との約束を果たすために来たのだから逃げることはできない。私は時が早く過ぎることを祈っていた。


 人々の談笑が止んだ。この城で最も高位の人物――樊城はんじょうに滞在する劉備りゅうび――が広間へ入ってきたのである。彼の姿を見て人々は緊張した面持ちとなり、広間の前方へ移動して座った。私は自然と端へ追いやられ城主から最も遠い場所に座ることになった。

 食客希望者本人とその父親たちは皆、姓名を書いた名刺〔※9〕を持参して座の傍らに置いていた。おそらく城主が気に入った者に後日声がけできるよう、名刺を持参するのが暗黙の約束事であったらしい。そのような約束事があったとは知らず私は名刺を持参していなかった。名刺すら出さない私をまた周囲の人々が不審げに見ていたが、もともと出仕するつもりもなく来たのだから問題ないだろう。

 城主は全員が座ったのを見ると、軽くひとこと挨拶して中央の壇上に座った。それを合図に面談が始まった。

 面談とは自由な論戦形式の集団面接だった。意見のある者が姓名を名乗って立ち上がり、自分の考えを披露する。時にはその意見に反対意見が出て白熱した議論が展開されることもあった。城主はそれらの意見を聞き、能力を較べて判断し、気に入った人物がいれば食客または家臣として迎え入れるらしい。このため議論が起こった際には自分の力の見せどころとばかりに、多くの人が議論に参戦して相手を言い負かすなどしていた。同年代の若者たちも次々と立ち上がり堂々たる意見を述べていたため私は感心していた。

 私自身は議論に興味はなかったし、このような場で発表するほどのご大層な意見も持ち合わせていなかった。言うまでもないことだが、私のようなどこの誰とも分からない庶民風情の若者に意見を求める者もいなかった。このため私は面談の間中ひとことも声を発することなく場を眺めていた。


 最初のうちは他人の発言に感心したり尊敬したりしながら会場を眺めていた私だったが、すぐに退屈を覚えた。欠伸を嚙み殺すことに疲れ果てた頃、とうとう私は人物観察を始めた。たとえば「あの人は怠惰な生活が滲み出た体をしているわりに偉そうなことを言うなあ」とか「あの人は善良そうに見えるが裏では相当に汚いことをやっていそうだな」などと。

 しかしそうして暇を潰しているうち私は気が付いた。この場にいる人々は皆が素晴らしく立派な意見を述べるけれども、どこかで聞いたような言葉を繫ぎ合わせているだけに過ぎない、ということに。つまり立ち上がって意見を述べている者の中には本当に自分の考えを持っていて、自分の言葉で話すことができる人間など一人もいなかったのである。皆、情報の収集力だけは優れているが自分の頭で物を考えることができないのだ。そのわりに見かけだけは偉そうである。自分が一番立派だという顔をして、ふんぞり返っている。いったいこの偉そうな木偶でくの衆を見て、本当に偉い立場にある城主はどう感じているのだろう。

 私はそう思って、城主へ目を移した。

 実は私が城主をまともに見たのはこの時が初めてだった。英雄や高位の人物に全く興味がなかった私は、この時になるまで城主をきちんと見ていなかったのである。

 ここでようやくゆっくりと“あの人が有名な劉備という人物なのか”という意識で城主を眺めた。

 劉備は当世最も人気を得ていた人物で、十年も前から英雄の一人に数えられていた。かつて徐州牧じょしゅうぼくだった陶謙とうけんに篤く信頼され牧を譲位されており、朝廷からは将軍・宜城亭侯ぎじょうていこう(豫)州牧に封じられた。目下もっか漢王朝を専横している虐殺魔、曹操に反旗を翻したことで全土の人気を集め一躍英雄となった。家格も由緒正しく景帝〔※10〕の末裔に当たるとか、今上きんじょう〔※11〕が御自おんみずから系譜を調べられ確かにその通りだと仰せられたため、以降世間では“劉皇叔こうしゅく”〔※12〕と呼ばれ敬愛されていた。

 庶民から見れば紛うことなき雲上の人だった。私が隆中の人々に「この目で劉備を見た」と告げれば、彼らは興奮して卒倒してしまうかもしれない。

 しかし現実にこの目で見た劉備は世間で騒がれている偉人のようにはとても思えなかった。彼はたいして大柄なほうではなかった。年齢はこの場にいる偉そうな名士たちと変わらないはずだったが、見た目には三十代半ばかと思えるほど若々しかった。そのぶん貫禄には欠けていた。親しみのある人なつこい顔に、気さくな笑みを浮かべたその様子は「中華で十本の指に入る英雄」と言うよりむしろ「近所のお兄さん」と呼ぶほうがふさわしいように思えた。この室内で最も高位の彼が、一番偉くないようだった。

 いったい、あれだけ有名で高い地位にありながら、少しも偉そうな態度を取ることがないあの人はどういう人なのだろう? 私はそう思った時から城主に興味を持ち、しばらく眺めていた。


 だがそうして城主を眺めていた時だった。

 私はあることに気付いた。そしてその瞬間に背筋が凍るように感じたのだ。

 ――瞳が、真剣だ!

 城主は驚くほど真剣な目をしていたのである。その気さくな笑顔とは裏腹に、瞳にはぞっとするほどの冷たい光が宿り、発言をしている相手の姿を捕らえて放さなかった。

 さらに私は城主が、相手の話を聞いていないことを知って驚いた。彼は言葉など全く耳に入れず、ただ意見を言う人の目をじっと見つめているだけなのだった。

 この瞬間私は城主に畏怖を覚えると同時に、奇妙な共感を覚えた。不思議なことだが、今この室内で城主と自分が全く共通の考えで結ばれている気がしたのだ。まるで、このどうしようもない人々の集まる空間の中で、あの人と自分だけが同じ種類の存在であるようだった。

 馬鹿馬鹿しい空想かもしれない。相手はこの室内で最も高い立場にある人物、対して私は室内で最も低い立場の人間なのだ。それなのに彼と自分が共通の考えを持っているなどと勝手に思うのは、図々しいにも程があるだろう。だが本当にそう思ってしまったのだから仕方ない。

 何故だかよく分からないが、私は“あの人と自分は全く同じ気持ちによって、この広い地上で結ばれている”と強く感じたのである。


 ふと気付くと面談は終わっていた。人々は席を立ち、出口へ向かって列をなしている。

 いけない、自分は何をやっているのだろうと思った。あれだけ早く帰りたいと願っていたのに、最も後に出て行くことになるとは。

 私は慌てて立ち上がった。その瞬間、城主が私へ視線を向けた。そして必然的に私は城主と目が合った。


 それはほんの刹那せつなのこと。その刹那で私は城主の目の中に、何か驚きのようなものを見た気がした。

 私は不思議に感じた。城主が私を見た時の微かな驚きの表情が、まるで知り合いに会った時のものに似ていたからである。

 まさかそんなはずはないと思いながら、もう一度城主に目を向けた。すると城主も再びこちらへ目を向けた。その瞳からはもう先ほどの驚きは消えていたが、彼も何故だか不思議そうな顔で私を見ていた。

 私はその城主の様子を見ているうち、非常に強い直感が湧いてくるのを感じていた。それはあの人物が、間違いなく自分と共通の何かを持っているという直感だった。そして私はその直後、さらにはっきりと確信したのだ。

“自分はあの人と、話をすることができる”と。

 この時の直感を説明することは難しい。とにかく私はあの人と、話を交わすことができると感じていた。そしてその直感がもし本当であれば、自分は今ここであの人と話を交わさなければ必ず後悔すると思った。何故なら自分があのような人物と会うことができるのは、一生に一度、今日この時しかないと知っていたからである。

 私はまるで何かに操られるように、再びすとんと腰を下ろした。そして私以外の出仕希望者が全員名刺を置いて出て行った後も、その場に座り続けていた。

 広間の隅に立っていた城主の家臣たちは、いつまでも居残っている私のことを不審人物とみなして警戒を始めたようだった。よく考えれば私は刺客(暗殺者)と思われても仕方のない行動を取っていたのである。しかしそのように疑われても広間を出て行くことができなかった。


 この時、私の心臓は早鐘のように鳴っていた。家臣たちの警戒の視線が痛いほど身に突き刺さり、手や背中は汗で濡れた。そもそも城主に話しかけようにも、いったいいつ、どんなきっかけで話しかければ良いのか見当もつかない。もうこんな分不相応な挑戦はあきらめて、今すぐ立って広間を出て行こうと何度も思ったのだが、立とうとすると身体が震え出して立つことができないのだ。

 緊張が耐えられる限界まで膨れた時のことだ。ふと私は違和感のあるものが目の端に映ったという気がした。顔を上げて見ると、それは城主の姿だった。

 城主は、家臣たちの警戒と私の緊張とで張り詰めた空気が充満するこの広間で、一人落ち着いていた。何食わぬ顔で肘掛にもたれ悠々とくつろいでいたのである。 

 私はあまりの緊張のせいでそれまで気付かなかったが、考えてみれば城主の行動も不自然なものだった。不審な若者が居残り、家臣たちが若者を警戒して睨みをきかせているその前で、まるで自室にいるかのようにくつろいでいる。

 私はここでようやく悟った。明らかに、あの人は私が話しかける時を待っている。

 たまに、ちらちらと顔を上げ、私を眺めるのがその証拠だ。わざとらしいその態度は、まるで父親が子供が話しかけてくる時を待っているかのようだ……。

 このことに気付いた時、私は緊張が解けていくのを感じた。そして城主が手の中に持っている何かを見ているうちに、自分でも知らないうちに立ち上がっていた。家臣たちが一斉に構え、腰に提げた剣の柄へ手をやった。かちゃりと剣が抜かれる音も聴いたが、かまわず歩き続けた。


「それはいったい、何をなさっているのですか?」

 私が突然話しかけたので、さすがに城主は驚いた表情をした。そして手の中の物をぽん、と前へ投げ出し言った。

「見て、分からないか?」

 私は手芸に疎いのとすっかり舞い上がってしまっているのとで、それを目にしても何であるのかよく分からなかった。

「申し訳ありません。私は手芸に疎いもので、よく分かりません」

 正直に言うと城主は少し眉を上げ笑った。近くで見た彼の瞳は二重ふたえで丸く、子供のように澄んでいた。室内の光を映して輝きを浮かべた瞳が楽し気に細められる。

「手芸だって? はは、確かに手芸だな。これは旗の飾りだ。牛の毛をもらったので編んでいた。私はどうも昔から“手芸”が好きで、暇があればこうして手慰みに嗜んでいるのだ」

 私は彼が“手芸”という言葉を強調して、皮肉で答えたことに気付かなかった。そのため素直にこう言ってしまった。

「そうなのですか。でも、高い地位の方がそのようなご趣味をお持ちとはとても意外です」

 これに城主は片目を細め、私を軽く睨んで言った。

「君はいったい何が言いたいんだ?」

 そこで私はやっと、自分が失礼なことを口にしていたと気が付いた。この時の私の言葉は“有名な武将のくせに女々しい趣味にかまけて無駄に時を費やしている”と受け取られても仕方なかったのだ。慌てて頭を下げた。

「申し訳ありません! 決して、批判の意味では……」

 すると城主は怒るどころか、可笑しくてたまらないとでも言うように喉の奥でくっと笑った。そして笑顔のまま言った。

「いいよ。面白いな。青年、名は何というんだ?」

 血の気が引いた。まだ名乗ってさえいなかったのだった。初対面の人に話しかけるのに姓名を告げないとは最大無礼。重ね重ねの無礼に私は恐縮しながら答えた。

「諸葛、亮と申します。あざなは孔明です」

 城主は戸惑ったように聞き返してきた。

「えっ。ショカ…何だって? めずらしい姓でよく分からなかった。字は何と言ったか?」

 漢で二文字の姓はめずらしい。“諸葛”は故郷では知られた名家だったが、漢の全土には知れ渡っていなかった。このため初対面でなかなか聞き取ってもらえず、私は自己紹介のたび同じ反応を受けていた。慣れたもので再び姓から名乗ろうとしたが、城主はそれを遮って言った。

「まあ、亮くんでいいよな。それで、亮くん、私に何の用だ?」

 初対面の人にいきなり下の名を呼ばれ驚いた〔※13〕。この人は物凄く型破りな人なのだろうか、と思った。

「実は、あなたと話がしてみたかったのです」

 正直に告げると城主は声を立てて笑い、重ねて聞いてきた。

「話? 何の話だ」

 私は困り果てた。ただ城主と話がしたいと思っただけで、その内容までは考えていなかったからだ。

 昨今の世間で話題となっている論点は今日すでに出尽くしていた。自分が今日この場で出された以上の話を、この人に向かってできるはずがない。あれこれ考え話題に迷っているうちに時が過ぎていく。城主だけではなく、いつの間にか周りに集まって来ていた家臣たちまで私に注目していた。年上の武将たちから視線を浴び、焦った私はつい常識的な意見を持ち出してしまった。

「劉将軍、あなたはここ荊州を統治する劉鎮南ちんなん(劉表)と曹操を比べ、どちらが兵法で優ると思われますか。また、ご自身はいかがですか」

 城主は顔色を変えずに答えた。

「当然、兵法では曹操が上だろうな」

「兵法では曹操に敵わないと仰るのに、あなたの軍勢はわずか数千。これで曹操に対抗するのは無謀というものでしょう。もっと軍備を増強すべきではないでしょうか」

 私を注視していた家臣たちは、この変わり者の青年が何を言うかと期待していたようだった。しかし私が当たり前のことを口にしたので失笑した。誰かが「それはそうだ」と呟き、あちこちからクスクスと抑えた笑い声が聞こえてきた。失敗した、と思った私は恥を覚えて顔を赤らめた。

 ところが城主は少しも笑わなかった。そして真剣な表情でこう訊ねてきたのだ。

「うむ。実はその件については我々も困っているんだ。どうすれば良いだろうか? 亮くんに何か良い考えはあるか」

 意外な反応に私が戸惑っていると城主は促した。

「私は、亮くんの意見が聞きたいのだ。君の考えを話してみてくれ」

「は……はい!」

 心の底から、驚いていた。城主は出自も分からない私のようなみすぼらしい若者に、本気で意見を求めてくれたのだ。

「まずは兵士を増やすべきです。荊州の人口は少ないわけではないのですが、戸籍への登録を免れている者が多くいます。この不完全な戸籍の人数に基づいて兵を募るので、不公平を感じた民が反発を覚えて集まらないのです。民が求めているのは公平さです。民も皆、曹操の独裁支配に抵抗するつもりでいます。公平に兵を募り褒賞も明らかにすれば、すぐにでも多くの兵が将軍のもとへ集うでしょう……」

 私は夢中で話を始めていた。それからは記憶がなく何を話したか忘れてしまったが、どういうわけか後から後から話が湧いてきた。不思議なことにこの人へ話をしていると、自分の最も奥深くの考えまでもが表に出てきてしまうのである。

 この時、城主は私の話をただ聴いてくれただけではなかった。楽し気に目を輝かせながら私に対等の議論を求めてきた。しかもそれは高位の人々によくありがちな見せかけのへりくだった態度とはまるで違っていた。彼は心から自分が私と対等の立場だと思っていたのだった。そのため私は話しているうちに、一回り以上も年上の遥かに高い地位にあるこの人が、近所に住む知人であるような錯覚に陥っていた。あるいは十年来の、気心が知れた友人のように錯覚した。


 気が付くと、私は城主の家臣たちまで交え話をしていた。時に楽しい笑い声が弾け、時には皆が真剣に私の話へ聞き入り、意見も飛び交って場は大変に盛り上がった。

 この状況に気付いたとたん恐ろしくなった。

“なんという、はしたないことを! 歴戦の偉大な武将たちと、まるで友人のように話し込んでしまうとは……”

 冷水を浴びたように我に返った私は慌てて城主と彼の家臣たちへ頭を下げた。

「申し訳ありません! 分をわきまえず、長時間お邪魔してしまいまして」

 すると城主も家臣たちも驚いて辺りを見回した。その場にいた誰もが気付かなかったことだが、外は日が暮れ、室内には灯りが灯されていたのだった。

 城主はまるで夢から覚めたように呟いた。

「あ、もう夕刻か。気が付かなかった」

 家臣たちも口々に言った。

「なんだか、ずいぶん話し込んでしまったなあ」

「あまり面白い若造なんで、時を忘れてしまったよ」

 私は顔から火が吹き出るような想いで、拱手こうしゅの礼をとりながら言った。

「本日は私のような者のお相手をしていただき、ありがとうございました。直接に声をかけるだけではなく、このように長い時間お邪魔してしまいまして、何とお詫び申し上げたら良いか分かりません。度重なる無礼、どうかお許しください」

 城主や家臣たちは笑った。城主は言った。

「なに、全然かまわないよ。無礼だなんて少しも思っていない。君のような若者だったらいつでも大歓迎だ。ところで亮くんの家はここから遠いのか? もう遅いから泊まっていったらどうだ」

 もったいない申し出に私は驚いた。そのまま食客として留まることになりそうな雰囲気だ。

「とんでもない。城内の宿に泊まるつもりですし、宿がなれば夜中でも歩けますから帰ります」

「そうか。では誰かに宿まで送らせよう。おい、誰か馬を出せ。この青年を宿まで送ってやってくれ!」

 城主が声を張り上げたので私は慌てて断った。

「本当に、本当に結構です。一人で歩けますから」

 すると城主はようやく引き下がった。厚意を無下むげにしたなどと怒る様子もない。

「そうか? だったら気を付けて帰ってくれ」

「はい。ありがとうございます」

 私は急いで退室しようとしたが、ふとあることが頭に浮かび立ち止まった。そして城主に向かい、こう言った。

「最後にもう一つだけ、お伺いしてもよろしいですか?」

 城主は気持ち良く答えた。

「いいよ。なに?」

「……あなたは、普段、そのお立場にいて何をお考えなのでしょうか?」

 この質問に家臣たちは驚いていた。解釈によっては嫌味にも聞こえる。目上の人に対してする質問ではなかった。さすがの城主もこれには怒り出すに違いないと思い、覚悟を決めた。

 しかし城主は少しも怒ることはなかった。それどころか、ふっと真剣な表情になりこう答えたのだ。

「泣いている、大勢の女の人と、子供たちのことだよ」


 衝撃で目眩がした。なんということだろう。それは私が長い間、高い地位にいる人々へ求め続けてきた言葉だったのだ。

 胸の最も深い部分に仕舞い込んでいた、人としての根源的な願いが騒いだ。たとえようのない切なさが湧き、強く強く私の心を締め付けた。私はこの時ひたすら、このような人が地上に存在していたことを天に感謝した。もし許されることならば私はこの場で幼子のように泣き出していたことだろう。

 思わず、私は劉玄徳皇叔に対して深々と頭を下げた。そして一言、言った。

「ありがとうございます……」

 城主は始め不思議そうにしていたが、何も聞かず、ただ「うん」と答えた。この時、城主は私の気持ちが分かっていたのだろう。

 私は今にも涙がこぼれ落ちそうになるのを必死で堪え、顔を上げて言った。

「私はあなたのような方を知ることができ、本当に幸福です。それだけで、私はもう人生に対して何一つ求めることはありません。これから先、私が庶民として生きていくなかで、あなたの存在は希望の光となるはずです」

 城主は私の言葉を繰り返すように、茫然と呟いた。

「……庶民」

「はい。これからずっと、私は庶民としてあなた方のことを応援していくつもりです」

 すると背後にいた家臣の一人、関羽かんう将軍が私に声をかけた。

「ちょっと待ちなさい。亮氏は、我が君の食客となるためここへ来たのではないのかね?」

 私は正直に答えた。

「はい。申し訳ありません。実はこの場には、舅を納得させるために参りました。仕官を断り続け、庶民として生きる決意でいた私に、舅が最後の機会として面談に参加することを求めたのです。約束は果たしましたから、この先は私の思う通りの人生を選ぶことができます。今後は生涯を庶民として暮らしていくつもりです」

 その場にいた人々は全員唖然として目をしばたかせた。理解が追い付かないらしい。仕えるつもりもないのに食客希望の面談に参加するなど、普通の人ではあり得ない行動だ。いくら説明しても理解してもらえないと分かっていたので、私もそれ以上は説明をしなかった。

 ただ一人城主だけが納得したように呟いた。

「そうか。そうだったのか……」

 私は自分が余計なことまで話したことに気付き、また頭を下げた。

「申し訳ありません。失礼なことばかり言ってしまいまして。では私はこれで帰ります。今日はありがとうございました」

 そう告げて今度こそ広間を出て行こうとした。その時、

「亮くん」

 と呼び止められた。何だろうと思って振り向くと、城主を始めその場にいた全員がこちらを見ていた。

「また、ここへ来てくれよな」

 城主が言うと家臣たちも口々に言った。

「そうだ。いつでも、気軽に来ていいんだぜ」

「遊びに来るつもりで、来てくれていいよ」

 私はこの温かい言葉に心から感動した。そして「ありがとうございます」と答えた。だが二度と来ることはないと思っていた。遊びに来るなどとんでもない、庶民の分際でそのようなことができるはずがないのである。

 彼らとはもう二度と会うこともないだろう。しかし私はこの出来事を、ずっと心に抱いていこうと思った。あのような人々が高い地位にいるという事実だけで、私は希望を持って生きていくことができるのだ。


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注釈


※7 後漢当時、正確な定義で“名士”と呼ばれる地位の人々は存在しない。ここでは豪族や名家などを指す一般日本語として、「地元の有力者」というほどの曖昧なニュアンスで用いた。


※8 布衣(ほい)とは古代中国で、庶民が着る飾りのない単衣のこと。官位がないことも指す。例「臣本布衣…」『出師表』


※9 名刺は後漢時代から盛んに使われるようになった。細長い木札に姓名や字、階級、簡単な伝言などを記す。通常は訪問先が留守だった場合に、自分が訪問したことを知らせるため置いて帰った。今回の話のように初対面の相手へ名を覚えてもらうため持参することもあっただろう。


※10 劉備は前漢6代皇帝・景帝の子、中山靖王劉勝の末裔。1960年代以降、劉備の血統の話を『演義』で創作されたフィクションであると印象操作する論が叫ばれた。現在日本でも「劉備は皇帝の血統だと詐称した。皇帝の地位を簒奪するための強欲な嘘だ、犯罪だ」との説が大声で宣伝されている。しかし劉備の血統の話は正史にも記載がある史実である。劉備が許昌にいた時、献帝が系譜を調べ確かに劉備の言う通りだと証した。

詳細 https://shoku1800.tokyo/2022/11/post-7623/


※11 今上(きんじょう)とは、現在の皇帝のこと。ここでは献帝を指す。


※12 皇叔(こうしゅく)とは皇帝の叔父のこと。


※13 古代中国では、成人男性の下の名である“諱(いみな)”を呼ぶことは失礼にあたるとして避ける。年上であっても同様で、親族や幼馴染み以外は名を呼ばない。親しい者同士、名を呼び合うのを避けるために字(あざな)があった。


〔今回のストーリーについて解説〕

この『第二章 出会い』前半は筆者の感覚に基づき表現した話だが、裴松之が注に引く『魏略』『九州春秋』に一致する(ただし当作は諸葛亮視点であることなど細部は異なる)。「荊州の人口…」との具体的な会話内容は記録文を参照して描いた。



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