陳寿の嘘? 管仲・楽毅と『梁父吟』

この小説では一般フィクションでも用いられることの多い


・諸葛亮は若い頃、管仲楽毅に自分をなぞらえていた

・『梁父吟』を口ずさんでいた


とのエピソードはカットしました。

カットした理由を解説致します。



■諸葛亮は若い頃、管仲・楽毅に自分をなぞらえていた? …それはないと思います


『正史』本文には確かに

「若い頃の諸葛亮は管仲・楽毅に自分をなぞらえていた」

とあります。


管仲は文官で最も評価の高い人物、楽毅は武官で最も評価の高い人物。つまり「文武の最高峰に自分をなぞらえていた」と言うのですが、私はこの記録に疑問を抱いています。


まず後年、諸葛亮自身が

「乱世にどうにか生き延びることだけを考えており、現在のように世間の人々に名を知られることなど全く望んでいなかった」(『出師表』)

と書いていることから、若い頃そのような自信のある発言をしていたとは考えにくいです。仮に何かの冗談で青年期には大言壮語を吐いていたのだとしても、管仲はともかく楽毅を挙げるのが不可解。


おそらくこの記録文は諸葛亮の葬式で後主劉禅が読んだ哀悼の詔、

「ああ君は文武両道にたけ、世に絶する才能と誠実さを備えていた…」

を投影した噂話。

陳寿が政治的な理由のない箇所で嘘を挿入したとは考えにくいので、記録文が書かれた時代にはすでに「諸葛亮は若い頃から管仲・楽毅を目指していた」との噂話が事実であるかのように語られていたのかもしれません。


(もっとも諸葛亮はマイペースで言葉足らずな性格ゆえに、当小説で描いたような大言壮語と曲解される場面は実際よくあったと思います)



■「『梁父吟』を口ずさんでいた」は政治的な作り話です


同じく『正史』本文に

「諸葛亮は若い頃、『梁父吟りょうほぎん』を口ずさんでいた」

との記述があります。


しかしこれは政治的な理由――当時の晋政府の要請で挿入された作り話の可能性が非常に高いです。


詳しくご説明いたします。


もともとは斉の宰相、晏嬰あんえいを唄ったとされる『梁父吟』。

ですが諸葛亮の作として伝わるこの唄には、後述の意味が隠されています。


<引用 『梁父吟』読み下し>

 歩みて出ず斉城の門、遥かに望む蕩陰の里

 里中に三墳あり、累々として正しく相似たり

 問ふならく是れ誰が家の墓ぞ、田彊と古冶子なり

 力は能く南山を排し、文は能く地紀を絶つ

 一朝讒言を被れば、二桃もて三士を殺す

 誰かよくこの謀をなす、相国斉の晏子なり


現代日本語訳:古い時代の国の門を出て、遥かに歩くと、蕩陰の里がある。ここによく似た、三つの墓がある。これは田彊と古冶子(と公孫接)の墓である。彼らは文武に優れていたが、ある日二つの桃を取り合って死んだ。さてこの見事な計略を果たしたのは誰だろうか? それこそ、かの斉国の名宰相、晏嬰さまである。

<引用終わり>


勘の良い方はここでピンと来ると思いますが、この争い合って滅びる三者とは三国時代の魏・呉・蜀のことです。


以下に暗喩を解読して翻訳します。


「里中に三墳有り。累々として、正しく相似たり」 

 ――ここに三つの墓がある 三つとも同じような墓である

「問ふならく、是れ誰が家の墓ぞ」

  ――これは何の墓だろう 

「田彊と古冶子(と公孫接)なり」

  ――蜀と呉(と魏)の墓である              

「力は能く南山を排し、文は能く地紀を絶つ」

  ――三国とも強大な力で大陸を支配していたが

「一朝讒言を被れば」

  ――欲に目が眩んで

「二桃もて三士を殺す」

  ――領土を求め、争い合って滅んだ

「誰か能く此の謀を為す」

  ――誰がこの三国を滅ぼしたのか

「相国斉の晏子なり」

  ――偉大なる晋の祖、司馬炎である


若い頃の諸葛亮がこんな予言を唄っていたでしょうか?

そんなわけがありません。


もちろん晏嬰が二桃をもって三氏を争わせ滅ぼしたことは実際あったことですが、この唄が晋代の創作であることは「三者」と言いながら二人の名しか出てこないことで明示されています。晋朝は魏から政権を禅譲されたことになっていますので、三国のなかの魏を省く意味で二人の名しか出していないのです。


『蜀志』にこの唄のタイトルを挿入したのは晋から蜀・呉への侮辱であり、特に当時も人気だったらしい諸葛亮を貶める目的で若い頃の彼に唄わせたのでしょう。


陳寿は諸葛亮へ個人的な恨みがあったのでは? と噂されていますが、確かにそう思われても仕方のない侮辱行為と言えます。

おそらく陳寿は晋政権のもとで言論コントロールを受けていたため、政治的な要求に従わざるを得なかったのではないかとも思いますが。


ただしこの明白な“政治的挿入文”があることで、陳寿の『正史』が晋政権におもねって書かれた歴史書であると証明されるでしょう。


つまり『正史』は、晋政府の前の魏について「都合の悪い話」が相当にカットされている史書であることが裏付けられるわけです。特に曹操について都合の悪い話は極力カットしていたと言えます。


(そのわり「曹操は若いころ嘘つきでイキっていた」とか「曹操の通り過ぎるところ多くの住民が虐殺された」と書いているのは陳寿による最大限の抵抗だったのでしょうか? または当時の民間であまりにも有名過ぎる話だったので触れないわけにもいかず、一言だけ触れた感じか。「いちおう報道したよ」とのパフォーマンスですね。なんだか「報道しない自由」を振りかざす21世紀の大手メディアのような態度です)



■陳寿は嘘つき歴史家?


このように陳寿は晋政権の言論コントロール下で、時に政治的な都合による史実カットや作り話も挿入しています。


政治的理由による作り話の挿入だけではなく、

「劉備は手が長く耳も大きかった(=劉備は人助けのためにどこまでも手を延ばし、家臣たちの意見をよく聴く耳を持っていたという喩え)」

といった民間の噂話レベルのことも書きました。

「諸葛亮は若いころ管仲楽毅に自分をなぞらえていた」

という話も民間の噂話です。

『魏志倭人伝』にも相当におかしな嘘が書かれているようです。


それでも陳寿を「嘘つき歴史家」と断じて、『正史』の全てを否定するのは間違いです。


陳寿は大枠では嘘をつかず、政治的な捏造は最小限に留めた印象があります。

後世の史家、たとえば裴松之のような人が補足で史料を加えれば足りるように計算していたのか。


この点、歴史を完全に破壊して反転させる目的で、根本の事実から書き変えてしまうナチスや中国共産党といった近代の「歴史捏造主義」とは大いに異なります。


歴史修正は人類に対する裏切りであり重大な犯罪です。

陳寿のような僅かな歴史修正も本来なら許すべきではありませんが、近現代人の悪魔のごとき「歴史捏造主義」に比べれば可愛い過ちだったと言えるでしょう。


人間性において近現代人は、古代人より遥かに劣るようです。

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