史実の曹操ってどんな人だった?

現代では曹操そうそうを「正義の人」と宣伝する声が大きいため、『我傍に立つ』で描く史実の世界観が伝わりづらいだろうと思います。


そこでこのページでは、あまり知られていない史実の曹操についてご説明しておきます。




■現代の曹操像は史実を180度反転した“美しい曹操”


まず基本的な話から。


マンガなどで描かれる「八頭身美形、民想いの高潔な人・正義の人」である曹操は史実を180度正反対にひっくり返した完全に嘘の人物像です。


驚かれるでしょうが、現代の歴史学者などもこの反転させた“ウソ(嘘)曹操”を史実だと偽って宣伝しています。YouTuberの話や、ここ三十年ほどの間に出版された三国志解説本はだいたいウソですから、どうか信じないでください。


何故こんな歴史改変プロパガンダが行われているのか? という背景の話は政治思想がらみであり、非常にややこしいのでここでは控えます。

興味ある方はこちらのmin.tまとめをお読みください。

https://min.togetter.com/6qDMPgn


史実の人物像を知るためには『正史』と呼ばれる記録書を読まなければなりません。

しかし退屈な『正史』を読むのはなかなか難しいことだと思います。ここで簡単に史実をご紹介していきます。



■容姿醜く、出自にもコンプレックスあり。反動でイキっていた少年時代


吉川英治を始めとする日本の『三国志』フィクションでは、八頭身の超絶美形な、織田信長に似たヒーローとして描かれる曹操。

美形の英雄だと信じて曹操へ恋した人も多いでしょう。


しかし史実の曹操は、“容姿が非常に醜かった”と記録されています。

もちろん写真が残っていないので現実にどんな容姿だったかはっきりと分からないのですが、記録上は「歪んだ顔で細い目をしていた」そうです。

曹操自身も容姿に劣等感を持っており、使者と会うときには常に立派な容姿の家臣を代役として立てていました。


曹操信者たち(カルト的な曹操ファンのこと)はこの記録を真っ向から否定し、「我が曹操様を憎む敵対者による捏造だ!」と大声で叫んでいるのですが、幾つもの記録書に同じようなことが書かれているので曹操の容姿が醜かったことは事実だと考えて良さそうです。


ちなみに現代中国で曹操の墓が調査されたとき、遺骨から彼の身長は154~5センチだったと判明しました。これは寒冷期の三国時代当時としても低いほうです。

(現代の科学的な調査によって身長の事実が覆せなくなったために、曹操信者たちは今度は「155センチは当時の平均身長だったから曹操の身長は普通」との印象操作を拡散しています。しかしそのような統計データはありません。記録では曹操が体格に自信がなかったと記されているため、この身長が当時の男性の平均より低かったことは明らかです)


何故「曹操は低身長でブサイクだった」という事実が大事かと言うと、その容姿が彼の人格形成に深く関わっていたと考えられるからです。


記録によれば、曹操は容姿の醜さとともに、当時の嫌われものだった“宦官かんがん”の孫という負い目も持っていました。しかも父親は養子で、高位の祖父と血の繋がりはなかった。そんな容姿と出身へのコンプレックスの反動か、若い頃はイキがっていたようです。


正史本文にもこう書かれています。

「曹操は子供のころから他人を騙して操る能力に長け、イキがって遊びほうけており、学問には見向きもしなかった」


また幼い頃のあだ名はなんと「嘘つきちゃん(阿瞞あまん)」。

家族や友人にも嘘ばかりついていた子供で、父親は困っていたとか。これは現代、精神医学上のサイコパスの定義に当てはまります。後の自己中心的で残虐行為を好んだ生き方と合致します。


詳細『曹操はサイコパスだった! 現代の脳科学・精神医学で裏付けられる人格障がい』

https://shoku1800.tokyo/2021/06/post-3395/


嘘つきでイキった自己中心の人が嫌われるのは現代と同じ。

当然のことですが曹操は友達が少なく、彼を有望だと認める人はほとんどいませんでした。

しかし人物鑑定で有名だった橋玄きょうげんという人のもとへ曹操が押しかけ鑑定してもらったところ、

「君は治世の能臣、乱世の姦雄かんゆうだ」

と告げられ曹操は大変喜んだそうです。


【余談】この橋玄の人物鑑定は、曹操信者たちによって「その時代で最も有名だった鑑定士が曹操様に心酔し激賞した(だから曹操様は若い頃から誰もが認める有能な人格者だった!)」と主張されているのですが、史実に書かれている話は違います。

史書によれば、曹操は鑑定してもらいたくて橋玄のもとへ足しげく通っていたが、橋玄は嫌がって鑑定しようとしなかった。ところが曹操があまりしつこく通うので、仕方なく上記の言葉を告げた。…とのことです。つまり鑑定を強要したという話になります。橋玄はストーカーのように通って来る曹操が疎ましく、またその強情さに恐怖も感じ、少し言葉を濁しながら評価したようです。


姦雄(奸雄とも書かれる)とは人を騙してのし上がる悪党という意味なのですが、曹操は「お前は優秀だ」と言われたと勘違いしたのでしょうか?

誰も自分を評価してくれないというコンプレックスがあったためにこの鑑定へ飛びついてしまったのだとも考えられます。


ともかく、この時期のコンプレックスと人物鑑定がその後の曹操の人生を決定づけたと言えるでしょう。



■皇帝を傀儡として朝廷を専横、粛清と虐殺ざんまいの日々


曹操を美化したマンガ『蒼天航路』などで彼は、朝廷を専横した董卓を暗殺しようとした正義のヒーローとして描かれています。


忠臣から依頼されて董卓を暗殺しようとしたことは史実なのですが、曹操自身が正義のために依頼を受けたとは考えづらいでしょう。


曹操は漢王朝の腐敗の原因となっていた宦官を征伐しようと持ち掛けられたとき、「悪は必要だ」と断っています。


また『演義』など古典フィクションでも有名な言葉、

「俺は他人を裏切るが、他人が俺を裏切ることは許さない」

は実際に彼の発言として史書に記録されています。


この発言からも分かる通り、彼の行動原理はすべて一環して「自分のため」でしかないのであり、民のために悪を誅殺するようなタイプの人物では全くありません。「曹操は民を救おうとした正義のヒーロー」との物語は100%ウソの捏造です。


現に董卓が呂布に殺された後は、曹操自らが朝廷に乗り込み専横者となっています。

しかも董卓が可愛く思えるほどの暴虐の限りを尽くしています。


少年だった献帝を傀儡とした曹操は、まず献帝の忠臣たちを軒並み殺してしまいました。中国共産党も真っ青の大粛清です。


ついでにこの時、曹操は過去に自分をバカにした相手なども追いかけて殺しました。権力を手にしたとたん、私怨での虐殺パーティをお愉しみになったわけですね。


後に皇后も、皇帝の実子も、自分に反抗的だから・独裁に邪魔だからという理由で殺しています。


大粛清で朝廷を牛耳った後には、漢の全土へ向け、自分の独裁統治に従わない相手を潰すため軍隊を派遣しました。


たとえば呂布や劉備、袁紹などに対してです。


しかしこれらの戦闘は凄惨なもので、すでに降伏している捕虜全員を生き埋めにしたり鼻を削いで殺すなどの残虐行為をしたと記録されています。


記録:

「諸書にすべて、公(曹操)が穴埋めにした袁紹の軍勢は八万だったとか、あるいは七万だとかいっている。」


また曹操は民間人を虐殺して歩きました。曹操を持ち上げるために書かれた正史ですら

「曹操軍が通り過ぎたところはどこでも多くの住民が虐殺された。」

と書いています。

詳細な解説もいらないほど、当時の中華では曹操の虐殺行脚が有名だったのです。


当小説の冒頭で描いている虐殺後の光景は、曹操の虐殺行脚のなかで最も有名な“徐州住民虐殺”です。

それは曹操の父親が徐州で殺害されたことの復讐として、徐州住民を皆殺しにしようとした中華史最悪の大ジェノサイド事件。


曹操の歴史を反転しようとしている“曹操信者”たちは、ありとあらゆる屁理屈をもってこの住民ジェノサイドを否定しようとしています。

これから三国志を学ぶ皆さんは彼ら信者の態度を見習わないでください。


自分たちのイデオロギーに合わせて、集団で同じ説を大声で叫び史実を無理やり改変・抹消しようとする行為は、ナチスや共産勢力がしていることと同じ「歴史修正」の犯罪です。

人類に対する犯罪ですから読者様はどうか加担することのないよう願います。


記録はまず尊重すること。

解釈を変える場合は、史書全体に矛盾しない筋の通った根拠が必要です。

(ほんの一部分だけ切り取って都合良く歪んだ解釈をしないこと)


曹操の民間人ジェノサイドについては、あらゆる記録文で同様のことが書いてあります。どのような経緯にせよ、曹操が民間人を虐殺して歩いたことは消すことのできない歴史上の事実です。



■当小説との関係


当小説、『我傍に立つ【諸葛孔明 自伝風】』で主人公たちが対峙する相手(曹操)にはこのような背景があります。


曹操を美しい正義の人だと勘違いしている限り、当小説のストーリーは理解できないと思います。


少なくともここに書いた歴史事実だけは知っておいてください。



◆Wikipediaからの引用


最後にWikipedia 2023年6月9日版より、ここで解説した「曹操の虐殺」に関する箇所を引用しておきます。

以下はクリエイティブ・コモンズ(CC)3.0に基づいた、適法な引用文です。


引用元(指定日アーカイブ)

https://web.archive.org/web/20230609213215/https://ja.wikipedia.org/wiki/曹操


クリエイティブ・コモンズとは

https://creativecommons.jp/licenses/



<引用>

曹操、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将・政治家。…略 民間人虐殺や捕虜虐殺、廷臣の大量粛清、皇帝を傀儡化し漢王朝を専横した等の史実によって古来悪名が高く 羅貫中の小説『三国志演義』でも敵役・悪役として設定されてきた。

近現代では魯迅・毛沢東ら共産主義者により曹操称揚 が提唱され、文化大革命 後においては中国共産党の指導により歴史評価の修正が推進されている。 日本でも吉川英治『三国志』、李學仁・王欣太『蒼天航路』等の創作作品が容姿端麗な正義の人として描き、曹操 の美化称揚に貢献した。後に渡邊義浩等を代表とする歴史学者も曹操称揚の主張を展開し、曹操を英雄視する見方を主流として宣伝している。


〔曹操の外見〕

曹操の外見は正史本文(陳寿『三国志』)には書かれていない。野史には「形陋(『世説新語』容止篇)」「姿貌短小(劉孝標が注に引用する『魏氏春秋』)」とある。陵墓の発掘結果によれば、その身長は約155cm(中国之声/央広新聞2009年12月27日)であった。また前出通りその際の分析によって、晩年の曹操は虫歯や歯周病で歯をほとんど失っていたことがわかっている。


〔曹操の犯した虐殺、粛清〕

曹操は『三國演義』以前から沢山の残虐行為が歴史書に記載されている。

現代日本のネット空間では曹操の悪行 を真摯に受け止めず、悪行の否認、疑問視、軽視、正当化、Whataboutism的相対化、ニヒリズム的に開き直った言説が盛り上がりがちである。陳寿三国志を筆頭とした幅広い歴史書に書かれた悪行全体ではなく「曹操は偏った歴史書や演義で悪く言われている」という部分に焦点が当たりがちであり「曹操は不当に貶められている」という被害者意識が共有される傾向にある。


以下に曹操が犯した具体的殺戮について、正史三国志(陳寿三国志本文および裴松之注に引かれた史書)の記述を列挙する。


・呂伯奢一家の殺害。

曹操が董卓から逃走した際に匿おうとしてくれた呂伯奢と、彼の家人を皆殺しにした。殺害に至った経緯については複数の記述が存在する。


「呂伯奢の息子が馬を盗もうとしたため正当防衛で殺害した(王沈『魏書』)」

「呂伯奢一家のもてなしを受けた後で、通報されたら困ると考え殺した(裴松之注『世語』)」

「呂伯奢の家人が食事の用意のために食器を並べていた音を武器の音と勘違いし、殺される前に殺した(孫盛『異同雑語』)」


・攻略した城の破壊、住民虐殺。

曹操は父親が徐州で殺されたことを怨み、193年、194年の二度にわたり徐州を襲撃した。

「曹操の軍によって徐州では男女数十万人が坑殺され、泗水は投げ込まれた死体で堰き止められ流れが止まった。泗水より南の慮・睢陵・夏丘の諸県を攻取し、皆なこれを屠城した。鶏も犬もいなくなり、廃墟になった」とある。(范曄『後漢書』陶謙伝 『曹瞞伝』)


三国志武帝紀本文には「曹操軍が通り過ぎたところ多くの殺戮が行われた。」と犠牲者数には触れないものの各所の虐殺を一括した表現による記載がある。


三国志荀彧伝、三国志孫策伝注、三国志笮融伝、三国志諸葛瑾伝、後漢書陶謙伝等からも徐州虐殺の存在、虐殺による影響が分かるようになっている。 尚、徐州崩壊の原因は飢餓によるもの、という記載は見当たらない。


上記徐州虐殺を筆頭に曹操軍は複数回に渡り「屠城」を行った。これは同時代で一番多い回数である。


太祖攻圍數月、屠之(三国志呂布伝)


屠彭城(三国志武帝紀)


徐州虐殺とは別件。呂布討伐時


曹操攻屠鄴城(後漢書孔融伝)


水攻めで城を破壊した他、袁氏の婦女を犯した、と記載あり


太祖征三郡烏丸、屠柳城(三国志公孫度伝)


淵與諸將攻興國、屠之(三国志武帝紀)


冬十月屠枹罕斬建(三国志武帝紀)


公攻屠之(三国志武帝紀)


仁屠宛斬音(三国志武帝紀)


反乱を起こした民を屠った。

曹瞞伝では反乱を起こした理由は圧政に耐えかねたため、とある。



・官渡の戦いで捕虜虐殺

官渡の戦いの戦後処理で捕虜を生き埋めにした。


餘衆偽降、盡坑之(『三国志袁紹伝』)


裴松之注には「諸書にすべて、公(曹操)が穴埋めにした袁紹の軍勢は八万ないし、七万だと書かれている。」と記されている。”諸書にすべて”とあることから、当時は誰もが知る事実であった。裴松之自身はこの数について疑問を投げかけている。


また戦時中のことであるが 千余人の士卒を殺し、皆な鼻を削ぎ袁紹軍に誇示した(『曹瞞伝』)、と捕虜を殺害、暴力を加えた記述もある



・朝臣を大量に殺害

曹操が許に献帝を迎え権勢をふるうようになった頃の記録に、「宮廷の内外で曹操によって誅殺された者が多くいた」とあり、粛清された被害者の代表として議郎の趙彦の名が挙げられている。(『後漢書』伏皇后紀)。



・私怨で多数の人物を殺害

曹操は許で献帝を傀儡とし実権を得た後、かつて自分を批判した者など怨みがある人々を殺害した(孫盛『魏氏春秋』陳琳の檄文)。


辺譲は博学で曹操にも屈せず批判的な議論を続けたため、曹操の怒りを買って処刑された。(陳琳の激文)尚、後漢書辺譲伝では辺譲は建安年間に亡くなった、とある。


袁忠は沛国の相だったときに曹操が法を犯したので罰しようとし、曹操の怨みを買った。袁忠は遠方の交州へ亡命したが、曹操は使者を派遣して士燮へ依頼し、袁忠と一族を皆殺しにした。(『曹瞞伝』)


かつて曹操が若い頃に侮って彼を見下した桓邵も、同じく身の危険を感じて交州へ亡命していたが曹操の差し金により一族皆殺しとされた。(『曹瞞伝』)



・建安5年(西暦200年)の大処刑事件。

車騎将軍の董承は献帝の密勅を受け、曹操の暗殺計画を企てた(『三国志-先主伝』[43]。しかし事前に発覚し、計画に関係した者[注 28]は一族もろとも処刑された。このとき董承の娘は献帝の妃で妊娠していたが、彼女も捕えられ殺害された。



・皇后とその一族を殺害。

皇后の伏寿は、もと屯騎校尉であった父親の伏完へ「献帝は董承が殺されたので曹操を怨んでいる」旨の手紙を送っていた。しかし伏完は曹操排除を実行できないまま死んだ。この手紙が建安19年(214年)に発覚し、彼女は廃され殺された。兄弟ともども伏一族は処刑された(『三国志武帝紀』


他の歴史書にはより詳細な記載がある。


曹操は華歆に命じて兵を使って宮中に押し入った。皇后は二重壁の中に隠れたが、壁は壊されて引きずり出された。ちょうどそのとき郗慮と会っていた献帝は、髪を振り乱し裸足のまま連行されようとしている皇后が「陛下、またお会いできるでしょうか」と涙ながらに助けを求めたのに対し、「私でさえいつまで命があるかわからないのだ」と言って為す術なく眺めることしかできなかった。皇后はそのまま連れて行かれて殺され、彼女の一族も数百人が殺された(呉人『曹瞞伝』 後漢書伏皇后紀)


尚、伏寿と献帝の間には子が二人いたが、この子供たちも殺されている(『三国志先主伝』 後漢書伏皇后紀)。



・孔子の子孫である孔融を殺害

博学な学者として名声が高かった孔融を疎んじた曹操は「孔融が呉の使者に対し朝廷を誹謗する発言をした」と罪を被せ、孔融の妻子とともに処刑した(『後漢書』孔融伝)[注 29]。


現代日本では癇癪を起こした曹操ではなく孔融を処刑含めて冷笑する言説が盛んであるが劉基が孫権に諫言した逸話のように、当時から不当処刑として扱われていた。



・名医華佗を拷問の末に処刑

華佗は曹操の頭痛を治療していたが 帰郷の念が募り、医書を取りに行くといって故郷に戻り、その後は妻の病気を理由に二度と曹操の下に戻って来ようとしなかった。妻の病気が偽りと判明したので、これに曹操が怒り華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまう(『三国志華佗伝』)。



・崔琰の投獄と自害命令。

崔琰は優れた体格と威厳ある容姿をしていたため、曹操の代わりとして使者の応対をしていた(『世説新語』)

後に崔琰は丁儀の讒言で投獄されたが、囚人となっても立派に見えた(辭色撓まず[44])ため曹操に疎まれ自害を命じられた(『三国志崔琰伝』)

崔琰は人望があり、「曹操に嫌われ殺害された人物のなかで、崔琰は最もその死を惜しまれ、未だに冤罪で殺されたと信じられている」と陳寿が評している。



・楊脩の処刑。

楊脩は曹操が劉備との戦役中につぶやいた「鶏肋」という暗号を解いた人物だった。しかしその後に曹操が彼を処刑している。処刑の理由は諸説ある。

袁術の甥であったことから曹操に警戒されて処刑された説(『後漢書』)

曹操が嫌う曹植の味方をしたことで疎まれ処刑された説(『三国志曹植伝』、『典略』)



・優秀だった少年を危険視して殺害。

幼少時から名高かった周不疑を、曹操は始め息子の曹沖の側近にしようと考えていた。しかし曹沖が死亡した後、曹丕には扱いきれないだろうという理由で彼を危険視し殺した。享年17歳だった(『零陵先賢伝』)。



・愛人を撲殺。

曹操は昼寝をするときに寵愛している女性を傍にはべらせる習慣があった。あるとき「すぐに起こしてくれ」と言って女性の膝枕で寝込んだが、よく寝ていたために起こせなくなった女性がそのまま寝かせていた。しばらくした後に自分で目を覚ました曹操は激怒して、この愛人を撲殺してしまった(『曹瞞伝』)。



・洛陽の北部尉時代、厳しい禁令をつくり僅かでも破った者へ極刑を下した。

霊帝に寵愛されていた蹇碩の叔父も、禁令を破り夜間外出したために即座に捕えて撲殺した。都の人々は震え上がり曹操を憎んだが、追放する口実がなかったため彼を称揚し、頓丘県令に転出された(呉人『曹瞞伝』[注 30])。



・兵糧不足の責任を担当係へ押しつけ、処刑。

敵の討伐に赴いた際、糧秣が不足してきたので困った曹操は担当係を呼んで「どうしたら良いか」と訊ねた。すると担当係は「枡を小さくすればどうにか食いつなげます」と答え、曹操はその通りにした。しかし兵士たちが枡が小さくなったことに気付き、「曹操は自分たちを騙している」との噂が流れると兵糧の担当係に罪をなすりつけ処刑し、「この男が枡を小さくして糧秣を盗んでいた」と布告して遺骸をさらした(『曹瞞伝』)。



・消火に加わった者こそ本当の賊であると主張し、全員を殺した。

曹操は王必が死んだと聞くと激怒し、漢朝に仕える百官を鄴へ召し寄せ、消火に加わった者は左に、消火に加わらなかった者は右に集まらせた。人々は消火に加わった者は無罪となるに違いないと判断し、皆、左の方についた。曹操は「消火に加わらなかった者は反乱を援助したはずはないが、消火に加わった者こそ本当の賊である」と主張し、全員殺した(『山陽公載記』)。



・その他

膨大で書ききれないため殺された被害者をここにまとめる


侍中の臺崇、尚書の馮碩(後漢書献帝紀)


琅邪王の劉熙(後漢書献帝紀)


王模、周逵(三国志陳羣伝)


婁圭


赤壁の敗走中に自軍兵士を踏み殺す(山陽公載記)


<引用終わり>

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る