第五章 精鋭部隊
(一)精神の側近
とても乱世に生きているとは感じられなかった。
平和なここ樊城が私の最初の勤め先となった。〔※52〕
出仕した次の日から私は主人の側近として配置された。右も左も分からない新人が、始めから主人の最も近くに置かれたのである。
この異例の待遇には誰もが驚いた。当たり前のことだが、何の肩書も実績もない若者が出仕直後に頭首の傍に仕えるなどということは、どこの国でも考えられないことだ。神代の
昔からの家臣たちは皆、この待遇に大きな疑問を抱いていた。
「いったい、あいつは何者なんだ?」
「何故、何の肩書もないのに我が君の傍にいるんだ?」
私は自分でも自分の不安定な立場に困惑していたので、たびたび主人に申し出ていた。
「
すると主人はいつも
「あいにく今はどこも空きがないんだよ」
という答えを返すだけなのだ。そしてその後に必ず、こう言う。
「大丈夫。俺がいいって言っているんだからいいんだ」
そう言われると私は何も返せなくなるのだった。
この時期、私と主人はお互いに探していた者を見つけた喜びで完全に舞い上がっていた。
不思議なことは私たちは生まれや育ちは正反対で、性格も違い、年齢も二十歳離れており、そのうえ立場は君主と家臣であったというのに考えの根本が同じであったことである。
話せば話すほど、私たちはお互いの考え方に共通点を見出すことができた。それが非常に驚きであったし、嬉しいことでもあった。
もちろん私たちは何から何まで全く同じ趣味を持っていたわけではない。日常生活に関する好みはむしろ全くの正反対だった。たとえばたいていの場合、彼は身近で具体的な話題を好み、私は遠く抽象的な話題を好んだ。また彼は表で身体を動かすことが趣味だったし、私は室内で読書や思索にふけることが趣味だった。このように私たちは全く正反対とも言える気質を持っていたのだが、こと人生に関する基本的な話題になると、まるで双子のように意見が完璧に一致したのだった。
私は主人と出会って、彼と話をしていくうちに孤独感が急激に癒されていくのを感じた。それまで誰に話しても理解してもらえなかったこと、そして理解してもらえなくて当然だと決めつけていたようなことが彼に話すと嘘のように理解してもらえるのだ。
同様に彼が話すことの全ては私にも理解できた。それは頭で理解するというのではなく、心の最も奥深いところで共感できたのである。彼と私はまるで同じ心で生きているかのように、全く同じことを考えていたのだった。
この時私はまるで、それまで砂漠の中でたった独りで生きてきて初めて生身の人間に出会えたかのような錯覚を覚えていた。つまり私は生まれて初めて本心をさらけ出すことができる相手に出会えたのだ。
それまでの私にも少ないながら友人はいた。だが私は彼らに本当の意味で心の全てをさらけ出して話をしたことがなかった。血の繋がっている家族にでさえ本心を話したことはなかった。どれほど親しい人でも、私の言葉を心から理解できる人などいなかったからだ。でも私はそのことを当然のように思って生きてきた。別々の人間として生きているのだから完璧に理解し合えなくて当然だと思っていたのだ。人間同士、考え方が違っていて当たり前。自分はたった一人で生きていかねばならないものなのだと、信じて疑わなかったのである。
しかし私は主人と出会い、その考えがどれほど間違っていたかということを思い知らされた。人間は決して一人ではないのである。この世のどこかに、必ず本当の意味で理解し合える相手がいるのだ。たぶん私たちはお互いに、その相手と巡り会ったのであった。
ところで私は主人に「自分のような者をどうして雇ったのですか?」などという愚問はしないことにしていた。
何故なら自分が主人の精神的な補佐役だということは感覚的に分かっていたからだ。見えない世界、つまり精神世界での勝利のために、お互いがお互いにとってどうしても必要な存在だったというだけのことだ。
――しかし。当たり前だが、そのようなことが他人に理解できるはずがない。
古参の家臣たちは自分の主人が、何の才能もない若者に“とち狂っている”と思って疑問と怒りを抱いていた。やがてそれが原因で仲睦まじい陣営に乱の兆しまで見られるようになった。それでも周りが見えなくなっていたその頃の私と主人は何も気付かずにいたのだった。
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※52 荊州における劉備の本拠は新野だったが、襄陽に用がある際は樊城に滞在していたと思われる。孔明出仕時、劉備は頻繁に襄陽を訪れているため主に樊城にいただろう。詳細は解説 『劉備と諸葛亮が初めて会ったのは、樊城か新野か?』
※53 「主公」は、会話文で主人に呼びかける時の表現。地の文では「主人」とする。
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