(三)徐州牧へ 慕われ過ぎる人の苦悩
時は少し遡る。
当時の平原は貧しく、民は
また主人は晩年までそうだったように、身分の低い者でも同じ卓で食べるなど相手によって態度を変えることなく接した。このため士人の間でも評判が高まった。〔※37〕
そんな主人の評判へ嫉妬した者がいた。
主人と同姓の劉平は、「自分のほうが
ところが主人は訪れた刺客を手厚くもてなした。「刺客と知らずにもてなした」と世間では伝えられていたが、私が思うに主人は客人の目的に気付いていただろう。だが恐れることなく相手の人物を見て赦し、上客としてもてなしたのだった。
殺しに行ったというのに逆にもてなされて衝撃を受け、また主人と対面で話をしてその人物の深さに魅入られた刺客は、ついに暗殺を実行することができなくなった。そして「私は劉平に命令されて暗殺に来ましたがあなたと話をして殺す気がなくなりました」などと、ありのまま告げて立ち去ったという。〔※38〕
後に主人の魅力を表す伝説として世間に広まったこの逸話、信じない人が多いかもしれない。しかし実際に主人と対面して話をしたことがある者なら誰もが納得し事実だと確信するだろう。かく言う私も主人と直接に会って永遠の忠誠を誓うことになった者、深く納得する逸話だ。
なお本人はこの時のことについて後に思い出語りをすることもなかった。覚えてすらいなかったかもしれない。おそらく主人にとっては特別な事件でも何でもなく、いつも通り客人と接しただけの日常の一つに過ぎなかっただろう。
主人は常に本心のまま振る舞っていただけであり、何故に自分が人から慕われるのか分からなかったようだ。むしろ慕われ過ぎてしまうことを苦にしている面があった。
主人はそのとき
曹操に領民を殺戮されていた徐州の
この時、主人の兵は
主人は陶謙に推薦されて
さらに陶謙は病が篤くなると「徐州を任せられる人物は劉備以外にいない」として、主人に牧を譲位することを遺言して亡くなってしまったのである。
主人は徐州でも領主と民からの厚い信頼を受けていたのだった。
ところが主人は陶謙から譲られた徐州牧の位を辞退した。徐州十万の兵軍も、豊かな領地にもなびかず。
さらにあろうことか「
それは明らかに儀礼上の辞退ではなかった。心の底から本気で拒絶する態度だった。譲位を全力で拒絶された徐州忠臣たちの絶望は想像に
以降連日、陶謙の忠臣たちや名立たる賢者たちが総出で主人のもとへ通いつめ「徐州牧を受けるように」と必死の説得を続けた。「受けろ」「嫌だ」の攻防が私には目に浮かぶようである。〔※39〕
この時は最終的に
それにしても、なぜ主人は徐州牧を
「古来の礼にならった形だけの拒絶だ、本当は野心があったくせに形だけの辞退をした劉備は卑しい奴」「劉備は徐州というお荷物を背負わされるのが嫌だっただけだ」などと悪しざまに噂する者もいる。だが真相は違う。
身近にいた我々だけが知る真相を述べよう――お恥ずかしいことであるが、主人には高い位や領土を与えられると嫌がり回避しようとする性質があったのだった。母のため仲間のために一旗揚げたいと願い世に出たものの、不自由に身を縛る高位までは望んでいなかったのだと思われる。そのため賄賂を求められた際に平気で印綬を投げだし放浪した。「位を持つよりも流浪し闘い続けるほうが良い」という彼の信条は若い頃から生涯変わらず、位を昇るべき重要な局面ごとにその信条が壁となり我々家臣を苦心させた。
欲がないこと、あるいは欲の方向が世俗の強欲な者たちと真逆であった(つまり権力よりも身近な人々や民の素朴な幸せを求めていた)ことは、主人の人格の最大の魅力であった。だが彼の治める世を願う我々には
おそらく主人が過剰に慕われ過ぎる自分の運命について疑問を覚え、苦悩を抱き始めたのは徐州の一件からではなかったかと思う。彼の苦悩は年々募っていき、権力を嫌がる性質も増していったようだ。
徐州で繰り広げられた「位を受けろ」「嫌だ」の攻防はこの後も続くが、それは私自身の記憶語りとして後ほどお話しする。
当時、皇帝を称して新たな国を建てた袁術は漢朝の敵であった。朝廷の名において袁術討伐を掲げていた曹操は、袁術と主人が対峙している知らせを聞くと主人を
ちょうど主人は徐州を荒らしていた
本拠を奪われ妻子も捕虜にとられた主人は、楊奉らを迅速に片付けて下邳へ急行。呂布に降伏して和睦し妻子を取り戻した。ところが主人が小沛で一息つき軍備を整えていた時、報復を恐れた呂布が和睦を破って小沛を急襲した。突然のことゆえ主人は敗走し、やむなく曹操へ身を寄せることとなった。
かつて徐州を蹂躙した曹操に頼ることは主人も不本意だったはずだ。
しかし意外にも曹操のほうは主人を歓迎して手厚くもてなした。この時主人は曹操の推薦で
もちろん曹操は厚意で主人を救援したわけではなく、かつて自分を窮地に追いやった呂布を潰すために出征したのだった。しかし主人は恩義があるため以降しばらく曹操に従うこととなった。
ここに
残酷さで悪名高い曹操は、いっぽうで人へ惚れやすく執着する性質を持っていた。いや実はその他人への異常な執着心こそが曹操の残酷性の源であった。執着が強いゆえに、自分の与えた恩恵に対する見返りが少ないと感じた時や相手が期待通りの行動をしなかった時、怒りが炸裂して残酷性を出現させた。そしてたとえば幼児が飽きた玩具を壁に投げつけ破壊するかのように、虐殺や拷問処刑などの蛮行に及んでしまうのだった。
その惚れやすい激情家のもとへ転がり込んだのが“希代の人たらし”と呼ばれた主人だった。
異常に惚れやすい男と、異常に人から慕われ過ぎてしまう男。二者が対面すれば竜巻が起こることは避けられなかった。
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〔メッセージ〕
今回も正史本文からの書き写しが多めの話となりました。記録文のような小説となってしまい、すみません。(語り手の“記憶”としている箇所は筆者自身のイメージです)
なお呂布と曹操、呂布と劉備との戦闘詳細は本筋から離れるため省略しています。ご了承ください。
注釈
※36 平原郡は現在の山東省徳州市一帯。
※37 王沈『魏書』の記述通り。
※38 正史『先主伝』本文と『魏書』に書かれた逸話。劉平という人物の詳細は不明。陳寿はこのエピソードを引いて「劉備はこれほど人の心を惹きつける魅力があった」と書いている。
※39 一般のフィクション三国志では、劉備は儀礼に則り少しだけ断るポーズをして見せたかのように話を歪めて描かれている。ところが正史本文には劉備が本気で徐州牧を固辞し、陳登や孔融など著名人が押しかけ言葉を尽くしてようやく受け入れさせた様子が記述されている。説得はほとんど脅迫めいており、陶謙家臣たちの必死さと苦心が窺える。
※40 予州は「豫洲」に同じ(豫洲は旧字)。現在の河南省一帯、古来中華の中心地だった「中原」を含む。曹操が本拠とした許も予州。この件、正史『先主伝』には「曹操が劉備を予州牧とした」とのみ書かれており詳細不明。
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