(二)黄巾討伐に起ち、乱世へ漕ぎ出す
〔作者より、前書き〕今回の話は特に残酷な表現がありますので苦手な方は注意してください。正しい史実をお伝えするため残酷な事件に関しても史書の通り描きました。
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このとき主人に従った義勇兵の中には我が陣営の誇る将軍、
他にも大勢の弟分が主人へ生涯の忠誠を誓った。彼らはこの時から死ぬまで主人の
黄巾賊討伐で世に出た劉備軍の活躍は目覚ましいものがあった。
しかし直後に
こうしてせっかくの官位を棄てることになったが本人たちは意に介さなかった。賄賂などで汚れた位を持つよりも流浪し闘い続けるほうが良いというのが劉備軍の信条だった。
その後も主人は黄巾賊討伐の功績を上げて
世間では張将軍など家臣たちが怒って暴走したことになっている。だが実際は主人が率先して行ったのである。このように主人は若い頃から義に反する行いを見ると熱くなりやすく、すぐさま「弱きを助け強きをくじく」の行動に走る性格を持っていた。だからこそ多くの人は主人の行いに感動し、“劉備”の旗に熱狂したのだ。
ここはあえて身近で彼を見続けた私から言わせていただこう。人々を魅了した主人の熱き性情は最大の長所であり、短所でもあった。怒りにまかせて状況にひるむこともなく強者へ立ち向かう性格こそが、彼を
後に主人が独り曹操へ抗うことになったのもこの性格による。“劉備”を主役として語り継がれるこの時代の物語は全て、主人の性格から生み出されたことになる。
忠平六年(西暦一八九年)、
この時から
後継争いの末に
惨劇の騒ぎに乗じて
董卓は都入りするとすぐ少帝を廃して
董卓の専横は諸侯の怒りを買った。東郡太守だった
討伐軍を恐れた董卓は洛陽を焼いて逃げ、都は無理やり
結局、董卓を殺したのは
これら度重なる蹂躙によって漢王室は統治の力を失い、各地は放置され諸侯の統治に委ねられた。
やがて諸侯たちは勝手に領土を奪い合う戦争を始めた。誰もが天下一の権力を得る野望にとり憑かれたのだった。こうして漢土は
戦乱の時世に頭角を現したのは
曹操は決して戦上手ではなかったが
屠城とはすなわち「城(日本の街に相当する地域一帯)ごと
そのように戦闘以上の殺戮、特に武器を持たない住民の
しかし曹操は非難を全く無視して堂々と屠城を行ったために漢土の人々を驚かせた。
曹操が行った残虐行為のなかで最も衝撃をもって語られた凄惨な事件が、私の故郷である
徐州では降伏した兵士は当然に生き埋めとされた。住民は男も女も、子供や赤子も区別なく斬殺された。妊婦の腹も引き裂かれ胎児は地に叩きつけられ絶命した。曹操が「動く者は全て無条件に斬って殺せ」という命令を降していたため、犬や家畜までご丁寧に殺されてしまった。遺骸を放り込んだ河は赤く染まって流れが滞った。まるで地獄の話のようだが、私はその地を歩いて見たのだから現実に地上で起きたことだと言える。〔※35〕
曹操は呂布と戦闘して勝利した際にもこの屠城を行っている。後に袁紹と戦った際も屠城を繰り返した。さらに袁紹の城では、女性たちは貴婦人から農婦に至るまで多くが犯されてから殺されたという。
当時の人々で曹操の残虐性を知らない者はなく、大人も子供も皆、「曹操の通った後はどこもかしこも死屍累々」と噂し合った。
必要もないのに多大な労力をはらって
殺戮狂として恐れられていた曹操が、長安を脱出し流浪していた献帝を救い洛陽入りした知らせは全土へ衝撃を与えた。
それは
間もなく曹操の手によって献帝は
曹操はあたかも自分が献帝の救世主であるかのように宣伝した。確かに曹操は当初、献帝を丁重に扱い宮廷を整えるよう努めた。このため始めの頃は曹操を称賛し歓迎する声さえ聞かれたほどだ。
曹操を頼った廷臣たちも、彼が董卓の残党らを圧倒する強い軍事力で献帝を庇護することを期待したものだろう。
しかし廷臣たちが迎え入れたのは董卓を遥かに上回る最凶の獣であったのだ。
毒をもって毒を制すつもりの浅はかな計略は、自らを殺す毒となって回り始める。
許が整い、廷臣たちの努力によって政治が落ち着きを取り戻すと、たちまち曹操は本性をあらわし廷臣の一斉粛清を始めたのである……。
この間、私の主人劉備は位なき流浪の身分から
残酷な民衆虐殺を行いながら救世主を名乗る“うさん臭い”曹操と、現実に仁をもって任地を統治し民を幸福にしている主人とは対照的に語られていた。
その対照的な両者が近付き、一時期とはいえ主人が曹操の援助を得ることになろうとは。数奇な運命であった。
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〔メッセージ〕
今回は史書に基づき『三国志』の前半を猛スピードでご紹介しました。簡略な表現としましたので初心者の方には難しいかもしれません。
もう少し詳しく、物語として劉備の人生を知りたい方は横山光輝氏のマンガ『三国志』などを読むことをお奨めします。横山光輝氏の『三国志』はフィクションである『演義』をベースとしており、デフォルメはありますが概ね史実に近い流れを理解することができるはずです。
ただし横山作品を含めて、日本の三国志創作では曹操の史実についてはほとんど描かれていませんのでご注意を。曹操の史実を知りたい方は当小説の解説をお読みください。(目次>解説>史実の曹操ってどんな人だった?)
注釈
※28 正史によれば張飛は劉備と同郷の涿群出身で、字を「益徳」といった。フィクションでは張飛の字は「翼徳」へ変えられていることが多い。また関羽の字は始め「長生」といい、後に「雲長」と改名した。
※29 フィクションの『三国演義』では劉備・関羽・張飛の三人が桃園結義(桃園の誓い)で義兄弟の契りを立てた設定になっている。これは脚色だが、「関羽・張飛が劉備を義兄と仰ぎ片時も離れることなく付き従い、犬馬の労をいとわなかった」とは史書の通り。桃園結義はフィクションとは言っても史実を正しく解釈してのデフォルメであった。
※30 史書通り。『演義』など一般のフィクションでは張飛が暴走したことになっているが、史書ではそのような記録はなく「劉備が(行った)」と書かれている。事実、劉備は義に反する行いを目の当たりにすると怒りで熱くなりやすい性格だった。(ただし劉備は義に反する行いに怒ったのであり、自分の我がままのために怒ることがなかったのは曹操との大きな違いだろう)
※31 明確に表現していないがこの小説は“諸葛亮が死後、自身の人生を振り返っている”設定(視点が未来)。したがって過去の時代説明に当たるこの章では献帝を「今上」と呼ばないことにした。
※32 『演義』フィクションでは曹操が檄文を発し、董卓討伐軍を招集したことになっている。このフィクションを根拠に「曹操は独裁者・董卓を成敗しようとした正義の人」と触れ回る者が多いがもちろん真っ赤な嘘。
※33 フィクションでは王允の養女だった貂蝉がその美しさで呂布・董卓を惑わせ、争わせて呂布の董卓暗殺計略を達成したとされている。史実では呂布が董卓の愛人に手を出したことで不仲となり、王允と結託して董卓を暗殺した。貂蝉はフィクション人物だが史実を膨らませた設定と言えるだろう。
※34 史書では曹操の戦闘における虐殺行為を「屠城」と呼んでいる。この史書の記述を削除することができないために、曹操を称揚するイデオロギーを持つ者たちが「屠城」の意味そのものをすり変え「残虐な行いを指す言葉ではなかった」と主張している。このような言葉の定義すり替えで事実を反転して見せることはナチスやソヴィエト、中国共産党等が用いたのと同じ歴史改変の手法。
※35 ここに記した曹操の残虐行為は全て史書の記述通り。日本の三国志創作、学者による三国志解説書、Wikipediaからは徹底的に省かれホワイトウォッシングされている事実。詳しくは史書を解読するか当小説の解説をご参照のこと。
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