第三章 我が主君、劉備

(一)人気を集める少年

 私の生涯の主君となった人は、姓をりゅう、名をあざな玄徳げんとくという。

 主人は私の幼い頃から表舞台で活躍してきた英雄であり、彼の人生は当時の社会情勢の一つでもあった。したがって主人の半生を語らなければやはりこれから先に話を進められなくなる。そこでごく簡単にはなるけれども、私が出会う前の主人について聞いた話などをお伝えしたいと思う。〔※22〕


 私の主人は延熹えんき四年(西暦一六一年)、涿郡涿県たくぐんたくけん〔※23〕に生まれた。

 涿郡は中原ちゅうげんから遠く離れた北方の僻地と言う人もいるが、古来優秀な人物を多く輩出した土地で朝廷からも重視されてきた。この要地にかつて封じられたのが主人の祖先である中山靖王ちゅざんせいおう劉勝りゅうしょうの子、劉貞りゅうていだった。〔※24〕

 靖王は名君と名高い六代皇帝・景帝けいていの子で、武帝ぶていの異母兄に当たる。その子の劉貞は涿郡の陸城亭侯りくじょうていこうに封じられたが、当時の酎金令ちゅうきんれいに反したため侯を召し上げられたと伝えられている。酎金令違反、つまり祭祀のときに朝廷へ献上する金が足らなかったので位を取り上げられたとのことだが、年々増す過度な献上金で民を苦しめることを嫌がり抵抗したとも思える。後に賄賂わいろを断り印綬いんじゅを投げ出した主人の行いにも重なる。血は争えないものだ。

 

 侯を召し上げられた後も劉貞は涿郡に留まり暮らした。その子孫であり、主人の祖父である劉雄りゅうゆう孝廉こうれん推挙すいきょされ県令を勤めた。この祖父の時代には家も裕福であったろう。だが父の弘が早くに亡くなったため、主人は幼い頃に貧しい暮らしを余儀なくされた。母はむしろを売るなどして生計を立て、苦労の末に主人を育て上げた。

 十五の歳に盧植ろしょくへ師事するため遊学したが、その学費は叔父が出したという。甥の学費を出すことについて妻から苦情を言われたとき、叔父が「我が一族のなかでも備は並外れた何かを持っている。あれは常人ではない」と言って支援した話は世間でも有名である。


 主人は幼少期から異彩を放ち目立つ存在であったらしい。そして貧しさにめげず明るく快活な性格に育ち、運動能力も抜群であったため多くの友を持った。しかし決して子供たちの大将となって威張ることはなかったそうだ。幼い頃から彼が最も大切にしたのは仲間との友情だった。友が困っていれば何もかもを放り出して駆けつけ仲間のために奔走した。このため彼には生涯の友情を誓う者が多くいた。実際その時の幼馴染みの中で、黄巾賊こうきんぞく討伐出兵の時から最後まで彼に従った古参兵たちもいたのである。


 生来仁義に厚い主人の性格は何処でも人々を魅了せずにはいられなかった。遊学時代には涿郡の若者人気を集めることとなった。

 同郷の張飛ちょうひ将軍など、古参兵たちの熱き思い出語りによれば、遊学時代の主人の人気はそれはもう凄まじいものだったらしい。男も女も彼と会うために長い行列を作ったというから尋常ではない。

 男女を問わず大勢の人から恋慕された高祖こうそや靖王を彷彿とさせる逸話〔※25〕であるが、主人は先祖と違って愛想を振りまくこともなければ好色に走ることもなかった。女性に対しては寡黙で素気なく、男に対しても無駄な付き合いはせずに親友と見込んだ男同士の友情のみ重んじた。また劉という漢代最上級の姓を名乗り、そのうえ確かな系譜で靖王まで辿ることができる家に生まれながら、家格の高さをひけらかすこともなかった。腰が低く年下でも対等に接する気性はこの頃から変わらずだったようで、そのために評判は日増しに高まった。

 こうして若年の頃から主人は既に涿郡の有名人となっていた。最先端の流行の服に身を包み、ろくに読書はせず武芸や音曲に明け暮れる遊学時代だったというが、地元の若者たちの誰もが主人の名を尊敬を篭めて呼んだ〔※26〕。その声が豪商の耳に入り、出資を受けることとなったのは自然の成行きだったと言えるだろう。


 人気者で多くの友人達に囲まれていた主人も、実は内面には大変繊細な心を抱えていた。本人曰く「顔では笑っていても内心は深い悲しみにうちのめされ、一人苦しんでいた」ことが多かったという。何に苦しんでいたのか正確なことは私には言えないが、おそらくこの世の不条理に直面した時に苦しみを感じたのではないかと思う。たとえば貧しさに苦労する母親の様子や、その母親に対する周囲の偏見や理解のなさ、また様々な場面で虐げられる人々を目にした時に彼は疑問を感じ苦しんだのだろう。

 主人は自分が生まれ育った家庭について詳しく語ることはなかったが、ただ母親の苦労と彼女の素晴しさについてだけは言葉を尽くして語っていた。その話の数々から窺い知ることができたのは、彼の母親が深い愛情を持つ卓越した女性であったということだ。自分が食べなくとも子供に食べ物を与えるのは当然のこと、息子の危機の前にみずからの身を投げ出し息子を怪我から救ったこともあったという。たえず子供に気を配り、子供のためになることしか考えなかった。もちろん厳しく叱りつけることもあったが、それは全て子供自身のことを真剣に考えていたからだった。まさに母親のかがみとも言える女性で、主人はこの母親の手放しの愛情を一身に受けて育ったのである。しかしそんな素晴しい母親に対して周囲の人々は冷たい態度をとっていた。貧しさのために他人の世話にならなければ食べていけなかった彼の母親は、近所の人々から嘲笑を受けることさえあったのだ。彼女の苦労を目の当たりにして育った彼は心に誓っていた。

“いつか、俺は絶対に一旗あげてやる! そうして母さんに楽な生活をさせてやる”


 一旗あげて、母親に楽をさせてやりたい。

 そう誓った少年の夢はいつしか「友人たちを引き上げ幸福にしたい」との望みへ広がり、やがて「乱世に苦しむ民を救いたい」との願いへ繋がった。

 主人が張世平ちょうせいへい蘇双そそうといった冀州きしゅう豪商の出資〔※27〕を受けたのも、そんな心からの切願を実現するためだったろう。


 

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〔著者よりメッセージ〕

『我傍に立つ【諸葛孔明 自伝風】』第三章『我が君、劉備』は小説らしくない文となり、難解な内容となってしまいました。

初心者の方には第三章の読み飛ばしを推奨しますが、飛ばしてもストーリーが分かるようにあらすじを置きました。現代語の簡単なあらすじです。

作品目次>解説>第三章を読み飛ばす方のためのスピード解説

またはURLコピペ移動↓

https://kakuyomu.jp/works/16817330665296071072/episodes/16817330667477116856

小説としてはちょっと反則ですが。この物語の理解を進めるためにご活用ください。



注釈


※22 ここは「家臣が自分の主人について第三者へ紹介している」という設定。このため、身内である主人に対し敬語を用いていない。(たとえば自社の社長について第三者へ語る際、社長に対する敬語は用いないことと同じ)


※23 後漢時代の涿郡涿県は、現代の河北省涿州市。現代では首都の北京から近いが、当時は中心地から離れた一地方。


※24 前述した通り近年「劉備が漢王朝の末裔という話は記録にないから信ぴょう性が低い」といった話が盛んに宣伝されているがデマ。正史『先主伝』「漢景帝中山靖王勝之後也」、他『典略』にも同様の記録あり。当時から有名な話で否定する余地もない。


※25 漢の高祖・劉邦は女性からも男性からも非常にモテて、また好色であったことで有名。靖王も同じように女性人気が高く好色であったため多くの子を成した。劉備はそんな祖先たちの血を引いていたのか男女ともから大変モテたが、好色であったとの記録はなく反対に「男同士の付き合いを重んじたために年下の連中はあらそってかれに交友を求めた」と記録されている(正史『先主伝』)。ただし正妻のほかに少数ながら側室も持ったので女性嫌いというわけではなかっただろう。


※26 正史『先主伝』にこう書かれている。「先主不甚楽読書、喜狗馬・音楽・美衣食」。最先端のファッションを楽しみ音楽や狩りを嗜んだが読書はあまり好きではなかったとのこと。多くの人が思い描く地味な青年劉備は『演義』フィクション、史実はおシャレな若者のカリスマであった。


※27 冀州は現代の北京からモンゴル自治区に至る北方地域。当時の冀州は黄巾賊によって壊滅的な破壊を受けていた。張世平と蘇双は涿郡へ寄った際に劉備と会い、「ただ者ではない」と感じて出資したとの漠然とした記録しか残っていないが、彼らはそもそも黄巾賊討伐のために兵を率いることができる人材を探していたと考えられる。馬の買い付けもおそらく黄巾賊討伐のための軍需物資仕入れ。一石二鳥として涿郡で有名だった劉備という人材も確保したものと思われる。

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