(四)曹操誅殺計画、天子を救え
曹操の主人に対する執心は大変なものだった。
まず曹操は主人を連れて
許においては片時も主人を離さなかった。外出の際に曹操は必ず主人を車に同乗させて連れ歩き、宴の席でも主人を隣に座らせ機嫌よく話しかけていたという。
曹操のことを“人材の
戦闘で打ち負かした敵将の命を救ったり、窮地に追いやられた将へ救援を送ることで否応なく手元に置いたのだったが、その後も地位や金品を惜しみなく与え留めようとした。それでも離れようとする者は殺害をちらつかせ脅迫して留めた。
手段はともかく曹操の人材蒐集熱は本物だったと言える。しかしそれは相手を人間として見て信頼するのとは違い、子供が美しい昆虫を集める行為に似ていた。
劉姓で民からの評判も良かった主人は、曹操の目に大変希少で美しい昆虫と見えたのかもしれない。主人を手元に置けば彼の人気で自分を飾ることができ、徐州住民虐殺で落ちた名誉も回復できると考えたふしがある。
ただそのような計算だけではなく、曹操は実際に主人と会って容姿や人格に惚れ込んだのだろう。かつて地元で男女問わずから恋慕され行列を作らせた主人だ。激情家で惚れやすい曹操が主人に会えば執心するのも無理はなかった。
しかし曹操の執心は片想いに終わった。当然であろう。
すでに
“
曹操は朝廷の権力を独占するに邪魔となる人物を次々と粛清していったようだ。たとえば献帝の忠臣であった
法律も公平な裁定もあったものではなかった。全ては曹操の気分次第、「自分より優秀」「自分より目立った」「自分を批判した」「自分が独裁するのに邪魔」といった自己中心の理由で多くの人が命を奪われたのだった。
こうして朝廷の権力を牛耳ると曹操はさらに好き放題の殺戮を始めた。
朝廷の内外で曹操に殺された者はあまりに多かったために、誰も正確な被害者を数えきれないほどだった。
生き残った廷臣たちは恐怖で黙りこくるしかなかった。許では誰もが曹操に反意を疑われることを恐れ、声すら発することができなくなったという。許の住民は道で知り合いと会っても目くばせだけで挨拶をしていた。
最も深い恐怖の底にいたのは、国家の頂点に鎮座していたはずの
そんな折、主人の劉備が献帝へ謁見した。
絶望の淵にいた孤独な
この話はたちまち世間へ広まった。独裁者が支配する恐怖政治のもとでも宮中の出来事を外へ話す者は常にいたのだ。ここから主人は民の間で「
直後、献帝は董太后(母)の甥である
同じ年に生まれたためなのか、おこがましくも私には傀儡となった天子の絶望が我が事のように感じられる。だから分かる。外の風を身にまとい現れた主人は、おそらく最後の救い手と見えていたに違いない。
当時のことを話す際は主人も言葉少なくなった。そのため事件の仔細は私には分からないが、主人の口から彼自身の気持ちだけは聴いている。
「勅命が下らずとも自分は曹操を殺し天子をお救いする考えでいた」、と。
董承から密勅を聞いた主人は自ら曹操誅殺の実行役を買って出た。曹操に気に入られている自分こそ実行役にふさわしいからと言って。もとより主人は曹操を殺し天子を救い出すつもりだったのだ。その決意を勅命が後押ししただけだった。
主人は許に入り、独裁者の身近で過ごすことで噂を遥かに上回る彼の暴虐を知った。すでに何人もの廷臣が曹操の手で殺されていた。逗留していた間にも目の前で人々が殺されていった。血なまぐさい風が吹き、死臭の絶えない宮廷。人々は暗い目をしてうつむき声もなく歩いていた……。
特に憐れだったのは献帝、天子だったという。まだ十代の若い皇帝が人生を奪われ、明日をも知れない命を継いでいたのだ。胸を痛めなければ人間ではない。
さらに朝廷が踏みにじられ専横されていることへの憤怒、漢王室滅亡の危機を防がねばとの焦りが主人の身を焦がした。人一倍に
主人は同じ志の董承、
だが曹操は周囲の気配が不穏なことを肌で感じ取っていたようだ。
ある日、主人は曹操から二人だけの食事へ誘われた。美酒を味わい、心地よく酔った曹操は主人へ言った。
「天下の英雄は今、玄徳(劉備)と私くらいであろう。袁紹など我々の敵ではない」
主人はこの時、自分の計画が気付かれたのではないかと思ってつい箸を取り落とした。〔※47〕
その瞬間、曹操は主人に対する疑いを強めたようだった。とは言え半信半疑だ。惚れた相手を信じたい気持ちと疑いの気持ちが曹操のなかでせめぎ合った。
結果、曹操は主人をしばらく遠ざけるという策に出た。
当然ながら主人は始め、出撃命令を断った。献帝の密勅を果たすことなく許を離れることなどできないと思ったからだ。しかしそれでも曹操は出撃を強いた。
頑なに断り続ければ怪しまれ計画が露呈する恐れがある――そう考えた主人は出撃命令を受けることにした。
主人の「必ず戻って天子をお救いする」との誓いは叶わなかった。
胸を叩き、涙を落しながら主人が後悔を私に語ったのは世を去る半年前のことだった。
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注釈
※41 左将軍とは、朝廷を守護する「前後左右将軍」という官職の一つ。大将軍や車騎将軍など、最高位の将軍職に準ずる。漢では一時廃止されたが後漢末期に再び置かれた。
※42 『陳琳の檄文』とは、曹操の朝廷における専横ぶりが事細かに記された文書。袁紹が曹操征伐の旗を掲げたときに全土へ発信された。名高い文筆家であった陳琳が書いており、古来名文として称えられている。(原文の日本語訳は後日解説で上げます)
※43 曹操が朝廷で邪魔者(たとえば楊彪など)を排除したり、政敵に些細な罪を着せて殺害していた件について、趙彦は誠実な言葉で諫めていた。献帝は趙彦の忠臣ぶりを称えて褒美を賜った。これに激怒した曹操は、さっそく趙彦に不可解な罪を着せて殺してしまった。
※44 辺譲は大変優秀で博学な実力者で、朝廷の内外で人気を得ていた。彼は曹操のいないところで曹操の批判をした罪で家族皆殺しにされたという。だが詳しいことは分かっておらず、処刑された年代も所説ある。曹操が実権を握るために邪魔と考えて抹殺された人物の一人だろう。
袁忠は曹操が若い頃に沛国の相で、曹操が法を犯したため罰しようとしたことがある。この件をずっと怨んでいた曹操は権力を握るとさっそく復讐を実行した。袁忠は辺境まで逃げていたが、曹操が派遣した追手に見つかり三族皆殺し(当人だけではなく血のつながりのある一族全て殺すこと)とされた。桓邵という人物も同様に、かつて曹操をバカにしたので復讐され三族皆殺しとなった。
※45 董承は献帝の母の甥に当たる。献帝から見れば「母方の親族」となり舅ではないが、正史には「舅」と記述されている。裴松之によればこの当時は皇帝姻族を示す呼び方がなかったので「舅」と記したのではないかとのこと。
※46 正史『先主伝』本文より。
※47 同上。
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