序 青い河

(一)始まりの記憶

 東の果てに光が生まれ、新しい日が始まる。

 黒から青に移りゆく空は、ひと時、世界を青く染める。水の底の廃墟のように、全ては透明の青に浸される。

 やがて、山の先端がきらりと輝く。夜が朝に生まれ変わるのだ。そして黄金の光が、静かな大地を照らし始める。


 さくっ。

 踏み出した足が地に沈んだ。

 一足ごとに小気味良い音を立て、氷の柱が潰れていく。

 立ち止まって背後を眺める。転々と丸い足跡がついてきている。視線を上げて遠く眺めた。氷の欠片を含んだ大地は、新しい日の光を浴びてきらめいていた。

 夜の間、黒い影に過ぎなかった山々は朝陽に素顔を晒している。尾根に雪の刺繍をまといそびえる姿は、恐ろしくも美しい。

「リョウ!」

 呼ばれて振り返った。

 彼がこちらを見ている。小走りで追いつき、襟を整えて背を伸ばし前を向いて歩いた。

 指で引いた時、着物の襟がまた破れる音を聴いた。家を出る時には立派だった着物も、今は薄汚れたぼろ布に過ぎない。寒さをしのぐためむやみに着重ねたぼろ布の山が、私たちの足を重くしていた。

 微かに足を引きずる私を、彼が無言で眺めていた。彼の痩せた背の上で弟はまだ眠っている。

りょうは強いな」

 ふいに彼が言った。

「一言も、足が痛いとか、母に会いたいと言わん。亮は強い子だな」

 私は答えず、足元へ視線を落とした。

 弟は旅の間中、素直に苦痛を訴えていた。歩けば足が痛いと騒ぎ、夜になれば母が恋しいと言ってすすり泣いた。でも私はこの旅で一度も苦しみを言葉にしたことはなかった。

「亮はもっと我がままになっていいんだぞ。これからは、したいことを何でも言うようにしなさい。私が全てを聞いてやる。決して遠慮してはいけない」

 かけられた声の意外な優しさに、はっとして隣の人を見上げた。

 陽に焼けた顔の中から慈しむ目が私を見つめていた。

「これからは私がお前の父になるのだから」

 その年、十三歳(数え)の私は弟のきんとともに、これから父となる人に連れられて旅をしていた。

 本当の父が死に、私たち兄弟は伯父に引き取られることになったのだ。ちょうどその頃伯父が遠方の南昌なんしょうへ越すことになったので、私たちもついて行かなければならなかった。

 故郷を離れた日のことは、ぼんやり覚えている。

 陽を浴びて白々と光る道の果てに母が立っていた。大きな家の門の前でたくさんの侍女に身体を支えられるようにして、彼女は呆然とこちらを眺めていた。たぶん今生の別れとなるだろう場面なのに、私には泣いた記憶がない。均の泣き叫ぶ金切り声だけが記憶の底に響いている。

 その後、どうなったのか覚えていない。

 旅の記憶の一部を私は失ってしまった。

 どうして馬もなく従者もなく、三人だけで旅をしているのか。どうして、着の身着のままなのか。

 わざと遠回りの道を選び、何ヶ月も歩き続けてきたと感じる。山を越える時でさえ自分たちの足だけを頼りにした。

 危険が身に迫っているという感覚はなかった。

 けれど空白となった記憶の中に、何事か恐ろしい出来事があったことは確かだ。

 それはきっと思い出してはいけない、思い出すことは危険な出来事なのだと思う。


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