(二)大河と星図

 地平線が光った。

 横一列に宝石を散りばめたように、きらきらと一筋の光が輝いている。

 はじめ何が光っているのか分からなかった。しかし歩いて行くと、光の正体が水であることが分かった。地平線で輝きながら揺れている水。やがてそれは視界一杯に広がる青の絨毯になった。

「海......」

 思わず呟いた私の声を耳にして、伯父が訂正した。

「いや、海ではない。あれは河だ」

「河?」

 息を飲む。まさかそんなはずはない。だって対岸が見えない。

「そう。河だ。天下を潤す大いなる水流、我ら祖先の命を養ってきた大河だよ」

 あれが、話に聞くこう(長江)。

 その大きさは想像を遥かに越えていた。向こう岸が見えないほど江は大きく、私たち人間は小さいのか。

 私はかんという大国に生まれた。我ら漢人の能力は絶大で、漢人が作った文化は決して崩れることがないのだと教えられた。ところが今、各地で乱が起き、“偉大なる” 漢の国家は傾いている。盗賊は好き放題にうろつき回り、女と子供はさらわれ、男は殺されている。この十年間、人々が流す血と涙は絶えることがない。

 けれど江はそれら人々の悲しみさえ呑み込んで、今日も青い水を湛えている。この河はそうして長い歴史を、青いまま流れてきたのだ......

「海! 海だ!」

 いつの間に目を覚ましたのだろう。

 歓声を上げた均が、伯父の背中を飛び降りて駆け出した。

 河だ、と訂正する暇もなかった。私も少し笑ってから、弟の真似をして河岸へ駆けて行った。


 その夜は河原で野宿をし、夜明けとともに渡し舟を探して河沿いを歩いた。戦乱の最中であるため貴族用の豪華な船は見当たらなかったが、漁師が使うような貧弱な船ならすぐに見つかった。貴族だと悟られたら断られる。伯父は身分を隠して渡し守に交渉した。幸い供も連れず襤褸ぼろを着ている私たちの姿を見て、貧しい農民の親子であると信じてくれたようだった。

 今にも沈みそうな船におぼつかない足取りで乗り込む。始めは怖かったが、陽光に輝く河面を船が滑り出すと水の青さに心を奪われた。均は初めて体験する航行に楽しげな声を上げた。

 やがて船は対岸に着き、しばらく歩いているうち賑やかな街へ辿り着いた。目的地に近いのだった。先を歩いていた伯父が振り返り私たち二人へ笑顔で言った。

「今夜はここで宿を探し泊まる。身を清め、明日から身分を偽らず馬車に乗るつもりだ。だから今日だけは自由に庶民として店々を眺めて良いぞ」

 広い道の両側に多くの品物を積み上げた店が並んでいた。食料があり、着物がある。さらに大勢の人々が店を覗きながら歩いていた。人々の顔には暗い陰がなく、健康そうに輝いていた。踏みにじられ荒廃した私たちの故郷、徐州じょしゅうとは別世界だった。

「ここには戦乱の陰はないのですね」

 私が伯父を見上げて呟くと彼は頷いた。

「そうだな......今のところは、だな。ここから先の地にはまだ奴の力が及んでいないから」

 “奴” と、隠せない憎しみを篭めて言った伯父の言葉で不快な誰かを思い出した。けれどそれが誰なのか、何故不快なのか思い出せなかった。思い出そうとすると吐き気がする。私は自分の記憶を探ることをやめて横の店へ視線を移した。

 食い入るように見てしまったのは書店だった。学問をしているらしい簡素な身なりの若い男たちが書店の前で立ったまま書物を読んでいた。書物は高価なため蔵書を持つことができるのは名家の貴族くらいだ。一般の書生は書物を買わずに店へ通って読む習慣があるらしい。店の書棚に並んでいるのは多くが古い竹簡や木簡だが、店先には新しい素材である紙の書物もあり、めずらしさに私は思わず立ち止まって眺めた。そんな私の姿を見て伯父は声を立てて笑った。

「亮は幼い頃から、本当に書物が好きだな。勤勉な子だ。よし、特別に一冊買ってやろう。何でも好きな書物を選びなさい。紙の書物はどうだ?」

 伯父が言ったので私は仰天した。

「とんでもない。高価過ぎます。このような大変な時に買っていただくなんて、申し訳ない」

 大人じみた私の恐縮に伯父は苦笑いしながら寂しそうな顔をした。

「相変わらず年寄りのような子供だな、お前は。遠慮するなと言っただろう。それに、次はいつ買ってあげられるか分からないのだぞ。私もいつまで生きられるか分からないのだから」

 伯父の暗い口ぶりに言葉を失った。その通りだ、と納得しなければならない今の時代が悲しかった。誰もが一瞬先には死んでいてもおかしくない、特に伯父・げんのような役人は。だから養父となる人の厚意を無駄にしてはならないと思った。甘えられるうちに甘えておかなければならない。

 私は素直に書店へ近付き、購入する書物を選ぶため店の中へ入ろうとした。その時ふと店の横に立てられた看板の、風に揺れる布のようなものに惹きつけられた。近付いて見る。看板に括りつけられた掛け物は黄ばんだ羊の皮で、劣化して薄くなりかけてはいるが、墨で何かの図形が描かれているのが見て取れた。小さな丸を繋ぐ細い線が図形を幾つも描いている。天蓋に散らばる星々の並びに似ていた。

「これは......星図?」

 感じたことを呟いた。しかし学んで知っている星図とは形が違うようだ。北斗がどの丸なのか分からず、宿の形も見分けられない。けれど見慣れないはずの図形は奇妙に私の胸を騒がせた。

「めずらしい形だろう。これは遠い西国の星図だよ。お客さん、星読みに興味があるかね?」

 不意に声をかけられたので私はぎょっとして、声の主を探し辺りを見回した。視線より下、書店の横に据えられた小机の後ろに頭巾を被った人が座っていた。声はしわがれていたが女のようだった。掛け物を売りつけられるのだな、と気付いて私は警戒した。

「はい。星読みは好きですが......、異国の星図では読むことができません」

 断りながらも、星図から目を離すことができなかった。学んだことはないのにそれらの図形を知っている感覚があった。星図の前から足を動かせずにいる私を見て女はくぐもった声で笑った。

「少年、占いが好きか。では星読みではないが、占ってあげよう。顔をお見せ」

 断るより前に腕をつかまれて引き寄せられた。頭巾の下から女の瞳が覗く。目の前に来たその瞳を見て背筋に冷たいものが走った。

 碧眼へきがん。西域の民か。

 女の瞳は濃く美しい緑だった。森の奥深くにある湖に似た緑に捕らえられ、私は身動きができなくなった。さらに顔を近付けながら女が囁く。

「お前たち東の民は顔の形で人物を占おうとする。しかし顔の形などに人格は表れないのだ。こうして瞳の奥を覗き込まなければ、魂まで読むことはできない。瞳を覗き込めばその者の魂が読めるぞ。魂の歴史から、その者の本質全てを......」

 私の瞳を見つめていた女の顔が不意に引きった。

「お前! どうしてここへ生まれた!」

 大声で女が叫んだので道を歩いていた人たちが足を止め振り返った。伯父が駆け寄って来る足音が聞こえた。私は突然の罵声に肝をつぶし女の瞳から目を逸らすことができなかった。女は憎しみで顔を歪めて私を睨み罵倒し続けた。

「この地へ生まれて来るな! お前たち二匹の龍の争いに皆が巻き込まれることになる」

「おい、何をしている」

 伯父が来て私の腕をつかんでいる女の手を振り払った。怒りに震えた伯父が女へ言葉を吐き捨てた。

「子供に何てことを。脅して何か売りつける気だな。卑しい物売りめ」

「待て。それはわざわいを連れて来る子供だ。その子供を狙って悪魔が襲い来る。今すぐ殺さねばならない」

 まだ女はわめいていた。道行く人々が不審げに女と私を交互に見て行く。行こう、と私の肩に手を置いて伯父が囁いたが、私の足は凍り付いたように動かなかった。

 失ったはずの記憶が蘇ったからだ。

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