(三)雲間の光

 大河の瀑布ばくふのごとく記憶が体へ流れ込んでくる――

 夢かうつつか。長い歴史の記憶が目の前を過ぎ消えていった。そして最後、霧の向こうに残ったのは荒涼とした光景だった。


 いつの記憶なのだろう。一万年前よりも遠く感じるが、ごく近い時であると思う。あの荒んだ暗い景色は、ああ......、そうだ。思い出した。この旅の始めに見た故郷の景色だ。

 分厚い雲の垂れこめた空の下、黒い大地一面に転がるのは無数のむくろだった。見渡す限り人の胴と、胴から切り離された手や足や頭がばらばらに転がっていた。腹から引き出された臓腑は散らばり烏や犬の群れの餌食となっていた。

 足元はぬるりと滑った。黒々と地を染め、ぬかるみを作っていたのはおびただしい人の血だった。生臭い風が頬を撫でた。

 あの日、私は遺骸が転がる大地を歩いていた。目も覆わず逸らさずに淡々とその光景を眺め歩いた。均は伯父に目を覆われ抱きかかえられ、「臭い、臭い」と泣きながら伯父にしがみついていた。伯父も死臭に顔をしかめながら足早に通り過ぎようとしていた。

 その二人の後を、私だけは冷めた顔で歩いていたのだった。

「亮」

 遥かに遅れて歩く私を伯父は振り返って呼んだ。

「見てはならない。目の毒だ。早く、前を向いて歩きなさい」

 そう言う伯父を私は不思議な気持ちで見返した。何が、“目の毒” なのだろう? つい最近まで生きていた同じ人間の骸ではないか。汚らわしい物を見るように目を覆うのは違うと思った。目を覆ってはならない。見つめなければならない。彼らの生きていた証としての骸を。

 それに私にはこの光景は懐かしい。何故だか分からないが、本来の自分の場所へ戻った気がした。見渡す限り屍の転がる大地は、自分の帰るべき場所なのだと感じていた。私はずっと前からこの場所へ立たなければならないと思っていた気がする。死者を慰めるために。

「平気、なのか?」

 追いついた私へ思わず訊ねた伯父は、近くで私の顔を見てそれ以上何も言わなかった。

 決して平気ではないと伝わったのだろう。私は蒼白な顔をしていたのかもしれない。平気などころか衝撃は正常な心を保つ限界を超えていた。屍から湧き上がる悲しみが濃厚な霧となり私を包むようで、全身は重く一歩進むことも辛く感じていた。このままこの光景を見つめていたら心を壊してしまうかもしれない。それでも見なければならないと思って見続けたから、自分で記憶を封印していたのだった。


「禍をもたらす子供よ! 死ね!」

 わめく占い師の声が耳に入り私の意識は現在に戻った。気狂いしたような異民族の女は道行く人の注目を浴びて、周りに人だかりができ始めていた。私は小さく笑った。女の言う通りだと思った。故郷を襲った虐殺は、曹操そうそうが私的な怨みで徐州を襲い住人全てを抹殺しようとしたものだった。虐殺を指示した張本人は激情にかられてやっただけだし、無名な子供である私のことなどが彼の意識に昇るはずもなかった。しかし後から振り返れば、あの出来事の裏には私を殺す運命が潜んでいたようにも思う。

 何故なら私は虐殺者に対抗する宿命を持っていたからだ。曹操のように殺戮を愉しむ者や、そんな虐殺者を崇拝する同類たちにとって私の存在は邪魔であることだろう。

「何が可笑しい」

 笑みを浮かべる私に気付いて女の表情が強張った。泣きたくても笑うことしかできなかった当時の私は、笑顔のまま女へ答えた。

「あなたの言うことが正しいからです。あなたは千里眼せんりがんだ」

 子供のくせに大人びた口ぶりで喋る私が気味悪くなったのか。瞳に初めて怯えが走り彼女は口をつぐんだ。私は彼女の瞳を見据えて続けた。魂へ呼びかけるつもりだった。

「でもあなたは根本を読み誤っている。この時代の禍は僕一人が連れて来たものではない、今この地で生きている全員が背負う運命が き起こした禍だ」

 自分でも思いがけず強い感情が込み上げ、少し声が大きくなった。

「無責任にならないでください。同時代の誰か一人に責任をなすりつけ、自分の担うべき運命を放棄するような汚い真似はしないでください。そんなことをして逃げ回っていたらあなた方は、永遠に運命の輪を終わらせることができなくなる」

 女は私の言葉を理解したのかしなかったのか。先ほどの凶暴さは鎮まり、弱い老婆のように怯えた表情で私を見つめるだけだった。

 女が大人しくなった隙に伯父は私の肩をつかみその場から離れさせた。見物人たちは頭のおかしい異民族の女が漢人の子供を虐めているのだと思っていたようで、保護者が子供を連れて行き落着したことに安堵した。そして首を振りながら、

「最近は物騒だね」

「女でも何をするか分からない」

 と口々に嘆き合い、離れて行った。


 この人生を振り返る私には分かることがある。

 運命とは複雑なもので、同時代に生きている者たち全員の運命が重なり合い、絡み合って結果が出る。

 たとえ誰かが時代を先導したように見えても、本当はその一人が決定して導いたわけではない。巻き添えになるだけで無駄に死んでいく命も、一つもない。全てが運命の輪の一部として起こる。それが世界の厳しい真実であり、誰も逃れることのできない法則だった。

 複雑に絡み合う運命の交錯の中で、自分の生きる時代と土地だけが自分にとっての運命の場。私は私の運命により、故郷が虐殺に遭い殺されかけた。しかしその出来事は私一人が連れて来た禍なのではない。他の人たちも私の巻き添えとなったわけではない。ある悲劇はたくさんの運命が交わって起こる。私の身近に起きたことは、私だけの視点から見た運命の輪の一部分に過ぎないのだ。

 こうして虐殺を免れ生き延びたことは私の新たな運命となった。選択肢として分岐した運命の道の一つだ。

 私はその時、不思議な熱を帯びていく手を開き天にかざした。指の隙間から薄い日の光が筋となって差し込んだ。光の先に未来を見ようとした。この先の人生はどうなるのか。しかし未来は白い闇の中に泡沫として浮かぶだけで、真実らしいものは何も見えなかった。まだ本当の未来など決まっていないからだろう。


 冷たい滴が手の平に落ちた。手を下ろして空を見ると、灰色の雲から雨滴が円状に落ちて来て顔に当たった。

「雨が降ってきたな。早く宿を探さねば」

 呟いた伯父の足が速くなった。伯父はすぐ後ろを歩いている私を振り返り、

「今日は書物が買えず残念だったな。明日の朝、晴れたらまた書店へ寄ろう」

 と言った。

 天を仰いで私は思った。この地上が本当に晴れることなどあるのだろうか。ここは、永遠に雨が降る場所に思える。

 けれど時折、雲間から光が差す。

 私たちはあの光を追い求め、見失わずに生きていかなければならない。

 いつか地上は真実の光で満ち、暗愚の雲は追い払われるだろう。それまで人々は幾つもの運命の輪を織り成し、地上の悲しみを生きていくのだ。

 私も生きていこうと思った。私自身の輪を閉じるため。そして雲に穿つあなの一つとなり、せめて一筋の光を地上へ導くために。

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