(二)隆中の暮らし
草木生い茂る初夏、霧雨に濡れた隆中を歩けば濃い緑の水底を泳いでいるかのような錯覚に陥った。
水が豊かな土地ゆえ、小さな湖や泉がそこかしこにあった。散歩の途中、森の中で見つけた気に入りの湖があり、畑仕事のない季節にはその静かな湖で一人小舟を浮かべ過ごしたものだった。
雨の降る日には畑仕事も散歩もできない。朝から晩まで家に籠もり書物を読んでいても気が咎めることがない。絶好の読書日和だ。里の人々が「気が滅入る」と言う長雨の季節も、私には言い訳せず書物へ潜り込める幸福な読書期間となった。
「
里の人々が通りすがりに私を窓から覗いて見ると、必ず笑顔で声をかけていく。その声には感心したような、少し呆れたような響きがある。いつも同じ壁に寄りかかる姿勢で読書していたからだ。
私は何と答えれば良いか分からず曖昧に苦笑を返す。“勤勉”のためだけに書物に向かっていたわけではない。何より書物が好きだった。文字を見つめている時は心が安らぐ。
世界を知りたいという願望はあった。そのために一冊の書を暗唱できるまで繰り返し読むのではなく、古今東西の諸子百家、分野学派にこだわらず手当たり次第に読んだ。伯父の遺産として唯一もらい受けた書庫の書物を読み尽くした後は、学友たちからも借りて読み漁っていた。漢代ではめずらしい“乱読家”であったらしい。
水鏡先生のもとでも私の乱読姿勢は同じだった。当時は儒家なり道家なり、専門分野を定めて突き詰めることが学問の常道だったから、分野を定めない私の読書姿勢は褒められたものではなかった。
一度読んだ書物を滅多に読み返さず、次から次へと読み捨てていく私を学友たちは
「お前は
とからかった。私は嫌味に取り合わず、
「何家にもなるつもりはないよ。あるいはその全てになるのかもしれない」
などと答えてあしらっていた。すると学友たちは発言の後半だけ切り取り「諸葛は百家全てになると大言壮語を吐いた!」と騒いだのだが、否定するのも面倒だから放っておいた。〔※3〕
学友たちは書物を精読し、一字一句漏らさず暗記することに心血を注いでいるようだった。何故そこまで細部の言葉にこだわり暗記だけに力を注ぐのか私には理解できない。暗記の学業をすれば他人の言葉を口から出す複製人形になるだけだ。それより理解することに力を注げば良いのに、と思っていた。
物事には何でも“本筋”がある。高い塔を中心で支える太い柱のようなものだ。学問では論の構造を読み解き、中心の柱を見抜けばその分野を理解し会得できる。さらに広く他の分野を眺めれば、共通の本筋があることに気付けるだろう。いずれ世界の中心を貫く柱を観ることができる。世界の本質を捉えてから細部を暗記しても遅くはない。
しかしこのような学び方を説明しても誰にも理解されないのだった。ほとんどの人が、知識と理解の区別がつかない。知識さえ身に着ければ偉い学者と崇められ出世できると考えている。
ある時、私は重箱の隅を突くような書物の暗記に苦しんでいる友人たちを慰めるために
「君たちはそれだけ学業に励んでいるのだから、仕官すれば
と言った。自分にはできない努力をしている友人たちへの尊敬も込めていた。しかしそれが彼らの気持ちを逆撫でする言葉だったことには後から気付いた。
その場にいたのは
義侠心の強い元直は歯に衣着せぬ物言いをする人で、しばしば私の世間知らずを戒めてくれた。この時も叱るように切り返した。
「それでは、君は。自分はどこまで出世するつもりだ」
三人とも食い入るような眼で私を見つめ答えを待っていた。余裕のある人間から馬鹿にされた怒り、それに本気の興味が混ざった眼だった。
“誤解だ。馬鹿にしたつもりはない”
という意味を含めて私は首を横に振り笑った。
出世についても本心を口にすればさらに怒りを買うことが分かっていたから答えなかった。「私は出世するつもりはない。真実の道を求め、在野の思想家として暮らしていく」とは、その場で言える雰囲気ではなかった。
もっとも「出世するつもりはない」とは常日頃から口にしていた人生計画だった。それなのに誰も信じてくれず競争相手と定めた私の腹を探って来るのだった。
口にすれば怒られるが、私は人の競争心がわずらわしい。
誰もが自分の道だけ見つめて歩めば競争に焦ることもなく、嫉妬心で人の足を引っ張る必要もなくなるだろうにと思う。しかし競争は人の本能。健康な人には他者と競り合わずに生きることは難しいのだろうか?
やはり友人らが言う通り私は変わり者なのか、生まれつき競争本能が弱いようだ。ただ自分の道を目指したいだけ、他人と競う気はないのだから放っておいて欲しいと願う。ところが競争に無関心でいると逆に「余裕がある」と誤解されるらしく、かえって他人から競争心を浴びることになるらしい。
襄陽でも学友からの競争心を浴びてわずらわしくなり、水鏡先生のもとから自然と足が遠のいた。襄陽を去り隆中に篭ってからは久しく師を訪ねてもいなかった。
時折、襄陽から学友たちが訪ねて来た。しかし情勢が逼迫し、曹操の
孟公威が最後に隆中を訪れたときは暗い顔をしていた。彼は私の家の周囲を彩る紅葉を見まわし、
「今年も君の庵は美しいな。去年と同じ紅葉が見られるとはありがたい。ここの平穏な風景は、もはや夢のようだ」
と言った。いつになく感傷的な言葉に私は彼が何を告げに来たのか察した。黙って待っていると、ぽつり公威が呟いた。
「故郷の
「曹操へ! 何故だ」
分かり切っていた告白だったが、友の辛い選択が私には耐えがたかった。だからわずかな望みにかけて説得しようとした。
「独裁者に身を売るなど愚かなことだ。今、道義心がなく出世欲の強い者ばかりが曹操のもとへ集まっている。しかし私欲で独裁者に仕える人々は、火を目指す羽虫のようなもの。いずれ自分の欲に焼かれることになる。現に曹操はたくさんの人材を使い捨てにしている。君の才能も埋もれ使い捨てにされるだろう」
しかし公威は弱く笑い、分かっていると頷くだけだった。
「母のためだ。故郷に残してきた母は人質にとられたのと同じ。私が曹操へ仕えねば母は生きてはいられまい」
「しかし……外に居ればいずれ出世して母御を呼び寄せる道もあるはず。君が志を果たす場所は、何も
なおも説得を続けたようとしたが、彼は他に選ぶ道はないと諦めている様子だ。
以前は何かと私に相談をし将来の指導を求めてきた公威も、この時ばかりは頑なだった。私は涙と言葉を呑み込み彼の手を取った。
「分かった。君の健闘を願う。生きていてくれ。再び言葉を交わせる日が来るように」
時は移ろい行く。
いつの間にか隆中へ住み始めてから六年が過ぎようとしていた。
親族は私の里での棲み処を突き止め、「襄陽へ戻り仕官するように」と様々な立場の人を差し向けて説得を続けていた。
「私ももう二十五歳を過ぎた。いい加減に、一生仕官しないものと諦めてくれないか」
他人事のように呟きながら再びの引っ越しを考えていた頃、舅である
黄承彦の強い求めに応じ、形ばかりの婚儀で夫婦となった妻はまだ子供だった。黄氏が娘を車に乗せ隆中へ送り届けて来たのだが、隆中のあばら家は少女が育つには酷な環境だったためすぐ親元へ返していた。婚姻の籍はそのままである。
「本日訪れたのは他でもない。君の将来のことだが」
舅は狭い客間へ上がるなり世間話もせず切り出した。
「君が
いえ、そういうわけでは……と否定したのだが舅の耳には届かなかった。誰のもとにも仕官するつもりはないと告げているはずなのだが、舅も私の親族と同じく納得していない。
「しかしだ、隠棲したまま生を終えるつもりはないはず。私も君の評判の高さを信じ、将来出世すると見込んで娘を嫁に出したのだぞ。隠棲老人と結婚させたつもりはない」
水鏡先生や徐元直たちが“見込みのある青年”として、あちこちで私の名を出していたらしい〔※5〕。黄氏はその評判にかけて娘を嫁がせたのだそうだが、妻には迷惑な話だ。どうして「仕官するつもりはない」という私の人生計画を誰も信じてくれないのか?
もはや抗議の声すら出ない。ため息をつき黙っていると舅は本題であるらしい話を始めた。
「
劉備。もちろん知っていた。当世、劉備の名を知らぬ者はいない。曹操に抗ったことで中華全土を熱狂させた英雄だった。しかも皇室の血統に連なる人物で人徳も高いと聞く。劉備が統治していた徐州では仁政を敷いたため民の評判も良い。曹操に敗北して以降の人気は衰えていたものの、劉備に乱世収束の望みをかけている人はまだ多かった。
だが私は著名人や英雄に興味がなかった。遠方の伝説など私は信じない。現代の著名人で私欲のない者などいるものか、とも思う。そもそも出仕するつもりのない自分には、いかなる英雄であろうと無縁だと考えていた。
「せっかくのお話ですが」
断りかけた私を制して舅は告げた。
「いいか、これは最後の機会だ。食客希望の面会すら行かないなら娘と離縁させる他ない」
「えっ……離縁、ですか」
意外な脅迫に息を飲んだ。
離縁。そのほうが妻は幸福になれるだろうと考えたのだが、離縁で彼女の将来に傷がつくことを思うと胸が痛んだ。当時、女性の人生で離縁は重大事だった。まだ幼いのに、親の勝手な思惑と不肖な夫のせいで人生に傷を付けられるとはあまりに酷い話ではないか。離縁するとしてもそれは彼女が大人になってから、彼女の意志で決めることだ。
「一度でいいからやる気を見せたまえ。劉備のもとへ行き、出仕に至らないならそれまでの男と諦める。才のある君が何もせず篭っていることが残念でならんのだ」
断固とした舅の態度に私も腹を決めた。
「……分かりました。お義父様の仰せに従い、一度だけ樊城へ行きます。私には誰かに仕える気がないので現状は変わりませんが、お約束を果たすのですから、今後二度と私の人生に口出しすることがないようお願いします」
舅に対して失礼な物言いだったと思う。それでも舅は前半だけ聞いて喜び、顔をほころばせた。
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注釈
※3 この時期「諸葛亮は管仲・楽毅に自らをなぞらえていた」との記録が正史にあるが、当小説では取り入れなかった。『梁父吟』を諸葛亮が唄っていたという正史記述も政治目的での創作と考えられるため当然にカットした。
詳細解説 https://ncode.syosetu.com/n6927ih/2/
※4 古代中国人の名は、姓+名+字(あざな)で構成されている。成人後の対等な関係では字を呼び合う。ここは友人を紹介している場面なので姓+字で表現した。
古代中国の名について詳細解説はこちら。https://shoku1800.tokyo/2019/09/name/
※5 水鏡先生らが各所で諸葛亮を売り込んでいたのは史実らしい。『襄陽記』他に記録あり。このため黄承彦が娘を嫁がせたとのこと。
※6 食客とは古代中国の習慣。君主が才能ある客人に食事を与え自宅に住まわせる代わりに、種々の仕事を助けてもらう。斉の孟嘗君などは様々な才能を持つ食客を抱えたことで有名。
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