(二)三顧礼
私はその日の出来事を誰にも話さなかった。
かの“
舅には「やはり駄目だった」と報告した。すると舅は納得したのか怒ることはなかった。そして約束していたため、それ以降は何も言って来なかった。婚姻関係もかろうじてそのままとされた。
こうして私は自由な生活を手に入れた。死ぬまで庶民として思索生活を続けていくことを、ついに許されたのである。
それからしばらく親族からの解放感と、将来の生き方が定まった安定感で充足した日々を送っていた。この先誰にも邪魔されることなく静かな暮らしを続けていけるのだと思うと、このうえない幸せを感じることができた。
そんなある日のことだった。
私が散歩から帰って来ると我が家の前に人だかりが出来ていた。均の身に何か悪いことでも起きたのかと思い、慌てて駆けて行った。するといきなりその場にいた近隣の人々に囲まれてしまった。
彼らは笑顔で、口々に言った。
「おめでとう!」
「すごいじゃないか!」
状況が飲み込めずにいると、家の中から均が飛び出して来て叫んだ。
「兄さん! すごいよ」
「均。これはいったい、どうしたんだ?」
私の質問にも均は興奮した面持ちで叫ぶだけだった。
「どうしたもこうしたもない! とにかくすごいよ!」
「全然分からないよ。分かるように説明してくれ」
均は気持ちを落ち着けるように深く息を吸い、ようやく話を始めた。
「……兄さん、この間、劉皇叔と話をしたんだってね?」
私は驚いて一瞬答えに迷った。均もそのことは知らないはずだ。
「まあ、確かにそうだが……。でも、どうしてそのことを知っているんだ?」
すると均は何故か勝ち誇ったように言った。
「実は今日、うちに使者が来たんだよ。誰からの使いだと思う? 兄さんが話をした相手だ。つまり、あの、劉皇叔からの使者だよ!!」
周囲の人々から歓声が沸いた。一人状況を飲み込めない私は、歓声が静まるのを待って均へ訊いた。
「それで。何故、
均はその質問を待っていました、という顔をした。
「皇叔が、兄さんを迎えたいと言っていることを伝えに来たんだよ」
「なんだって」
「しかも、食客や新入りの待遇ではない。いきなり側近の相談役として、最高の待遇で迎えたいと仰っているんだ」
周囲の人々はほうっとため息をつき、うっとりした顔で私を眺めた。私はしばらく声も出なかった。
「……嘘、だろう?」
「嘘ではないさ。使いの人は皇叔の印を持っていたのだから」
皆は私の顔を食い入るように見つめ、私の答えを待っていた。お祝いの言葉を一斉に浴びせるために。しかし私はこう言った。
「断る」
均も里の人々も啞然とした。しばらくして気を取り直した均が呟いた。
「なん……だって?」
「断る、と言っているのだ。当然だろう」
「何を言っているんだ、兄さん。気でも狂ったか」
「私は正常だ。正常だから断るのだ。気が触れているのは、劉皇叔のほうだ。私のような経験もない若造を側近にしたいだなどと、おかしくなったとしか思えない」
均の顔が青ざめていく。
「……そんな……」
「とにかく、断る。だいたい私はもう庶民として野に生きると決めたんだ。その決意を今さら、変えることなどできない」
私はそう言い残し、さっさと家の中へ入ってしまった。人々はあまりの意外な回答に言葉を失っていたようだった。しかしすぐに酷い騒ぎとなった。私はその騒ぎを家の中で聴いていたが、知ったことかと思って出て行かなかった。
翌日以降、毎日里の人々からの説得を受けた。だが私は気持ちを変えることはなかった。そればかりか、親族の耳に入るとやっかいだからその前に断っておこうと思い、さっさと断りの書簡を樊城へ出してしまったのだ。
均も里の人々も私を「どうかしている」と言って責めた。劉皇叔のような高名な人物に認められるのは稀なことだというのに、断ってしまうなど頭がおかしいと言うのだ。だが私は彼らに何と言われても気持ちを変えることはなかった。
もちろん城主に認められたことは嬉しかった。私は初めて会った時から、
だいたい、城主は何か勘違いしておられる。経験もなく学も浅い私ごときを側近にしたいと所望されるとは、おかしくなられたのではないか。自分には有名な武将の側近などとうてい勤まらないし、もしそのようなことになれば足手まといになりかねない。遠くから健闘を祈っていたほうが彼のためだろうと思った。
しかしそれから一か月後のことである。
「ごめんください」
夕刻近く、表から呼ぶ声がして私は昼寝から叩き起こされた。
「誰だろう……」
そう呟きながら出て行った均が、すぐに血相を変えて戻って来た。
「兄さん。この間の使いの人が、また来ているよ」
「えっ。断ったはずなのに」
「でも来ているんだから顔を出しなよ。断るのなら自分で断ってくれ」
「分かったよ。今度こそきちんと断るさ」
そう言って私は手早く身なりを整え、表へ出て行った。しかしその使者の顔を見たとたん、すうっと血の気が引いた。
「……劉将軍!」
「やあ。やっと会えたな」
あの日見た屈託のない笑顔を向け、劉皇叔が立っている。眩暈を覚えた。私の後ろで会話を聞いていた均も顔面を蒼白にした。
「将軍、ご本人でらしたんですか……」
声を震わせながら呟く均を見て、城主は楽し気にからから笑った。
「弟くん。この間は、嘘ついてごめんな。きっと騒ぎになると思ったから名乗らなかったんだよ」
私たちは彼の配慮に感謝した。確かにこの間は皇叔から使者が来たというだけで騒ぎとなったのだから、本人が来たと知れたら大騒ぎでは済まなかっただろう。連日宴会が催され、しばらく静かに眠ることも許されなかったはずだ。
それにしても……、まさかまさか、皇叔自らこのようなあばら家へ来られるとは。
私と均は混乱に陥っていた。なにしろこれはあまりにも現代(当時)の常識からはずれる行為であったからだ。その昔、伝説の
驚きのあまり呆然とその場に立ち尽くしていた私たちへ、城主は事もなげに言った。
「とりあえず、立ち話も何だからお宅へ上がらせてもらえないかな?」
私たちは驚いて断ろうとした。
「そんな! 私の家は見ての通りのあばら家です。とてもあなたのような貴賓をお上げするわけにはいきません」
すると城主は笑った。
「あばら家だって? 充分に立派な家じゃないか。私が子供の頃は、これよりもっとみすぼらしい家に住んでいたんだ」
そう言って城主は自分で勝手に中へ入ってしまった。私たちはただ、あっけに取られ彼について行くしかなかった。
「いったい、どうなさったのですか。どうして、わざわざこのような所まで足を運ばれたのですか」
城主が腰を落ち着けると私は開口一番そう尋ねた。尋ねずにいられなかったのだ。
「どうしてだと。そんなもの決まっているだろう。来たかったからだ」
「来た、かった!?」
「そうだ」
私が驚いてまじまじと城主を見つめていると、彼は言った。
「何かおかしいか? 私は行きたい所には自分で行く」
「……はあ。なるほど」
そう返してはみたものの、まだ納得できていなかった。彼は何故こんな所に来たいと思ったのだろう。こんなあばら家に。
「しかし、将軍は何故、こんな所に来たいと思われたのですか」
私が素直に思ったことを口から出すと、ついに城主は笑い出し
「そんなにおかしいか。私が君に会いに来ることが」
と言った。
「探したんだぞ、君の家。あの時、ほら、姓を聞くのを忘れただろう。いやたしか聞いたんだが、めずらしい姓で覚えられなかったんだよ。君は名刺も持参していなかったしな。それで分かっていたのが“亮”という
学友として長い付き合いのある元直だ。最近会っていなかったため皇叔へ出仕したとは知らなかった。
「私が亮という名の若者を探しまわっていると聞きつけ、“それは諸葛に違いない”と言って住処を教えてくれたのだ。――実を言うと以前から元直には君を推薦されていたらしいのだが、私は実際に会ってこの目で見た相手にしか興味がないものでな。聞いただけの人物名は耳に留まらないのだ、すまない。どうやら司馬徽先生からも何度か君を推薦されていたらしい。いやはや、元直には怒られたのなんの」
楽し気に笑いながら話す城主に私はあっけに取られた。元直や水鏡先生が私を推薦してくれたとの話も意外で驚いたが、何より城主がそこまで必死で私を探したとの話に驚いていた。
呆然と聞いているだけの私の顔を、不意に城主は真直ぐに見据えしみじみ言った。
「本当に、また君に会えて良かった」
私はさらに当惑した。おそらく奇妙なものでも見るような目つきで彼を見ていたのだろう、笑われた。
「君に会いたいと思う者がいることが、それほど奇妙なことなのか? だが決して奇妙なことではないよ。なにしろ君は一度でも話をすれば、決して忘れられなくなる人物だからな」
私には不思議な言葉だった。たいていの場所で大人しく控えている自分が、他人へ強い印象を残すとは思えない。つい、そのままの疑問を口にした。
「そうでしょうか? 私は他の人よりも印象が薄いほうだと思いますが」
すると城主は私を軽く睨んだ。
「どうやら君は、自分のことがまるで分っていないようだな」
それから城主は少し言葉を切り、私の目を見ながら話し始めた。
「面談の間中、君はずっと黙っていただろう。私の目にはそんな君こそが最も見込みのある人物として映ったんだ。ところが、だ。君は最後まで残ったね。その時点で私は君に失望してしまったのだよ。なんだ、この男も結局は自分を売り込みたいだけなのかと。だいたい一人で居残って自分を売り込もうとするなど、一番姑息な手だろう。そういう姑息な男が、私はこの世で最も嫌いなんだ」
私は何も答えず黙っていた。あの時、自分を売り込もうという気持ちなどなかったのだが、そんなことを説明しても仕方がない。
ところが城主は先を続けた。
「実際、最後まで居残って自分を売り込もうとする姑息な連中は多いんだ。私はそんな奴の話など聞いている暇はないから、すぐに立ち去ることにしている。そしてあの時も、いつもと同じように広間を出て行こうとした。しかし腰を上げようとした直前、私は君を見て驚いた。君の目が、姑息な連中のものとはまるで違っていたんだよ。さらによく見れば君の身体は小刻みに震えているではないか。私はその時、ようやくはっきり気付いたんだ。この男は自分を売り込もうとして残っているのではない。ただ私と話をしたいだけなのだ、とね」
私は驚いて声も出なかった。あの時この人は私の身体が震えていたことを、そして私の心の中までをも見抜いていたのか……。
「だから私は広間に残って君が話しかけてくる時を待つことにした。そうして待っていると、やがて君は私に話しかけてきた。私の臣下たちが武器に手をかけているのにもかまわずに、だ。それは冗談ではなく命がけの行為だったよ。つまり君は自分の命を捨ててまで私に話しかけてきたのさ。その時私は、心の底から悟ったのだ。この男は、本物だ、と」
私が黙っていると城主は独り言のように言った。
「君を試したのは悪かったと思う。私はあの時、君という男を知るために自分からは話しかけなかったのだ。しかしおかげで、私は君をすっかり知ることができたよ。君が本当の意味で才能のある男だということをな」
私はその言葉に仰天し、思わず反論してしまった。
「しかし私は自分に世俗で使える才能があるとは思えません。現に、あの時私は、発言でも他の人々に劣っていました」
城主は急に厳しい顔つきになった。
「この玄徳を見くびるなよ、亮くん。私が発言ごときに左右される人間だと思うのか。私は言葉など聞いたことはない。ただ発言をしている者の目を見ているだけだ。こざかしい発言などで、私を騙せると思うのは大間違いだぞ」
私は言葉を失った。それは城主の言うことが事実だと、私自身も知っていたからだ。あの時城主は確かに人々の発言を少しも耳に入れず、話している者の目を見据えていただけなのである。
城主は首を少し横にかしげ、片目を細め、ちょうど私の顔を斜めから見る形で言った。
「どうせ君は、私が君に出仕を求めたことも気まぐれか何かだと思っているのだろう。しかしそれは武将というものを甘く見た、浅はかな考えだ。武将というものは何十万人、いや何百万人という人間の命を肩に背負っているのだぞ。一時の気まぐれなどで人選のできる立場ではない。……いいか、君が才能のある人間だということは絶対に間違いのないことだ。そして私は君のその才能に賭けているのだ」
私はこの瞬間ひやりとした。城主の目の中にあの時と同じ、冷たく真剣な光が宿っていたからだ。城主は目の中にその光をたたえながら、力強い声できっぱりとこう言った。
「単刀直入に言う。私は君が欲しい」
「……!」
「私は生まれて初めて切実に、人間を欲しいと思っている。君が必要だ」
あまりの真剣な言葉に圧倒され、私は声を出すこともできなかった。用意していた断りの台詞も全て吹き飛んでしまった。
城主は、ふと声の調子を変えてこう言った。
「君の書いた文を読ませてもらったよ。なかなか良く書けている。思想家として長く人々に尽くしたいという君の想い、自分には世俗の力がないことなどがよく伝わった」
それは私が書いた断りの文のことだった。
「だがな。君は少し、勘違いしているようだ。君は自分のことを何もできない、お役に立てないと言うが、そんなことはこちらは百も承知だ。君が何もできないのは当たり前だろう。いったい、君は自分が幾つだと思っているんだ。何かできると思うほうが間違っている」
彼はそう言ってから再び真直ぐに私の目を見た。
「私は君が欲しいと言っているのだ。ただそれだけだと言っている。君に何かして欲しいとは、ひと言も言っていないはずだ。私は、何か間違ったことを言っているだろうか?」
いいえ、と小さく返事をした。
「分かれば、それでいい。あとは私の言葉に対する君からの返事を待つだけだ。君が欲しい、と言った私の言葉にね。私はまた、後日ここへ来る。それまでよく考えていてくれ」
そう言って城主はさっと立ち上がった。
「もう帰ってしまわれるんですか?」
表で待っていた均が驚いて声をかけると、城主は
「ああ。世話になったな」
と言って、彼に向って片手を軽く上げた。立ち止まって振り返り、
「そうそう。それから、あと一つだけ言っておくよ」
と言った。
「君は自分を知らなさすぎるね。“彼を知り己を知れば百戦殆うからず”と言うが、逆に言えばそれは“自分を知らない者は何をやっても駄目だ”という意味だ。君が自分のことに気付かない限り、とうてい思想家にもなれないだろう」
その言葉に私は胸の痛みを覚えた。自分の弱い部分を突かれた気がした。
「では、また来るから」
そう言い残して城主は門外に待たせていた家臣とともに馬に乗って行ってしまった。
「兄さん」
城主の後ろ姿を眺めていた均が呟いた。
「劉皇叔って、すごく気さくで、いい人なんだね。憧れるなあ」
私は呑気な弟の言葉に何も答えることができず、坂道を降り遠ざかって行く城主の後ろ姿を見つめていた。
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