10   王女の苦難

 翌日の王都パラディオンは昨日にも増してにぎやかだった。

 厳粛な雰囲気で行われる葬儀でさえ祭のように盛り上がっていただけに不思議ではない。


 ただ異様な熱狂が街中に満ちているのをベアトリスは感じた。何かが起こる前触れのように――膨張した期待感が渦巻いている。暴発寸前のどよめきが肌をびりびりと刺激する。


 連れ立って、周りを押しのけるようにして進んでいく人々の群れは一方向に流れていく。ベアトリスはメフィストと顔を見合わせた。

 厩からスノウフレイクを引き取ってすぐに出発するつもりだったのだが、この状態では身動きも取れない――王都の門に向かうにも難儀しそうだ。


 どうします、というメフィストの口の動きをベアトリスは読み取った。互いの声も聞こえないほどに、周囲の音がうるさい。

 そんな中、どん、と大きな破裂音が響く。

 はるか頭上に白い煙が立ちのぼっているのが見えた。

「これは……祝砲、か?」

 続いて高らかなラッパの音が鳴り響く――これは王族が参加する式典が始まる前の合図だった。

 メフィストに目で合図すると、ベアトリスは人の波に流されるままに街の中心部へと足を向けた。



「偉大なる我が騎士団長に、光あれ!」

「ライル・コールリッジ新騎士団長に光あれ!」


 騎士たち、そして民衆たちの唱和する声が続く。

 中天には、グリティア王国の象徴たる燦然と輝く太陽が架かり、新しく騎士団長に就任した青年のまぶしいほどの美貌を照らし出す。

 白金の長髪が涼やかな風に靡き、湖面を思わせる碧眼が光を集めて煌めくたびに街の娘たちから感嘆のため息が漏れた。


 ちょうど昨日、献花台が設置されていた広場において王立第一騎士団の団長就任式が行われていた。

 日ごろは演劇などが行われる円形舞台の上に集まった人々の視線が集まっている。


 まさにいま、グリティア王国第一王子であるエヴァン・モリス・リチャード・キール殿下が宝剣を捧げ持ち、跪いた青年の右肩を叩き、形式上の叙任の儀を行っているところのようだ。

 既に騎士団長代理としてライルは実際の任にはついていたのだが、これで正式に王立第一騎士団長として扱われることになる――それは、前騎士団長であるベアトリス王女の本葬を終えたことにより、喪が明けたことを意味していた。


 群衆の中に紛れその瞬間に立ち会ったベアトリスは、かつて己の副官であった男の雄姿を、茫然とした面持ちで見つめていた。

 すべてが他人事のような感覚でもありながら、足元がいきなり崩れて、真っ逆さまに落ちていくような心地さえする。


「……ライル」

 こぼれた声は一瞬で歓声に掻き消されたが、いまにも力が抜けて座り込んでしまいそうだったベアトリスを注視していたメフィストは拾った。


「あいつですか」

 ぞっとするほどに冷ややかな声音がすぐそばで聞こえる。

「あいつが、あんたを傷つけたんですか」


 ベアトリスは小さく頷き俯いた。

 身じろぎするだけで肩同士がぶつかるような、人がごったえす広場の中にいるのに、顔を上げれば彼と目が合うのではないか――そんなふうに思えてしまい、みるみるうちに血の気が引いていった。

 先ほどからずっと、歯がカチカチと鳴っている。

 メフィストはベアトリスの腕を掴み、食い入るように舞台の上を見ていた。


「親愛なるベアトリス王女殿下、貴女の犠牲はグリティア王国にとって大きすぎる損失でした。これからもどうか――遥か遠き虹の国で女神となった貴女様のお力を、我らにお貸しください」


 王女を悼む言葉を読み上げる新騎士団長の声に、盛大な拍手と歓喜の絶叫が巻き起こる。うねり渦巻く興奮のただなかで、ベアトリスとメフィストだけが異質だった。手を打ち鳴らすことも口笛を吹くことも、新団長を称える「ライル!」の合唱の輪に加わることもない。


 メフィストはベアトリスの肩を強く引き寄せた。

 これ以上聞いていられるか、とばかりに舌打ちすると、人波を掻き分けて舞台から可能な限り距離を取る。

 広場の外れまで連れて行くと、ベアトリスの顔を覗き込んだ。


「……ひどい顔色してますよ」

 額に滲んだ汗をハーブの石鹸の香りがする手巾が拭う。頬を撫でたメフィストの指が、その冷たさにかすかに怯んだのがわかった。


「大丈夫だ」

「あんたの『大丈夫』はぜんぜん大丈夫じゃないんです」


 メフィスト、と彼を呼んだ己の声は思いの外、弱々しいものだった。

 何もかも失った自分が死に際に掴んだたったひとつの「もの」に縋り、ベアトリスは本音を吐き出した。


「此処にいるのはもう嫌だ……」

「わかりました。こんな街、とっととおさらばしましょう。【黒雪の森】に着いたら美味いもん、たらふく食わせてやります」

「ふふ、食べ物で釣ろうだなんて、おまえは私のことをよくわかっているな」

「なんだ笑えるじゃないですか。ほら行きますよアリス、おうちに帰りましょうね」


 子供扱いするな、と抗議しても「なんです? 此処うるさいんで聞こえませんって」と流されてしまう。手を引かれ、いまも続々と広場に集まって来る人々の流れに逆らうように歩き始めた。

 次にひときわ大きな歓声がきこえても、ベアトリスは振り返らなかった。



 森へと引き返す道中、何もなかったかのようにふざけ合い、笑い合った。

 メフィストが借りてきた馬が完全に乗り手を馬鹿にしていて、指示もないのに急加速して振り落とされそうになったのを見て腹を抱えて笑った。ベアトリスが行商人から怪しげな物品を勧められたときは「壺を一体どうするつもりですか」とメフィストが代わってぴしゃりとはねつけた。


「何も聞かないんだな」


 秋が深まりつつある群青の夜空の下、焚火を見つめながらベアトリスがつぶやくと「俺には関係のない話ですから」とあっさり答えた。

「ベアトリス王女殿下がライル・コールリッジ卿――新騎士団長サマに命を狙われた、なんてのは俺にとってはほぼ無関係の、遠い出来事です」

 どうだっていいとすら思ってる、爆ぜる火を眺めながら言う。


「いまここにいるアリスあんたのことを、俺が勝手に気にして――気に入って、そばにいるだけですし……聞いてほしいことがあるのならあんたから言ってください」


 メフィストはベアトリスが時折、うなされていることを知っている。

 完全に癒えはしない傷は絶えずベアトリスを苛み、かつての友の酷薄な哄笑を繰り返し思い出し、跳ね起きて自らの鼓動を確かめる姿を何度も見ていた。同じ部屋で過ごすことだって多いのだから、当然でもある。


「すまない――もう少し、待ってくれ。自分の中で整理できてから、おまえには話したい。つまらない話になるとは思うが聞いてほしい……構わない、だろうか?」

「いいですよ。好きにしてください。言わないことであんたが負担に思う必要は何もありません」

 

 それきり、この話をすることはなく街道沿いの町を経由しながら【黒雪の森】が在るイェーツ辺境伯領へと入ったのだった。


「なあ、聞いたか」

「ああ酷い話だよな」


 そのころから、沈鬱な表情で言葉を交わす人々が増えてきた。それが妙に気になり、立ち止まっていると「ほら。あと少しですから頑張ってくださいねえ」とメフィストがベアトリスを激励する。

 行きものんびりとした行程ではあったが、王都から【黒雪の森】まではおよそ一週間ほど要した。ベアトリスの心身をいっそう気遣うメフィストの配慮があったことは感じていたが、それに甘えてしまっていた。


 そのことをベアトリスは生涯、悔やむことになる。

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