11   王女の罪過

 何が起きたのか、理解することを頭が拒んでいた。


 グリティア王国北部、イェーツ辺境伯領の外れの森林地帯――通称【黒雪の森】。渓谷を繋ぐ橋を渡り、その先に広がる風景はかつてベアトリスが目にしたものとはまるで異なっていた。


 見渡す限りすべてが黒に染まり、確かにそこにあったはずの森林の穏やかな息遣いが掻き消えている。


 やわらかな青い草のにおいの代わりに、異臭が漂っていた。

 死のにおいだ――蹂躙され破壊され殺された生命の悲鳴が、強く大地に沁みついている。

 それは、嗅ぎ慣れた血と暴力の成されたあとに残る悪臭だった。


 しばらくのあいだ、ベアトリスはこみ上げたものを押し戻すことに集中しなければならなかった。


 ふわりと風に乗って運ばれてくる「黒雪」は火山灰ではない。より大きく黒々とした――何かの燃え滓だ。視界を塞ぐようだった背の高い木々は黒く炭化した塊となり、生き生きとした枝葉は見る影もなかった。


 なにも、ない。


 神の見えざる掌が、慈悲なく叩き潰したかのように――平坦な大地がむき出しになっている。旺盛に茂っていた植物の痕跡は静かに横たわる木の躯だけだった。

 目視できる範囲、すくなくとも【黒雪の森】のおよそ半分以上は焼失していた。荒廃とした地面には燃え残った骨のように、ぱきりと半分に折れた幹が捨て置かれている。

 いまも消火しきれなかった炎がくすぶっているのか、絶えずあちこちから立ち昇る黒煙が生々しい傷跡を物語っていた。


 せわしなく呼吸を繰り返すたびに吸い込み続けた灰が、喉にべったりと張りつき、ベアトリスは思わず咳き込んだ。ゆっくりと屈み、指で触れれば黒い躯は脆く崩れた。


 一面に広がる煤けた世界を前に、ベアトリスは膝をつき――力なく座り込んだ。

 

 茫然としているベアトリスの横を、勢いよく桃色の影が駆けていく。

 ようやく正気を取り戻し、萎えた脚を叱咤するとメフィストを追ってベアトリスも走り出す。


「……ひでえな」


 思いの外、淡々とつぶやいたメフィストの言葉がベアトリスの胸を抉った。

 掛ける言葉が見つからなかった。崩れ落ちた小屋の残骸を前に立ち尽くすメフィストの背中はいつになく小さく見える。うかつに触れれば壊れてしまうのではないかという気さえした。

 床に堆く積もれていた書物も、部屋いっぱいにあふれかえる薬草も、すべて灰になり、跡形も残っていない。

 この家は彼の「知人」の家だった、という。そのひととの思い出ごと、燃え盛る炎が奪っていったのだと思うと、胸が潰され息が出来なくなる。

 

「おい、おまえメフィストか?」

 ふらふらと焼け跡の中を歩いていた男が声をかけてきた。煤で汚れた顔でも【黒雪の森】の近くに暮らしていた村人だとわかる。

 言葉もなく小屋があった場所を見つめているメフィストを憐れむでもなく「おまえどこに行っていたんだ」と詰問した。


「森が――俺たちがこんなことになっちまってたのに、おまえは女と遊び歩いてたってか⁉」

 男はベアトリスを一瞥し、メフィストの胸倉を掴んで怒鳴りつける。

「……何があった」


 掴まれたまま静かに尋ねると、男は顔をしかめ、突き飛ばすようにメフィストを解放した。なんだ、と他にも見た顔がぞろぞろと集まって来る。ざわめく村人たちにあっという間に取り囲まれた。

 集団の中で女がメフィストを睨みつけ、声を張り上げ叫んだ。


「王都の連中が【黒雪の森】に火をつけたんだ!」

「あの青いマントは前も見たから間違いない、王都からやってきた騎士だ。まだ若い男ばかりだったな」

「げらげら笑いながら『王女を殺した魔女を断罪するんだ』って……この森には魔女なんていないってのに、おれたちの言葉なんて聞いちゃくれなかったよ」

「それどころか王女陛下を暗殺した反逆者を匿っている疑いがある、なんて言いがかりをつけたんだ!」

「おまえたちにも責任があるんだと。フィーレント聖教をないがしろにする異教徒め、と吐き捨てやがった」


 代わる代わる当時の状況を語っていく彼らは行き場のない怒りや恐怖や悲しみを、メフィストとベアトリスにぶつけた。

 【黒雪の森】を焼いた焔の舌はあっというまに森を呑み込み平らげると、風に乗って舞い上がった火の粉を村まで届かせたという――そして、あっという間に延焼が広がっていった。

 集まった人垣の向こうに、荒れ果てた畑や惨く焼け落ちた家屋が遠く見えた。


「……あ」

 これ以上、涙ながらに語る彼らの悲痛な訴えを聞くことをベアトリスの身体が拒んだ。両手で耳を塞ぎ目をぎゅっと閉じる。

 そんなことで己の過ちは消えないのはわかっていても、目が、耳が過度な情報に耐え切れず悲鳴を上げている。

 罪はもっと前からこの身に刻まれていたというのにひたすらに無自覚だった。

 いちど死んで、生まれ変わったような心地でいた自分が恥ずかしかった。


 ――私がこの森に来たせいで彼らは苦しんでいる。死んでからも求められず、疎まれる役立たず。


「ひどい火傷をしたやつだっている。どうしても家を離れられないと言って焼け死んだじいさんも……」

「わかるか、あの傍迷惑な王女様のせいで、私たちの村は、森は焼かれたんだ!」

「あいつさえいなければこんなことにはならなかった」

「何が【火焔の姫騎士】だ、どれだけ偉大なお方だったとしても私達にはまったく関係ないね。死んでからも厄介ごとに巻き込んで……」


「黙れ」


 冷ややかな低音が森に響いた。思わず目を開けると、ベアトリスの視界をふさぐようにメフィストの背中があった。

 のらりくらりとして、嫌味や文句も飄々と受け流していくメフィストが放った静かな怒気に触れて、興奮気味に話していた村人たちは押し黙った。


「王女のせいじゃない。怒りの矛先をすり替えるな」

「なんだと?」

「王女がこの森に火を放ったのか? 違うだろ――彼女はこの森で殺されたんだ。王女が無事に死者の国に行けますように、なんて『花流し』で祈りまで捧げておいて……風向きが変わった途端、悪し様に言うのかあんたらは」

 メフィストの淡々とした言葉に押し負けて、村人たちは顔を見合わせた。困惑したように「だって」とか「いやでも」とか言い合う姿を醒めた目で見ていたメフィストが、ぱん、と手を叩いた。


「――怪我人がいるんだろ? 俺が傷を診てやるから、もう余計な諍いは勘弁してくれ。それと……治療薬に必要な薬草は見てのとおりすっかり焼けちまったみたいだが、備蓄していた薬が小屋のそばに埋めてある。掘り起こすから手を貸してくれ」


 ばらばらと動き始めた村人のようすを見ながらメフィストがこちらを振り返った。


「悪いが、非常事態みたいなんで。しばらく契約おあそびはお預けってことでいいですか?」

「……しい」

「はい?」

「私にも何かさせてほしい。おまえのために、この森の、村のひとたちのために」

「どっちかっつうと、逆では? あんたが主で俺が従う――俺らはそういう関係じゃないですか」

「私、にも出来ることがあるはずだ。力仕事でもいい、なんでもいいから……頼む、メフィスト」


 じっと紫の双眸がベアトリスを見つめた。息を吐くと、張り詰めていた彼の表情がかすかに緩んだのがわかった。


「仕方ないですねえ。ほかならぬあんただから任せられる大事な仕事を、お願いします」

 

 メフィストは灰で汚れたローブの下から何か紐のようなものを引っ張り出した。ちょっと屈んでください、という指示に従ったベアトリスの頭に紐をくぐらせて、首から提げさせる。


「これは首飾り……いや、指輪か」


 革製の紐に通されたものは銀色の指輪だった。石座ベゼルのうえにはめ込まれた紫水晶には蛇と盾を象った紋章が彫り込まれている。輪の内側に刻印された文字を読もうとしたとき、長い指が伸びてきてベアトリスの衣服の下に指輪を押し込んだ。


「ほらさっさとしまって。これは奥の手ですから、話が通じなかったときに出してください」

「わかった」

「物分かりがよくて助かります。ということで、アリスはこれを持ってルドヴィカへ行ってください」

 よし、行ってくると踵を返したベアトリスの襟をメフィストが掴んだ。


「こら、まだ話の途中です。ルドヴィカは辺境伯領の中で一番でっかい街で、めちゃくちゃ寒いです。まだ秋口ですけど雪が降ってるかも……こっからだと山があるんで迂回してシュルーガ平原から国境付近まで行けばわかるはず、なんですけど」

「任せてくれ」

「ルドヴィカに着いたら……街を見下ろす高台にイェーツ辺境伯の屋敷があります。辺境伯にいまの【黒雪の森】の状況を報告してください。負傷者も多いですし、避難する場所も必要だ。救援物資を寄越してほしいと頼んできてください」

「承知した」

「もし、あんたが話をきいてもらえなかったら」


 さきほど指輪を仕舞い込んだあたりを、メフィストは指さした。


「それを見せてください。『持ち主から預かった』と言えばさすがに無視はしないでしょうから」


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