12 王女の証明
息が切れるほどに早く、早く早く――祈るようにシュルーガ平原を駆けていく。ベアトリスの気持ちに呼応するようにスノウフレイクが加速した。手綱を握る手に力が入りすぎないようにぎゅっと唇を噛む。
『あんただから頼むんです』
ベアトリスを見送る際にメフィストが言った言葉を刻みつける。自分にもできることがある。罪悪感に押しつぶされそうになるたび、いまからでも彼らの役に立てる、そう信じることができたのはメフィストのおかげだった。
森を発ってから二度目の朝を迎えた今日――北部辺境伯領の最大都市、ルドヴィカは薄く雪が積もっていた。石畳に粉砂糖を振るったような凍てついた路面を一頭の白馬が駆け抜けると、通りを歩いていたひとたちが一斉に振り返る。
一陣の風となって駆け抜けていった真っ白な残像と、勢いよく舞い上がったさらさらの雪を見て、まるで冬の精霊が吹雪を起こしていったみたいだ、と噂し合った。
イェーツ辺境伯の屋敷の門の前で、ベアトリスは転げ落ちるようにして馬から降りた。突如として現れた不審人物に門番ふたりは目を剥く。「貴様、何用だ」とぼろぼろのいでたちのベアトリスに向かって声を荒げる。
「……イェーツ辺境伯にお目通り願いたい」
「何だ――女か? 貴様のような怪しい者を通すわけにいくか、帰れ!」
どん、と槍の柄を凍てついた地面について威嚇する。話していても埒が明かない。だがあれは切り札だ、とメフィストには言われている――強行突破することも視野に入れて考えてみることにした。
相手は二人か……武器はどちらも槍のようだが、他に何か所持している可能性もある。そして此方に武器はない。
ベアトリスを非力な女と見くびっているいまだからこそ勝機はあるが、否――だめだ、此処は戦場ではないというのに、仕事を全うしているだけの彼らを傷つけてはならない。
意を決してベアトリスは懐から、紐に通された指輪を取り出した。提げていた首から外して差し出す。
「これを」
「何だ……?」
気味悪そうにベアトリスから受け取った門番が、指輪を見た途端に顔色を変えた。
「っ、この紫水晶に蛇と盾の紋章、まさかイェーツ家の……」
「おまえ、これをどうやって手に入れた? まさか盗んだんじゃ」
違う――焦るでもなく怯えるでもなく、はっきりと言い切ったベアトリスを前に門番は圧倒された。この浮浪者のような身なりの女が、高貴な人物のように思えたのだ。
「預かったんだ、メフィストという男に。桃色の髪の、男……」
「行け、至急旦那様に知らせろ。俺はこいつから事情を聴く」
きいん、と耳鳴りがする。
森を発ってから張り詰めていた緊張の糸が切れ、途端に目の前が真っ暗になる。
おい、あんた大丈夫か――かけられた声が遠く響き、それきり意識がふつりと途切れた。
「あら、目が醒めましたか?」
羽根のようにやわらかな声音がベアトリスを出迎えた。瞼を開き、声の方向に頭を動かせば、椅子に腰かけたミルクティー色の髪の婦人と目が合う。彼女は穏やかに微笑んだ。
レースのカーテンがふわりと風をはらんで揺れている。
豪奢な造りの部屋の寝台にベアトリスは寝かされていた。服も着替えさせられたらしく、泥に塗れた旅装から着心地のいい寝間着に変わっている。
身体を起こしたベアトリスを宥めるような囁きで彼女は言った。
「寝不足でしょうって、お医者様が。それより背中の傷の方が気になったみたいだけど……医者の手によるものではないのに、縫合も化膿止めも必要な処置がすべてが適切になされている、と驚いていたわ」
眠りに誘うように甘く伸びやかな発声に引きずられそうになりながら、ベアトリスは尋ねた。
「すまない、私は眠って、いたのか。それはどれくらい?」
「そうねえ……あなたがこのイェーツ辺境伯邸に着いてから三日ほどになるかしら。ねえ待って、どこに行くの?」
「森に戻らなければ……いや、その前に辺境伯に嘆願を」
彼女はふとんを跳ねのけ寝台から飛び降りようとしたベアトリスを制止した。
いまも【黒雪の森】でメフィストが支援物資の到着を待っているはずだ。ベアトリスにしかできない、と言って任せてくれたのにこのざまか――己のふがいなさに歯嚙みした。
「心配しているのは【黒雪の森】のことよね。あなたがずっと譫言のようにつぶやいていたから、辺境伯がうちの者たちに向かわせたの……話には聞いていたけれどひどい火事があったそうね。至急、食料や防寒具、仮住まい用の天幕などを持って支援部隊を派遣したところよ。だからあなたは安心してゆっくりお休みになって」
「休んでなどいられない!」
ベアトリスが声を荒げたので、彼女はびくっとした。
「っ、レディ、驚かせてすまない……だが私はすぐに戻ってメフィストを――友を手伝いたいんだ」
こんこん、とノックの音が響いた。
寝台の隣の椅子から彼女が立ち上がり、ドアへと向かう。
「嫌ですわダニー。いくらあなたとはいえ、無礼が過ぎます。淑女の寝室に立ち入ろうなどと」
「ピオニー、いまはそんなことを言っている場合ではないのだ」
ピオニーと呼ばれた彼女を脇に押しのけて、男が大股で部屋に入って来た。歩くたびにどしんどしんと地響きでも起きたかと思うほどの振動が寝台を揺らす。
彼が目の前に立ったときに納得した。筋骨隆々、という表現がぴったりの大男である。日に焼けた褐色の肌に精悍な顔立ちをした男はベアトリスに目を留め、息を呑んだ。
「彼女と少し話がしたい。ピオニー、外してくれないか」
「あらダニエルったら深刻そうなお顔ですこと。ええ、もちろん――お断りしますわ」
「そうか、ピオニーならそう言ってくれると思……って、何故だ⁉ きみはそのような聞き分けのないことを言わないだろう!」
「いやですわ。夫が妻であるわたくしを締め出して、美しい女性と密室で会話をすることを歓迎するわけがないでしょう?」
ねえ、とベアトリスに同意を求めてくる。
「ご夫君が私に懸想をすることはないと思うが、あなたの誤解を招く恐れがあるのなら慎むべきだろうな」
きまじめな返答にピオニーは目を丸くしてころころ笑った。
「面白い方」
「ピオニー……」
困り切ったようすの夫を一瞥し、彼女は頷いた。
「よろしくてよ。あなたではなく、わたくしこの方を信じます」
にこやかに言い放ってピオニーは退室した。「すまない、妻は冗談好きで……」というので、「可愛らしい方だと思う」と率直に伝えると男ははにかむような笑みを見せた。とっつきにくそうな印象があるのだが、いま彼が見せている表情はあどけない少年のようで可愛らしい。
「きみが持ってきたのは、我が弟の指輪でね。どうやって手に入れたのか聞かせてもらいたい」
「……メフィストと名乗る男に託された。これをイェーツ辺境伯に見せろ、持ち主から預かった、と言えば無下にはされないだろう、と」
男は天を仰ぎ、小さな声で「神よ」と唱えた。
「ところで……私のこの顔に、見覚えはないでしょうか」
「すまない、私は物覚えが悪いんだ」
「――ベアトリス王女殿下」
はっきりとした口調で、男はベアトリスを呼んだ。濃紫の双眸がはかるようにじっと向けられている。
「一度だけ、お目にかかったことがあります。我がイェーツ辺境伯領は常に外敵の侵入に晒されてきました。王立騎士団の方々とは衝突することも多かったのですが――貴女は……騎士団長であるベアトリス王女殿下は、王都のお偉方の反対を押し切って何度もご助力くださったと聞き及んでおります」
ベアトリスは己の髪をひと房つまんだ。染料が落ちて、もとの赤髪に戻っている。それほど効果は持続しない、というメフィストの言葉を思い出した。面識のある相手なのだから仕方がない、観念してきつく結んでいた唇を開いた。
「……ああ、あなたのことはよく憶えている。イェーツ辺境伯――貴公が率いる騎士たちは主人想いで統率も取れた優れた部隊だったな。王立騎士団に入団しないか、と誘ったのだが丁重に断られた」
「それはうちの者がとんだ失礼を……ご無事で何よりです、ベアトリス様」
すっと片膝を立てて跪いたイェーツ辺境伯に「やめろ」と命じた。
「『王女』はもう死んだ。葬儀も終わったんだ。それでいい」
「いえ、そういうわけには……ご様子から察するに、何者かに襲われて重傷を負ったのでしょう、王都に至急知らせねば」
「やめろと言っている。無駄なことはやめた方が賢明だ、イェーツ辺境伯。薄々わかっているはずだ――私が何故『死んだ』のか」
犯人も、黒幕も承知していると断言したベアトリスに辺境伯は渋面を作った。
「……いえ、まさかそんな。王女殿下を弑逆するなどという大罪を誰が犯すというのです」
「実際に私に傷を負わせた者の名を告げることは容易いが、その背後に誰がいるのかまで敏いおまえには見当がついているのでは? 私が死んだ方が都合のいい者など……わかりきっているじゃないか。ゆえに何も言うな――不敬だ、言いがかりだと、辺境伯の地位を没収されかねない」
「……殿下、本気でそのようなことをおっしゃられているのですか」
「ああ」
昔から、王宮にベアトリスの居場所はなかった。
王妃であった母が死に、側室からその後釜に収まったエヴァンの母は彼女の息子にこう言ったそうだ。「貴方こそが王となる器。正妃の子とはいえ、ベアトリス姫は女です。
実際、エヴァンから当たりが強くなったのはその頃だったから侍女の話も嘘というわけではなかったのかもしれない。わざとぶつかって転ばせたり、髪をつかんで「魔女の髪だ」と囃し立てたり――そんなときに、そっとエヴァンに隠れて助けてくれたのがライルだった。
ベアトリスが王位を狙って父を暗殺しようとしている、と馬鹿げたデマを吹き込んでいるという話もあった――王宮とは様々な噂が飛び交うもの、まともに取り合いはしなかったが。
『【黒雪の森】へ行け』
『王女殿下を始末せよ、との命令を』
王か、第一王子――そのいずれか、もしくはどちらもがベアトリスの死を強く望んだ結果が、いま自らが身を置いているこの現実だ。自分が家族にも疎まれ、見放された事実は変わらない。
「――ベアトリス王女殿下」
イェーツ辺境伯は悲痛な面持ちでつぶやき項垂れた。
「辺境伯がそのような顔をせずともよい……ところで、先ほど奥方より聞いた。【黒雪の森】に人を送ってくれた、と」
ベアトリスが語り掛けると、辺境伯は勢いよく顔を上げた。
「はい! 殿下が仰った【黒雪の森】近郊の村には支援物資と共に人員を派遣しました。住居を失くしたというお話でしたので、彼らが望むのであればルドヴィカに避難してもらうことも視野にいれております」
「そうか……私は、すこしでもメフィストに報いることが出来たのだろうか」
イェーツ辺境伯は何故か奥歯に物が挟まったような表情で目を細める。逡巡したのちに咳払いをした。
「その『メフィスト』なる人物についてですが……」
「ああ――話していなかったな。いまも被災後の森で陣頭指揮を執っているのだろう。私が【黒雪の森】で瀕死の重傷を負ったときに救ってくれたのが、彼だ……まさに悪魔のような、桃色の髪をしている」
「悪魔」
呆気にとられたように辺境伯は繰り返した。それほどおかしなことを言ったつもりはないのだが。ベアトリスは首をかしげた。
「さすがに私も、本気で魔女だの悪魔だの言っているわけではない……殺されかけた直後は薬の影響もあるのか、ひどくぼうっとしていてそう思っただけだ。ただ常人には真似が出来ないような秘術を用いて、私の怪我を治療したのは事実だ」
「左様でしたか」
「気のいいやつでな、世間知らずの私の世話をあれこれ焼いてくれたんだ……そして彼の作る料理は絶品で」
いつまでも話を続けられそうだったが、殿下、と辺境伯が遮った。
「お伝えしなければならないことがございます」
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