13   王女の再会

 冬の始まりを告げる凍てつく風が、冠雪したエルナト山とそれに連なる山々から吹き下ろしてくる。麓にあるグリティア北部最大の都市、ルドヴィカは大雪に見舞われていた。

 真っ白な雪が世界を染め抜き、人気のない夜半から早朝にかけては音さえも凍らせる――それがイェーツ辺境伯領における冬だった。


「おはようございます、アリス様! 雪重くないですか? 今日のは水分多くて大変でしょう」

「問題ない。ありがとう」


 新雪に足跡をつけながらスコップ片手に駆け寄ってきたのは、メイドの少女だ。色白の肌に、人懐っこい笑顔が眩しい。

 朝早くからイェーツ辺境伯邸では使用人が総出で除雪作業に追われていた。

 マシログマの毛皮を纏ったイェーツ辺境伯ダニエルもその輪に加わり、力仕事をこなしている。そのようすをもこもこのサユキギツネの尾で作った襟巻で首を覆ったピオニーが二階の寝室のベランダから見守っていた。


 ベアトリスがこの屋敷に滞在するようになって、およそひと月が経過していた。留まるように勧めてくれた辺境伯に甘え、屋敷の中で様々な手伝いをして過ごしている。雪かきも何度かやるうちにコツを掴み、勝負事に目がない使用人たちとどちらが早く通行路を整えられるか競い合うこともある。


 門から屋敷までの通路、そのほか必要な設備までの動線をひととおり確保できたら、各自通常業務に就くことになる。その前に使用人たちが自主的な鍛錬を実施するのがイェーツ辺境伯邸の習わしだ。


「あ、アリス様……この特訓はさすがにキツいです~」

「何を甘ったれたこと言ってるのよ! アリス様ほどの実力者が指導してくれるなんて滅多にないことなんだからね」


 黒のドレスにエプロン姿の少女たちがひいひい言いながら走っている――その中には先ほどベアトリスに笑いかけた娘も混じってた。

 その先頭を走りながら「ペースを上げるぞ」とベアトリスが声掛けをすると一団から悲鳴が上がる。

 特訓というのはモップ素振り百回、からの水がたっぷり入ったバケツを両手に持ち、屋敷の内周を走るというものだ。雪かきは終わっていても路面は凍結していてつるつる滑りやすい。しかも一滴でも水を零したら最初からやり直し、という条件をつけてある。

 そのとき、すっと音もなくベアトリスのすぐ後ろまで影が迫った。


「来たか」


 跳躍した少女が、バケツをくるりと素早く一回転させ――それでも水は零れていない――ベアトリスに飛び蹴りを仕掛けてくる。

 左右には除雪作業で築いた雪の壁、逃げ道はない。

 攻撃が当たる直前で体勢を低くすると、狙いが外れた少女が勢いあまって雪の中に突っ込んだ。びしゃ、と水が周囲にまき散らされる。


「あ~、痛そ……よしっ、かたきはわたしが取っちゃうからねっ」


 死んでないわよ!と全身雪だらけになりながら腕を振り上げたとき、もうひとりの少女が頭上を狙い雪玉を投げつけた。

 ひゅる、と弧を描くようにしてベアトリスを飛び越え、見当違いの方向に飛んでいく。


「なるほど、状況がよく見えているな」

 雪玉は納屋から垂れ下がる巨大なつららを直撃し、落下した鋭い氷柱がベアトリスの右足わずか半歩右に突き刺さった。当たったらただ事では済まないだろうが当たらなければいいだけだ。

 避けることも想定していたのだろう、直後、死角から少女が突進してくる。


「よし取った! って、あ、うそぉっ!」


 ずる、と足を取られて少女は転倒した――先ほど撒かれた水が一瞬で凍ったのだ。頭からバケツの水をかぶり、くしゃみをしている。

 そのまま加速して少女たちを引き離すと、ベアトリスはゴール地点である正門前に到達した。そのあと雪だらけになった少女たちが追い付いてきた。


「え~ん、またアリス様の勝ちだ……勝てる日なんて来るのかなあ」

「そんな簡単に私達なんかが叶うわけないわよ。執事長や従僕連中でさえコテンパンに負けてるんだから」


 皆、転倒で仕事着が雪と泥まみれになっている。各自、着替えてくるように指示すると、元気よく屋敷の中へと駆け込んでいった。もう一周走ることにはなるのは決定事項なのですぐに戻って来るはずだ――これ以上、服を濡らされても困るから普通に走るだけにしてもらおう。


 始業前の肩慣らしの時間、ベアトリスに一撃でも喰らわせることが出来れば、終業後の訓練はなし、さらにピオニーのために用意されたのと同じ極上の茶菓子を得られる。そのご褒美目当てに少女たちは毎日のようにアリスに訓練をつけてほしいと挑んでくる。

 彼女たちメイドばかりではなく、他の使用人にも同様に空き時間を利用して実戦形式の訓練をつけている――それがベアトリスがこの屋敷で行っている主な「手伝い」だった。


 イェーツ辺境伯邸において、使用人を雇用する際の必須条件がある。

 それは、何かしらの武術に長けていること、かつその訓練に従事することを厭わないことだ。

 古くからこの土地は外敵の侵入が多く、拠点となる辺境伯邸を狙われる可能性が高かった。何代か前の当主の時代、神聖帝国側から越境してきた「賊」が屋敷に侵入し多くの非力な使用人たちが死んでしまったらしい。

 それ以来、この条件で募集をかけることにしており、いまとなっては執事やメイド、園丁や厩番に至るまでほぼすべての使用人が騎士との兼業が出来るほどに腕が立つという。ベアトリス自身、彼らの訓練相手として相対するうちに実力は十分感じていた。


 有事の際の戦闘能力を使用人に求めているのは貴族の中でも珍しい――おそらくイェーツ辺境伯ぐらいだ。


「おはようございます、アリス様。ちょうど【黒雪の森】に追加物資を運ぶところだったんです。よろしければ確認していただけますか」

「了解した、この木箱の中か」

 ベアトリスは蜂蜜漬けの黒林檎がたっぷり入った瓶が詰め込まれた箱を軽々持ち上げる。そのようすを目にして従僕は苦笑した。


「アリス様がひとりいれば私たちの仕事などなくなってしまいますね」

「いや、私に出来ることなどほとんどない。その点、おまえたちは個々に優れた能力を有していて目を瞠るほどだ……実務も武術も優秀で羨ましい」

「貴女ほどの方に認めていただけるとは、皆にとって励みになるでしょう……おや?」


 積み荷を確認していたベアトリスが、従僕の声に振り返った。門をくぐり、何者かが敷地内に入って来たようだ。

 真っ白な世界の中に一滴落とされた墨―――それが緩慢な足取りで歩いて来る。ごう、といまも振り続く雪がその姿を滲ませる。

 一歩ずつ近づくにつれてはっきりとそのかたちがわかるようになった。ベアトリスは目を凝らす。

 

 その瞬間、勝手に足が動いていた。


 雪を蹴り上げ、走り出す。何度も転びそうになりながらも、黒き一点を目指して勢いよく駆けた。


「メフィスト!」


 ベアトリスの声に顔を上げ――息を白く凍らせて笑った。


「……はは、元気そうで何よりです」


 メフィストは、ぽふと載せた掌で、薄く雪が積もったベアトリスの頭から雪を払った。


「おまえは! どうなんだ、無事だったのか……? すまない、私もすぐに【黒雪の森】に戻れば……」

「いや、むしろこっちにいてくれて助かりましたよ、気を回す余裕もなかったでしょうし。それに……疲弊しきった場所にいるとみんな心が荒みますから。あんたはそういうのから出来るだけ遠ざけたかったんで……って、いきなり何です⁉」


 ベアトリスは、ぎゅっとメフィストの背中に腕を回した。薬草と香辛料が混じったような刺激的な香りがする――メフィストのにおいだ。胸いっぱいに吸い込んでほっと息を吐いた。確かに此処にいる。夢でも、幻でもない。


「さ、触ってませんからねっ俺は!」

 ばっと勢いよく両手を上げて謎の主張をしたメフィストの声は裏返っていた。


「よかった。おまえが無事で」

「ったく、誰の入れ知恵ですかねえ……」

 ゆっくりと下ろされていった手がベアトリスの背に回される――その一歩手前のことだった。


「お待ちください、アリス様。まだ作業の途中ですのに、いったいどうなさったのですか、そんなに慌てて……あれ?」

 ざくざくと雪を踏みながら近づいてきた従僕と、メフィストの目が合った。

「そこにおられるのは坊ちゃまでは……?」


 げ、と呻いたメフィストの声は絶叫で掻き消された。

「わー! やっぱりフィン坊ちゃまですよね⁉ いやあ久しぶりですねえ。というかどうしたんです、その髪。ドぎついピンクじゃないですか、何か嫌な事でもあったんです?」


 興奮気味に大声を上げた従僕に「静かにしろ」とメフィストは必死にハンドサインを送ったがもう手遅れだった。するとなんだなんだ、と外で立ち働いていた使用人たちがわらわら集まって来る。


「なんと……そこにおられるのは坊ちゃま! ついにお屋敷にお戻りになったのですね――この老いぼれが死ぬ前に一目お会いできるだろうかと、気が気じゃなかったですよお」

 泣きじゃくりながら家令が叫ぶと、新入りのメイドが隣の先輩の袖を引いて「この汚いの誰ですか」と尋ねた。

「坊ちゃまだよ。フィン坊ちゃま――イェーツ辺境伯の弟さんだ。古くからの使用人たちはみんな坊ちゃんって呼んでる」

「おーい、坊ちゃまが帰ったってマジか? おお……老けたな……退廃的な美少年とか呼ばれてたのにすっかりくたびれちまって。年月ってのは残酷だよな」


 詰め寄って来た使用人たちに、メフィストとベアトリスはすぐに囲まれてしまった。

「相変わらず言いたい放題だな、この脳筋ども……」

 メフィストがうんざりしたように頭を掻いたときだった。

 どどどど、とものすごい地響きが聞こえた。雪崩でも起きたのか、とベアトリスが周囲を見回すと雪煙を上げ、暴れ牛のように此方へ向かって突き進んでくる男の姿が目に入った。


「フィン!」

 大地を震わすような重低音に、びりびりと耳の奥がしびれる。

「よくぞ戻って来た、フィン! もうお前と来たらこっちの気も知らないでふらっと出ていってしまうものだから……ほんっとうに心配してたんだぞぉ」

 イェーツ辺境伯は使用人たちを掻き分け輪の中心にいたメフィストまでたどり着いた。

 その眸にはじわりと涙が滲んでいる。がばっと勢いよくメフィストに抱き着いてきた――なお、辺境伯の行動をあらかじめ予測したベアトリスは巻き込まれないよう距離を取っていた。

「おいクソ髭! てめえ髭こすりつけんな気色悪ぃんだよっ! どいつもこいつもせっかくいいとこだったのに邪魔しやがって……」

「フィーン! おまえが無事でよかった……おまえの指輪を見たときは心臓が止まるかと思ったんだぁ」

 人目をはばからず泣きじゃくる夫の姿を、ピオニーはベランダから呆れた瞳で見下ろしていた。


 就寝前、ドアの前に気配を感じた。ベアトリスはすっと寝台から下りて、裸足のまま客間の入口へと近づく。かすかな逡巡の後、叩こうと持ち上げた手が軽く当たって離れる――そして、静かなため息の気配。

 踵を返し、遠ざかっていく前にドアを開けると、ぎょっとした顔のメフィストが立っていた。


「何故すぐに入ってこないんだ?」

「……あのねえ、夜中に女の部屋を訪ねるのはそれなりに勇気が要ることなんですよ。そんな気分じゃない、なんて言われて締め出されでもしたら落ち込む」

「問題ない。私はまだ眠っていなかったし、話すぐらいで気を遣う必要がどこにある」


 そういうのじゃないんですけどねえ、と呟きながらメフィストが室内に足を踏み入れた。落ち着かないようすで部屋の中にちらちら視線を遣っていたが、それもなんだか無礼にあたると思ったのか、ふいと壁の一点に視線を固定した。


「夜分に悪いとは思ったんですよ、いちおう。ほんと、今日は下心とかな……いこともないですけど、落ち着いて話せるのがこの時間しかなかったもんで」

「人気者だったものな」

 食事の席でもメフィストは辺境伯に「いままでどこにいたのか」、「何故戻ってこなかったんだ」と責められ、代わる代わる使用人たちからも坊ちゃま、坊ちゃまと話しかけられていた。


「……言っておきますけど、あーいうのは、いじられてるだけですからねえ。この家で軟弱なの、俺だけだから。義姉ピオニーだって、いまでこそお上品ぶってますけど、プロポーズされたとき承諾のしるしに槌を振り回して兄貴の兜ぶち破ったんですよ」

「やはりあの方はかなりの手練れなのだな。足音を消すのが巧いし索敵も得意そうだ」

「そういえばあんたも脳筋側でしたっけ……」


 話しているあいだもメフィストはベアトリスを見ようとしなかった。

「あのですね……さすがにあんたも気づいてると思いますけど、俺は悪魔なんかじゃないです――イェーツ辺境伯の弟で『フィン』っていうのが俺の本当の名前。母方の婆さんが【黒雪の森】で隠居暮らししてたんで、そこで暇つぶしにだらだら過ごしてるうちに『魔女の手下』だなんだ、って冗談で呼ばれるようになって……」


 ひと呼吸を置いたのは、その先を言うのを躊躇ったからかもしれない。

「あんたに、嘘を吐きました」

「メフィスト」

「ですから……メフィストは俺のほんとの名前じゃないんですよ。かっこつけの悪魔なんかじゃない。俺の正体は――ひ弱な辺境伯の弟、『フィン坊ちゃま』です」

「だが私にとっておまえは、メフィストだ」


 びくとメフィストの肩が揺れた。

「私を救ったのは、【悪魔】のメフィスト。フィンという男のことはよく知らないが、メフィストのことは知っている。お人好しで、面倒見がよくて、優しい」


 喋り出したら止まらなかった。彼が部屋に入るのを恐れた本当の理由も、ベアトリスは理解した――拒まれるのが、怖かったからだ。自らを偽り続けた嘘つきだとなじられ、否定されるのではと……おまえなどもう要らないと言われるのが。

 ある意味で、自分と彼はよく似ていた。


「おまえが培った薬草の知識や治療の技術で、多くの者が救われてきた。それはおまえだけが成し得たことだろう。他人を傷つけるのではなく、癒すことで民を守ったんだ……それは、私には出来なかったことだ」


 いままでに成した何もかも、おまえが誰であるかは関係ない――私よりずっと賢いおまえならとっくに気づいているだろう? そう祈るようにベアトリスは言葉を紡いだ。


「ありがとう、メフィスト。『アリス』という名も、新しい人生も……すべておまえが私に与えてくれたんだ」

 手で背中に触れ、嫌がらないのを確かめてからぴったりと耳をくっつけた。どくん、どくんと心臓の音が鳴っている。穏やかで優しい音だった。


「だから、どこでそういうの覚えてくるんですか……」

「ピオニーだ。こうするとメフィストが喜ぶだろう、と」

「くっそ、あのひとは俺を初心うぶなガキとでも思ってるんですかねえ!」

「ようやくこちらを見たな」

 ベアトリスが軽い気持ちで指摘すると、メフィストは慌てて顔を背けた。


「だってあんた、薄着すぎますからね⁉ 目の毒にもほどがあります……」

「ああ、見苦しいものを見せてしまったか。ショールでも羽織るから待て」

 その逆、逆ですからとメフィストが声を張り上げたときに、性急にドアを叩く音が部屋の中に響いた。思わず顔を見合わせる。


 ベアトリスはショールを羽織り、素早くドアを開いた。

「殿下、こんな時間に申し訳ございません」

 イェーツ辺境伯が険しい表情で立っていた。中にいたメフィストに目を留め、「そんなんじゃねえぞ」と声を荒げた弟を無視して、ベアトリスに言った。


「火急の用向きがございます。ついでにそこの不埒者も連れて、執務室まで来てくれませんか」

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