10.5 臆病者のワルツ
「……ベアトリス?」
集まった人々の中から射抜くような視線を感じた。
はっと振り返ったが、その姿はどこにも見えなかった。ざわめく群衆の中に翡翠の瞳を探しても、絶えず動き続ける人波の中からこの世にたった二粒しかない極上の宝石を探し出すのは困難だ。
ありえないことだとわかっていて、落胆してしまう。我ながら未練がましいことだと呆れた。
壇上から降りても鳴りやまない拍手と歓声の渦の中心にいることが、どうにも慣れない。いつだって人々の輪の中心にいたのは彼女だったのに――私、ライル・コールリッジではなく。
「どうしましたか、団長」
「いえ。どうやら私は少し疲れているらしい――いるはずのない方の面影を探してしまう」
薄く笑むと、騎士見習いの少年の表情が歪んだ。
「ライル様は前の団長――ベアトリス王女殿下とは親しくされていたのですよね」
「ああ。昔から、二つ上の私を兄さま兄さまと慕ってくれていた。本来の彼女の異母兄、エヴァン王子とはあまり親しくなかったようだから」
親しくない、というのは控えめな表現だ。第一王子であるエヴァンはベアトリスのことを煙たがっていた。幼い異母妹が無邪気に近寄ろうとしただけで癇癪を起こし突き飛ばした。そのようすを、エヴァンの友人として王宮に出入りしていたライルは何度も目にしていた。
――本当に愚かな奴だ、あの無能王子が。
私が彼女の兄であれば、優しくしてあげるのに。最初はそんな気持ちからだった。二つ年下の彼女が懐いてくれるのが嬉しくて、私が剣の練習を見せてあげるとすごく喜んでくれた。
だから、ベアトリスが剣術を学び始めたと聞いて嬉しかったのだ。私があの子に影響を与えたのだ、と。
そんな小さな喜びが淡く儚い感情を育て、芽吹かせることになるとは私自身気が付いてもいなかった。
「あの」
少年は渋い顔をしながらもじもじしている。どうかしたのか、と優しく尋ねて促してやった。
「自分は前の団長のこと、正直言ってあまり好きではありませんでした」
「口を慎みなさい」
柔らかな発声でたしなめると、少年は慌てて頭を下げた。無知な愚者はたいてい同じような意見を言う。百日に渡るベアトリスの葬送の儀の最中、この少年のように、私に打ち明ける者が何人もいた。
正直は美徳かもしれないが、誰が聞いているかわからないというのに――純粋な気持ちの表明の可能性もあるが、たいていの場合は新団長の機嫌取りだ。この子の場合はどうだろう。
まあ、どちらだっていい。ただ私の立場としては、それを素直に受け取ってやることは難しい。
「申し訳ありません……ですが、あの方はいつも団長や隊長とばかりお話されていて、自分のような従士たちのことは見向きもしませんでした。そのくせ、急に顔を出したかと思えば威圧感を放ちながら演習を見学されて、結局、何も言わずに立ち去られたり――理解不能だ、とみんなで話していたんです」
歩きながら少年は食い下がって来た。此方が手を入れるまでもなく膨らむ文句を連ねていく。
彼に教えてやるつもりはないが――ベアトリスほど関心を持って見習い騎士たちの面倒を見ていた者はいない。
自分が視察に行けないときは信頼できる部下――たとえば私などに命じて、第一から第三までの騎士団員たちのようすを細かく報告させていた。それを受けて効果的な訓練方法を提案したり、設備の修繕に予算を充てたりと気を配っていた。
その事実を知っている者はほとんどいないだけで。
彼女の濃やかな心配りはすべて私が行ったことになっていた。最初のうちは訂正をしていたが、それ自体も謙遜とみなされて私の評価ばかりが勝手に上がっていく。それと比例するようにベアトリスの評判は落ちていった。
『貴方が団長であればよかったのに』
口をそろえて言う連中は何もわかっていない。
彼女の気高さを、真心を。それは私にとって好都合のはずだった。
❖
『今度の王室主催の舞踏会、団長のエスコート役は決まっているのですか』
平静を装い、何気ない口調を心がけながら発したものの破れそうなほどに心臓が高鳴っていた。私の問いかけにベアトリスは首を傾げる。
第一騎士団の演習場では厳しい修練が終わったばかりの騎士たちの安堵と疲労に満ちた会話がそこかしこで聞こえている。それに紛れるような小さな声で私たちは話していた。
『いや、参加の予定はないぞ』
『え……いや、しかしグリティア王国中の貴族が集まる、社交シーズンの開幕にもなる大事な舞踏会に不参加とは』
『兄上が出席すれば足りると言われていてな。私のような乱暴者のはねっかえりはお呼びではないらしい』
私個人としては非常に助かる、とベアトリスはこともなげに言ってのけた。
『そういうライルはどこのご令嬢に相手を頼まれているんだ。コールリッジ家が懇意にしているハーディ家か? いやマクドゥネル嬢はしばしば騎士団の練習を見に来ていたな……さては彼女か?』
『いえ、父からは特に何も言われていませんので』
嘘だ。父親であるコールリッジ伯爵は従妹のプリシラ・ハーディのデビュタントにおけるエスコート役を務めよ、との指示をしていたし、さもなければ別の利権が絡む家の令嬢と参加せよ、ときつく言われていたがライルはすべて突っぱねた。
――いいえ、私は他でもない貴女を誘いたかったのです。
そう言えたらどんなによかっただろう。
『私はほら……淑女とは程遠いだろう? たまにその手の社交の場に赴いても、流行の首や肩、胸元の空いたドレスなんて着たら、傷跡が見苦しいと眉をひそめられてしまう。だからいつも長手袋だし、肌を覆う古臭いデザインのものしか着ることが出来ない。陛下はそれなら参加せずともよい、と言ってくださったのだ』
邪魔だから来るな、という遠回しの言葉に傷ついていないわけがないのに「平気だ」と嘯く彼女が哀れで、愛おしかった。焔のように苛烈だと恐れられた女性が、いつだって自分の居場所を求める少女にすぎないことを私だけが理解している――その優越感に浸るのが心地好かった。
『またそんなことを言って。貴女はダンスを踊りたくないだけでしょう』
『おお、よくわかったな。さすがライル、私のことをよく知っている』
茶化して、笑い話にしてしまえば深刻な雰囲気は持続しない。それでも絶えず私は彼女とワルツを踊る瞬間を夢想していた。
一緒にダンスを踊るだけで結婚を申し込めるわけではない、そんなことはわかっていてもベアトリスの手を取って舞踏会で注目を浴びたかった。この素晴らしい女性はこの曲が終わるまでのあいだは私だけのもの、見る目のない連中に見せつけてやりたかった。
彼女の価値は私だけが知っていればいい、そう思いながらも愛する女性が雑に扱われ続けているのを黙って見ているのは胸が痛む。相反する感情が私を苛んでいた。
『ベアトリス、そうは言っても社交は王族の責務でしょう……結婚の相手もこうした場での駆け引きによって決まるものです』
『結婚、か』
そうこうしているうちに騎士たちはほとんど帰り支度を終え、出て行ってしまったらしい。周囲にひとがいないことを確かめてから、彼女の名を呼んだ。親しい間柄だからこそ許される気安い口調をベアトリスがとがめたことは一度もなかった。
『望まずとも私は、いずれ嫁がされるのだろうな。我がグリティア王国にとって有益な、名前も顔も知らない者に売りつけられるのか――こんな生傷が絶えない女など、願い下げだと言われるかもしれないが』
『ベアトリス!』
声を荒げた私を静かな翡翠の眸が見つめている。
『そういうおまえこそ浮いた話を聞かないが……婚約の予定はないのか?』
いましかない。
言葉にするなら、告げるならこの瞬間しかないのだと直感していた。陽が落ちた演習場には薄闇が幕を張り、星々の灯が足元を照らしている。
『――いいえ』
私を結婚相手に選んでいただけませんか。
貴女を愛しているんです。
いざ口にしようとすると喉につかえて出てこなかった。
どうせ叶わぬ願いだ――エヴァンはベアトリスの幸せを望まないだろうから。次期王位継承者から反感を買うことは避けねばならない。幼いころから、父が私に言い続けた忠告が頭をよぎる。自分を押さえることが肝要なのだ、ライル。
言えないのではなく「言わない」のだと自分に言い聞かせる。
そうだ、高望みはしない。共に舞踏会に行きませんか、と声をかけるぐらいなら許されるに違いない。言い訳と打算が私の行動を鈍らせる。
なにひとつ本心を伝える勇気が出ない己に反吐が出そうだ。
――なんて愚かな。
――ただひとこと「貴女が好きだ」と言えばよかったのに。
――たった一度、時を戻すことが叶うのであれば私はきっとあのときを選ぶ。
『いいえ。私には、まだ結婚など』
『そうか』
言葉を濁した私を見て、ベアトリスは唇をゆるめた。彼女なりの笑顔のかたちを唯一、私だけが知っていた。
冷えてきたな、と言った彼女の言葉を利用して「お風邪を召されませぬよう」と王宮へと戻るように促した。
護衛に囲まれて城に向かうベアトリスの背中を、未練がましく見守る私の姿を誰か――そう、悪魔などが目にしたら嗤うのだろう。
ああ、おまえはなんて無様な男なのか、と。
❖
私はかつて彼女のものであった椅子に座り、彼女のいない世界に生きている。
第一騎士団長就任を祝うパレードが終わった後も、私は宵闇に染まる執務室にたったひとり居残り、考え続けていた。
これほど虚しいと知っていて、私はすべてを選んだ。
この手を血に染め、彼女を排除することを是とした――彼女を裏切り、彼女を傷つけ、彼女という気高く誇り高き存在を汚した。
私には手に入れることがかなわない、そう見切りをつけた宝石を、何者かが触れる前に砕いたのだ。
そこまで考えたところで、ある方法に気づいてしまった。
「――いっそ、壊してしまおうか」
愚かな私ごと、この愚かなグリティアを滅ぼすのも悪くない。
臆病者の戯言を聞く者はどこにもいなかった。
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