05   王女の追憶

 ほんとに行くんですか、とメフィストは何度目かになる問いを発した。


 塩漬け肉とチーズ、瑞々しいグレンソウを挟んだサンドイッチにかぶりつきながらじろりとベアトリスを睨む。

「せっかく誘ってくれたんだ。それに興味がある」


 具沢山のサンドイッチに、すりおろしたクスリニンジンとミルクのとろみのあるスープ。デザートには香ばしい飴色に焼き上げた黒林檎のパイ。「美味しいだけじゃなくて、身体にもいいもの食べなきゃ、人はダメになります」がメフィストの口癖で、小屋の裏で栽培している薬草類と物々交換で入手した食材を使用した豪勢な食事がテーブルに並んでいた。


「多分、あんたが期待してるみたいな、そんな面白いもんじゃないですからね。真夜中に花を川に放り投げるだけの行事です。わざわざ出かけていく価値なんてないですって!」


 ベアトリスが「美味い」を連発しながら頬張る姿を満足げに眺めていたメフィストだったが、花流しの行事に参加したいと告げると途端に機嫌が悪くなった。

「メフィストは『花流し』が嫌いなのか?」


 テーブルの端をとんとんと叩きながら、メフィストは息を吐いた。

「いえ……めんどくせーから、ただそれだけですよ」


 ぶっきらぼうに吐き捨てる。まだ表情や声色から感情を読み取れるほど近しくはなかったが、気が進まないというのは本音のようだった。フォークを振り回しながら「大体ねえ」とぼやく。


「あんた、自分が死んだって思われて、そんな葬式みたいなのやられて勝手に悼まれて、憐れまれて……気分悪くないんですか?」

「そうか。彼らは私を悼んでくれているんだな」


 胸に滲むのはメフィストが口にしたような不快感とは真逆の感情だった。

 有難い、とさえ感じる。同時に申し訳ない、とも。


「なあメフィスト……」

「あーもう、わかりましたから!」


 むすっとしながらも、手早く食器を片付け始めたメフィストについてまわって「手伝おう」と申し出たが、じっとしててくださいと一蹴されてしまった。早めの夕食を終え、すぐ出発すれば「花流し」が始まる真夜中には村近くの川辺に到着するはずだ。


 日暮れ間際の森の中、風邪ひいたら大変ですからとぼこぼこに重ね着をさせられたベアトリスはメフィストと村へと続く道を再び辿った。

 昼間は見慣れない草花を見つけては「これはなんだ!」と抑えきれない好奇心をぶつけてくるベアトリスに付き合ってひとつひとつ解説していたというのに、いまは黙々と歩き続けている。一歩、二歩と徐々に距離が開いていくことにも気づいていないようすだった。


 両者の間に横たわる重たい沈黙に耐えかねて、ベアトリスはメフィストに駆け寄ったがやはり振り向くことはない。

 ただ空いたままの左手がほんの少し、寂しそうに見えて――そう感じた次の瞬間にベアトリスはメフィストの手を掴んでいた。


「――あんた、もうひとりで歩けるんじゃないんですか」

「……じきに暗くなるから、手を貸してくれないか。無理にとは言わないが」


 まっすぐにメフィストの紫眼を見つめるとかすかにたじろいだ。


「ああもう、あんたは……これじゃ俺が馬鹿みたいじゃないですか」

 ぱっと勢いよくメフィストは顔を背けたが、手を振りほどくことはなかった。



「おや。あんたたち、来たんだね。花は用意したかい」

「ああ、摘んできた」


 儀式を行う川辺に到着すると昼間顔を合わせた村人たちが既に準備を終えていた。夜香花を手にしたメフィストの姿を見て少し意外そうな顔をしている――やはり彼が「花流し」に参加するのはめずらしいようだ。


 ジェシカが話していたとおり、夜香花は森の至るところで見つかった。一本でいいですからね、とメフィストに口酸っぱく言われなければ、群生地に座り込んで子供のように際限なく摘んでしまっていたことだろう。


「う……俺、このにおい苦手なんですよね」

「そうか。いい香りだと思うが」


 くん、と花びらを鼻に近づけて嗅いでみる。王都近郊ではなじみのない花だが、香水の原料やお菓子の香料に使ったら流行するかもしれない。


「消しちゃうでしょ、他のもんを。五感が狂わされる感じが気持ち悪いっていうか。それに死者の手向けの花、って感じがして個人的には嫌いなんです。薬効でもあれば話は別ですけどねえ」


 ひそひそと言葉を交わし合う声が徐々に小さくなっていく。

 篝火が焚かれ、集まった人々は皆、それぞれ夜香花を手にしていた。夜闇の中にぽっかりと浮かぶ白い花々から強い芳香が漂っている。


 ――死者の魂が安寧の地へとたどり着けますように。


 そんな言葉と共に夜香花が次々に川へと投げ込まれた。

 ごうごうと唸るような波に呑まれ、白く光る星のような花弁が流されていく。響く水音の中にすすり泣きが混じった。


 最近、この村付近で亡くなったのは、森の【魔女】とベアトリス王女だが、定期的にこの「花流し」は行われているらしい。


 近親者などの生者を恋しがって死者の国からさまよい出た死者に、帰り道を示してやるために。メフィストいわく、いまは亡き大切な人を思い出す行事なのだ、と――それを「辛気臭い田舎の風習」だ、と皮肉びた口調で吐き捨てるように言っていた。


 この儀式に参加した誰もが胸に、いまは亡き大切な存在を思い描いているのだろうか。月日が経っても癒えることのない傷となって胸に残り続ける。ふとした瞬間に鮮血があふれ出す瘡蓋のように。


 揺らめく水面を食い入るように見つめていると影が見えた――自分とよく似た面差しの女だ。


 ――ベアトリス。


 自分の名を呼ぶ冷たい声音が、水底から泡のように湧き上がる。


「おねえちゃん」

 くい、と長衣の袖を引かれた。昼に花をくれた男の子がベアトリスを見上げていた。

「おねえちゃんの大事なひとも死んじゃったの?」

「……そうだ、な。ああ、ずいぶん前だが」


 王妃だった母は「強くなりなさい」と事あるごとにベアトリスに言った。


 妾腹である異母兄、エヴァンが王位を継承することはほぼ間違いないと言われていた。貴女が男だったら、と幾度となくこぼしたその言葉に傷ついた。


「大事かと言われると、正直いまも答えられない。好きではなかった。むしろ嫌いだったから」


 ようやく授かった子が女であったことに大きく落胆し、正妃である娘が懐妊したと喜んでいた両親からもひどく責められていたのだ、と。

 その意味をベアトリスが知った頃には母はもうこの世にはいなかった。


 ――私は要らない子。


 この身に刻まれた呪いは深く根を張り、ベアトリスを縛り続けている。生きるためには強くなければならない。価値ある存在だと、認めてもらわなければ居場所を作ることが出来なかった。


「私はただ……あのひとに、皆に必要とされたかったんだ。此処にいても良いのだと、肯定してもらいたかった」


 剣の腕を磨いたのも、学問に励んだのも。王家に名を連ねる者として役立てると証明したかったからで、周囲から賞賛の言葉を浴びるたびにそれは実感に変わった。


 だがベアトリス王女はもう「不要だ」と棄てられた。


 自分を殺めようとしたのは――決して、一介の騎士でしかないライルの独断ではない。そんなことぐらい、わかっている。


 ――私は、誰にも愛されない。永遠に。


「おねえちゃん?」

 ぱちん、と泡が弾けるように水面に沈んでいた意識が浮かび上がる。もうどこにも女の姿は見えなかった。自分の黒い影だけが映っている。


「――すまない、よくわからない話をしてしまったな」

 物思いに耽ってしまっていたことに気づいて、すぐそばでベアトリスを見上げていた子供に謝った。愛想がないとよく言われるが、幼い子相手にどんな口調で、どんな内容を語り掛ければいいのかも判断がつかず、つい硬くぎこちなくなってしまう。


「おねえちゃん、メフィストにいちゃんとずっとこの村にいればいいよ!」

「えっ?」

「なかよしなんでしょ、おねえちゃんとメフィストにいちゃん。なかよしはずっといっしょにいる、って約束すればいいんだって、そうすればさみしくないって母ちゃん言ってた。父ちゃんが死んじゃっても幸せだって。いつも父ちゃんが見てるよ、って。でね、『花送り』でお別れするの、また来てね。見守っててね、って」


「そうか……おまえの父親は、もう」

 ベアトリスは今度こそなんと言ったらいいのかわからなかった。

 慰めも励ましも、気の利いた言葉なんて何一つ浮かばない。ただ唇をかたく引き結んでいると、肩を叩かれた。


「……アリス、そろそろ帰りましょう」

 村人たちがぞろぞろと川辺から離れはじめていた。ジェシカに呼ばれ、子供もベアトリスのもとから走り去り、夜闇の中に溶け込んでしまう。


 帰り道、どちらからともなく繋がれた手は小屋に着くまで離されることはなかった。

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