09 王女の起床
「ん……うぅ」
日付が変わる近くまで酒場で飲んでいたのだが、二日酔いもない。
朝寝を楽しんだ後ベアトリスが寝台を抜け出すと、テーブルの前で財布の中身を確かめているメフィストと目が合った。
おはよう、と声をかけると腑抜けた笑みを浮かべた「おはようございます」が返って来る。
ベアトリスが眠っている間にメフィストはひと仕事終えていた。朝食用に、と焼き立てのパンを買ってきたらしい。バターと小麦の香ばしい香りにベアトリスは生唾を呑み込んだ。
「あんたはサンドイッチがお好きみたいですけど、焼き立てなんでそのまま食べた方が美味いと思いますよ」
「ああ、そうしよう」
テーブルについて向かい合うと、メフィストの表情に若干疲れが見えた。
「もしかして具合でも悪いのか?」
「いえ、すこぶる元気です、ふぁ……」
ただ眠れなかっただけで、と欠伸をしながらメフィストが言う。
「寝心地が悪かったか? 枕、もうひとつ頼んで借りて来ればよかったな」
「そうじゃありません、そういうのじゃないんですって……まったく、あんたってひとは」
歯を立てた瞬間に、かり、と硬いクラストが口の中で砕ける。
ハードタイプのパンは素朴な見た目だが、中のふんわりとした食感との差が面白い。満面の笑みでパンにかじりつくベアトリスを前に、メフィストは遠い目をしていた。
部屋がひとつしか開いていない、と知らされたのは部屋に向かう直前だった。
酒場兼宿屋の店主の妻が、部屋の場所を尋ねに来たふたりに「あら、すまないねえ」と申し訳なさそうに言う。
『あんたたち、夫婦だと思ったもんだから。そのあと来た客に部屋貸しちまったんだよ。おかげさまで満室だ』
いまから別の宿を探すのは骨が折れる、仕方がない、と蒼白な顔で何度も繰り返したメフィストに「そうだな。別に一室で問題ないだろう」とベアトリスは頷いた。
『って、問題ないわけないでしょうが!』
『落ち着け、大声を出すな。壁はさほど厚くないようだぞ』
部屋に入り扉を閉めた途端、メフィストが叫んだのでベアトリスは窘めた。
『ソファぐらいあると信じてたんですけど、あの宿代でそんな立派な設備は期待しちゃいけませんでしたね……くっそ、床かあ、ちゃんと掃除してるだろうな』
確かに広い部屋ではない。大きめの寝台がひとつ、小さな丸テーブルがひとつに椅子がふたつ――家具と言えばそれだけだ。
窓が開くことを確かめながらベアトリスが「寝台を使えばいいだろう」とこともなげに言ったのでメフィストは再び大声を上げそうになった。
ひんやりとした夜風が部屋の中に流れ込んでくる。そのおかげで若干、平静を取り戻したらしい。
『いや、いいです。あんた床に寝かせるわけにはいかないですから、ほらそこの絨毯とか引っ張って来て毛布代わりにするんで』
『どうしてどちらかが床で寝ることが前提なんだ?』
『……はい?』
『確かに私は一般的な女よりも上背があるし、筋肉質かもしれない。だがこの大きさの寝台であればふたりで使うことに支障があるとは思えない』
『支障
酔いが醒めるようなものすごい形相で詰め寄って来たメフィストに、ベアトリスは後退った。
『ベッド、というものが誂えてあるだけ有難い環境だとは思ったのだが……騎士団員の皆と、土埃のあがる戦場で敵襲に備えながら雑魚寝、のようなこともあったから』
『そりゃあ、そうでしょうけどねえ……』
ベアトリスは王女として公務に参加するのではなく、騎士団長として前線に立つことを望んだ身だ――そのような小さなことを気にしてはいられなかったし、何か支障があったこともなかった。
自身の身分のおかげで懸念されるような状況に陥らなかっただけで、問題は常に抱えていたのだろう。第一、第二、第三王立騎士団における男女比は九十九対一、圧倒的に女性騎士は少ない――そもそも入団しようという者が少なかったし、せっかく希望して入団しても、すぐにやめてしまうことが多かった。
その待遇をもっと考え、配慮をするべきだったのに――メフィストはいつもベアトリスに新しい気づきをくれる。
『……言われてみれば遥か昔に乳母から説かれたことがあるような気もするが、うん、私はその手の慣習や常識といったものが抜け落ちているようだ――よければ教えてほしい、何故男女が同じ寝台を使うことが禁忌とされているんだ?』
『はあっ? その……禁忌、とかじゃなくてですねえ。暗黙の了解、というか』
メフィストは口ごもった。
『私たちは【黒雪の森】では同じ部屋で寝起きを共にしてきただろう? それにパラディオンに着くまでは野宿だった。そのことでメフィストは何か問題を感じていたのか?』
シュルーガ平原の横断中、馬小屋でよければ、と農夫に屋根のある場所を借りたこともあるが、そのときだって、互いの呼吸が聞こえるほど近くで寝ていた。ベアトリスの気づかないところで不便、不都合を感じさせていたのであれば改善しなければならない。
ベアトリスの率直な問いに、ぐぅ、とメフィストは言葉に詰まった。
『う、うちの家にはソファがあったので! 野宿は不可抗力ですし……言っておきますが、お、俺は一度もあんたが寝てるベッドに忍び込んだことなんてありませんからねっ。着替えのときとかは席を外すようにちゃんと意識してたんですよ?』
『やはりおまえに知らず知らずのうちに迷惑をかけていたのか……すまない、無知な私を許してくれないか?』
『ああああめんどくさいっ! あんたは悪くないですけどいや悪いかもですけどいまは放っておいてください、頼むから俺にそんな説明をさせるな!』
何度かの問答の末、出来る限り距離を取って、同じ寝台を使い背中合わせで眠るこということで決着した。
メフィストの強い主張により境界線として置いてあった予備のクッションやらシーツやらで両者のあいだに壁を築いたのだが――朝になってみればベアトリスのあまりよろしくない寝相のせいで、あっさり崩れていた。
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