01 王女の弑逆
「【黒雪の森】に棲む魔女に殺されたということにすればいいでしょう」
己の喘鳴の中、あざ笑うような言葉に串刺しにされた。
ベアトリスが誰よりも信じていた副官に裏切られたことに気付いたのは、背後から胸を貫かれたときでもなく、この馴染み深い声を耳にしたときだった。
違う、と信じたかった。
近しい友人でもある彼が、自分を傷つけるなんてありえないと最後まで受け入れられなかった。複数の足音が遠ざかっていくのを感じながら、薄れゆく意識の中を漂う。
自分は、何を、どこで間違えてしまったのだろう――。
ベアトリスにとって最悪の一日は、夜明け前から始まった。
フィーレント神聖帝国との国境付近に出没している盗賊団の討伐任務から帰還したベアトリスは、休む暇も与えられず国王に呼び出された。
父王、コーネリアスはねぎらいの言葉を掛けるでもなく、返り血に染まった防具を一瞥すると「淑女にふさわしくない」、「品位にかける格好で余の前に顔を出すな」などと二言、三言、苦言を呈した。いつものことなので腹を立てる気にもならない。ベアトリスが団長を務める騎士団に討伐依頼を出したのは国王だったし、呼び出したのも国王だが、理不尽なのはいつものことだった。
『【黒雪の森】に行け』
言い放つや否や、用件は済ませたとばかりに国王は玉座を離れて自室に戻った。代わりにベアトリスに任務の内容を説明してくれたのは、将来に向けて王の補佐役を務めている第一王子のエヴァンだった。
黒雪の森とはグリティア王国北部にある未開の地である。
古くから魔女が棲んでいるだの、足を踏み入れたら二度と出ることは叶わない迷いの森だの、根も葉もない噂があり、近隣住民は近づくことさえ忌避しているという。
領主もほぼ手つかずのまま放置しているため、中央の目が届かないのを良いことに他国からの侵入者の根城になっている、という密告が寄せられた。
王命は、その森の偵察任務に向かえ、というものだ。
少数精鋭で、という指示だったので偵察任務の隊長はベアトリス、副隊長はライルとした。彼とは幼い頃からの付き合いで、異性ではあるが男所帯の騎士団で唯一、心を許した親友だ。ベアトリスは出立前に片付けておかねばならない王女としての政務があったため、他数名の団員の選抜はライルに任せていた。
王都から北部地域までは馬でも数日の距離だ。休憩時間を限りなく削ってシュルーガ平原を走り、三日の行程を一日半に縮めた。
絶えず臭気が漂う、毒の煙が上がっているのを見た、などと話す村人もいたが気にせずベアトリスは森に入った。藪だらけの道は騎乗での通行は難しい――そう判断して数名の部下に待機を命じ、馬を預けた。
真昼だというのに陽が差さず、薄暗く不気味ではあるがただの森だ。
視線を感じて目を向ければ、枝に梟が止まっていた。くるりと首を回して、此方のようすをうかがっている。すぐ脇の草叢を駆けていったのは小鹿で、視界を横切ったのは蝙蝠。他の地域でも見受けられる動物だ、魔物など存在しない。魔女だ何だ、というのもどうせ嘘っぱちだろう。
藪をかき分けながら森深くへと進んでいくうちに、枝を切り、土を均した道のようなものを見つけた。
誰かがこの森を通行している、というのは確かなようだが武装した兵士が使用しているのであれば、野営の痕跡や、馬などの蹄跡、糞があってもおかしくない。
「なあ。ライル、おまえはどう思……」
言いながら相棒の方へ振り返ろうとしたが、出来なかった。
呻きながら膝を折る。
ゆっくりと視線を落とせば、背中から胸を貫く白い剣が見えた。ぽた、と滴り落ちた雫で泥の中に赤い花が咲く。
「何……を」
「申し訳ありません、団長」
淡々とした口調は、任務完了しました、と声を掛けてくるときとおなじだった。よくやったと肩を叩きあうときのように、いつもと何も変わらない友の声音がベアトリスを奈落へと突き落とす。
「貴女との縁は今日限りのようです」
白剣を引き抜かれた後、蹴飛ばされ、地面に転がる。
ぬかるむ泥の中でもがき、立ち上がろうとついた手を軍靴が踏みつけた。
「無駄ですよ。出血もひどいようですから……それにこの血の臭い。飢えた獣がすぐあなたの肉を貪りにやって来るでしょう」
ライルは血染めのマントをベアトリスから剥ぎ取ると、聖剣オシアンも奪った。
「……どう、して、こん、な」
切れ切れとなったベアトリスの声は届かなかったのか、ライルは部下と話をしている。ひどい耳鳴りのせいで、異国語を聞いているような心地だった。聞こえているのに、理解が出来ない。
「ライル様。とどめを刺さないのですか?」
「私が命じられたのは、王女殿下を始末しろというものでしたから。方法までは指定されていません」
足音が遠ざかる。先に森を出るように、とライルが指示していた。
「ベアトリス」
名前を呼ばれ、うっすら開いた瞳が捉えたのは、満面の笑みを浮かべた男の姿だった。
白金色の長髪が生ぬるい風に靡いている。
誰よりも近くにいて、ライルのことならなんでも知っていると思っていたのに、いまの彼が考えていることは何一つわからない。
もう声を発することも億劫だった。精一杯、目に力を入れて睨みつけると男は笑みを深くした。
「ふふ、申し訳ありません。少々昂ってしまいました。苦しいでしょう、痛いでしょう? ――私が憎らしいでしょう? 殿下には出来る限り苦しんでいただこうかと思いまして。ああ、美しいものが踏みにじられる様ほど惨く、儚く、息苦しいほどに愛おしいものはありませんね……?」
恍惚とした表情で、ベアトリスを見下ろすライルは、もう友の顔をしていなかった。嗜虐趣味どころか、度を越した変態。罵倒する言葉が浮かんでも発する気力がなかった。圧倒的な暴力を前に身体が小刻みに震えている。
これが恐怖というものなのだ、とベアトリスはようやく理解した。
幼いころから、王女として扱われてきた自分にこのように手荒な真似をする者はいなかった。幼いころに受けた乳母の折檻や、騎士団へと入るための剣術訓練で負った怪我など些細なものに思える。ずっと自分は手加減されていたのではないか。周囲から強いと褒めたたえられていたのは「女にしては」という前置きがあったのでは。
――王女が騎士団の団長に任命されるなんて、本来であれば有り得ない。
所詮、ただの名誉職にすぎないのだと思い知らされるようだった。いまだって自分は、抵抗することもかなわない一方的な暴力の前に屈している。
何が【火焔の姫騎士】だ。笑いすらこみ上げてくる。あっさり副官に裏切られ、これほどまでに情けない末路を辿るとは。
森に棲むという魔女よりももっと遥かに醜悪な、魔物の形相をした男に怯え、為す術もなくただ唇を噛んでいる。
「ああ……ずっと、ずっとお慕いしておりました、ベアトリス王女殿下。貴女に甘美なる死の悦楽をもたらしたのが私だという事実こそが、至上の喜びです」
最後にもう一度、強く背中を踏みつけられ、意識が飛んだ。
足音がきこえた。ゆっくりと慎重に、周囲を警戒する獣のようなそれ。ついに、あいつの言っていたようにベアトリスの血肉を食らいに来たかと身構える――逃げなければ、とは思うのに手足が動かない。
「……くそ、あの外道ども。ちんたらしてるせいで近寄れなかったじゃねえか」
薄れゆく意識の中で、鮮やかな桃色が揺れていた。やわらかな風にそよぐ花のようで、綺麗だと思った。
「っ……まったく、あいつらひでえことしやがる。せっかくの美人が台無しじゃねえか」
ひゅうひゅうと喘鳴をこぼすベアトリスの前に、桃色の影が屈んだのがわかった。男の声だ。
「おい。あんた、目ぇ開けろ。このままだと死んじまうぞ」
「……死に、たくない」
必死に唇を動かしたら、声になった。喉は焼けるように痛んだけれど、いまならまだ、話せる。
「こんなところで、終わ、りたくない」
どこの誰だかわからない桃色に、ベアトリスは強く訴えた。
己の、こんな理不尽な最期を許すことができない。何が何だかわからないままに、人生の幕引きをしたくない。王女としての矜持というよりもこれは生物としての純粋な願望だった。
だって私は、まだ何も為していないというのに。
与えられた功績、お膳立てされた勝利と栄光。すべて偽りだった、と最期の最後で疑ってしまった。自分の存在に意味などなかった、と頭をかすめた疑念を拭い去るまでは死にたくない。
このまま、自分が消えてなくなってしまうのが怖い。
「……やれやれ」
数拍の後に、深いため息と共に「かかわるべきじゃない、ってのはわかってんだけどなぁ」と桃色はこぼした。
「……仮に、だ。俺があんたを助けられる、と言ったら、あんたは何を差し出す」
「すべて」
賭けた。
「私の魂、肉体、持ちうるものなにもかもを」
いま唯一、己を救いうる存在に、希うために。自分が渡せるものがあるのなら、なんでも差し出すと決めた。
「……そっか、承知した。んじゃ、しゃーねーな。契約成立、ってことで。少々、骨は折れるがなんとかするとしますか」
靄がかった視界のなか、ベアトリスは必死に目を凝らす。
確かに声は男だった。
でも顔はよくわからなかった。
桃色の巻き毛が、目深にかぶった黒い外套のフードから零れている。彼は泥と血で汚れるのをいとわずにベアトリスを軽々抱き上げた。
ふと思い出したのは、昔、聖堂の壁画で見た、聖人フィーレントに踏みつけられた黒い獣だった。確か、桃色の鬣が描かれていた。
悪魔。
呟くとピンクの髪の男は、ベアトリスの言葉に応えるように、白い歯を見せた。鋭くとがった狼の牙のような犬歯がむき出しになる。
ようやく腑に落ちた気がした。
神は、ベアトリスを救わなかった。教会にも通うこともなく祈りも捧げず、ろくに信仰してもいなかったのだから当然ともいえる。
代わりに現れたのは別のものだ。
――そう、自分は悪魔と契約を交わしたのだ。
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