第三幕

1 熊と彼女と僕

 騎士の選抜から、一年も経たない時期のこと。岩の王サレアスが所有する森で狩猟会が開かれた。狩りには参加しないとはいえ星の姫セレイリも臨席を求められた行事だったので、前任の星の騎士セレスダであるハーヴェル卿と共に、幼き頃のヴァンも狩場に訪れた。


 ハーヴェルは寡黙な男で、当時年の頃は三十代半ば。ヴァンが一人前の騎士になれば、黒岩騎士団に戻り重鎮として働くことになる、有能な男である。ヴァンが選抜で選ばれる以前は、彼が代理でエレナの近辺の管理をしていたため、二人は仲睦まじい。


 年齢的なものもあるだろうが、傍から見れば親子か、伯父おじと姪のようにも見えた。実際、なんとも信憑性の薄い噂話ではあったが、彼がエレナの実父であるという話も聞いたことがある。しかしこれは、ハーヴェルの人柄をよく知るヴァンにとっては、信ずるに値しない戯言ざれごとに過ぎなかった。


 なぜそんな噂話が横行してしまうのかと言えば、この男が口下手で、自分や近辺のことをあまり語らないからだろう。エレナの母親……前任の星の姫セレイリの最も近い場所にいた騎士が、主が身ごもった子の父親を知らないなどということがあるだろうか。


 周囲からエレナの父について問われた時も、彼は言葉すら濁さず、知らぬ存ぜぬの一点張りだったため、逆に疑惑を呼び、彼が実の父だとの噂が生まれたのだった。無論、ヴァンだけでなく、エレナもそんな噂は信じていないらしかった。


 さて、そんな職務に忠実なハーヴェル卿であるが、彼も星の姫セレイリ身罷みまかってから数年後に妻を迎え、子もある身。自身の邸宅で何事かあったらしく、狩りの最中に伝令に呼び出され、ほんの少しだけ、星の姫セレイリの近辺を外してしまう。その機を逃すエレナではなかった。


「ねえヴァン。ちょっと森に入ってみようよ」

「だめだよ。絶対に入ってはいけないって、ハーヴェル卿も言っていたでしょ」

「ちょっとくらい大丈夫よ。ほら、早く」


 腕を引かれ、仕方なく離席する。肩越しに振り返ると、少し離れた場所でハーヴェルが神妙な表情で話し込んでおり、こちらの動きには気づいていないらしかった。


 エレナのお転婆にも大分慣れてきた時期だったため、ヴァンは渋々従い、鬱蒼うっそうと下生えの茂る森へと足を踏み入れた。


 長い冬が終わり、雪の下で芽吹きの季節を待ちわびていた若草が一斉に萌ゆる時期。木々のさざめきと、遠くで流れる渓流の微かな流水音が、心地よい。胸いっぱいに空気を吸い込めば、頭頂から爪先にまで爽やかな新緑の香りが広がって、言いつけを破った背徳感は少し薄れた。エレナの方には最初からそんな気持ちはなさそうだが。


「見て。栗鼠りすがいる! あ、あの青い鳥はなんて名前?」


 目を輝かせて行ったり来たりする様子に、呆れ交じりの笑みが零れる。星の姫セレイリとして振舞っている時は、空恐ろしさを感じさせるほど大人びているのに、普段の様子はむしろ、年齢よりもさらに無邪気にも見える。


 純白の貫頭衣かんとういを纏わぬ日の彼女はいつだって奔放に振舞うし、あまりの強引さに閉口することもあるのだが、本当は彼女の自由になることなどほんの一握りで、暮らしのほとんどを制限されている。


 エレナは確かにわがままな面を持ち合わせているが、同時に、どこまでなら主張しても問題がないかという境界線を、自然にわきまえているようだった。そういった意味では、彼女の本質はとても従順である。


「あれはカワセミじゃないかな」

「セミ?」

「夏に出てくるやつじゃないよ」


 二人はそのまま奥に進む。人間が通れるように下草がなぎ倒され、木立がさほど密集していない林道であるので、子供二人で歩いていても、危険な様子はない。


 だからこそ、ヴァンは忘れていたのだ。この森には、狩りに来た。つまり、獲物となる獣がおり、それらを捕食する大型の生物もいるのだということを。


 森が深まる毎に、道は獣道の体をなし、木々が陽光を遮断し始め、比例して足元は暗くなる。徐々に目新しい物もなくなって来たので、ヴァンは戻ることを促すが、エレナは不満気だ。


「抜け出してから大分経ったし、今頃大騒ぎになっているかも」

「うん……ちょっとだけ待って」


 何かを探すように注意深く周囲を見回すエレナに、ヴァンは首を傾けた。


「探し物?」

「あのね、野苺ないかなって。去年、イーサン殿下と探したときは、こんな感じの森に生えてたから」


 ヴァンは一瞬言葉に詰まる。苺が好きなのはエレナではなくヴァンなので、きっとくれるつもりなのだろう。だが残念なことに、苺は好きでも野苺は別に大好物ではない。もちろん口には出せないが。


「野苺は、まだなっていないと思うよ。あとひと月かふた月くらい後かな」


 エレナは驚きに目を丸くして、こちらを見上げる。世間知らずな幼い姫は、植物の生育時期については念頭になかったらしい。これは、冒険の終了を促すには良い流れだ。


「ほら、やっぱりそろそろ帰ろう。これ以上遅くなったら、ハーヴェル卿が偉い人に怒られて……」

「ヴァン!」


 こちらを見るエレナの視線が少し逸れる。徐々に顔が引きつり、凍り付く。その視線を追い、背筋に悪寒が走った。背後にて、大人の人間よりもずっと大きな熊が、柔らかな子供の肉を切り裂こうと今まさに立ち上がったところだった。


 咄嗟にエレナを茂みに突き飛ばし、自身は反射的に腰の剣を抜き熊に向き直る。見習いとはいえ星の騎士セレスダ。腰には身の丈に合った大きさの真剣を帯剣していたが、大人の物よりも短く、間合いが近くなってしまう。


「ヴァン、逃げよう」


 震える声でエレナが言うが、背中を向ければ敵に襲い掛かる隙を与えることになってしまう。


「僕が止めるから、君は逃げて」

「い、嫌だよ」


 横目で視線を向ければ、蒼白な顔で震える少女は、逃げろと言っても立ち上がれない状況と思われた。


 熊に視線を戻す。冬眠から覚めたばかりなのだろう、身体がやせ細り弱々しくも見える体躯だが、食事を前にしてよだれを垂らしている。


 ヴァンは剣を握り直し、腹に力を込める。恐怖に足がすくみそうだ。それでも、負けることはないとわかっていた。ヴァンは、自身ですら正体を知らぬのだから。


 心のたがを外せば、熊一匹などヴァンの敵ではない。問題があるとすれば、自分ですら恐ろしいと感じる猛獣じみた姿を、エレナの目に映すことになってしまうことだ。


 もう一度、茂みに目を向ける。涙に塗れた黄金色の縋るような視線に射すくめられ、ヴァンは覚悟を決めた。


「目を瞑っていて」


 言って、剣を掲げて熊に襲い掛かる。薄らぐ意識の中、知らない誰かの声が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。最後に見たのは、敵の爪が弾く鈍い光と、剣が放つ銀の一閃が重なり合う光景だった。



 うるさい。それが次に感じたことだった。


 薄っすらと目を開くと、ハーヴェルの緑色の瞳が珍しく揺れていた。彼が何事かを周囲に叫んで知らせると、砂埃を巻き上げながら、誰かが走ってくる。宮廷医だ。


 自分は怪我をしたのだろうか。ぼんやりと手のひらを眼前にかざせば、乾いた血痕が赤黒い。熊の血だ。徐々に感覚が戻ってきたが、無理な運動によって傷んだ筋肉が軋むだけで、目立った傷はないようだ。


 聴力が回復し、繰り返し己の名前が呼ばれていることに気づく。顔を向ければ、顔をくしゃくしゃにして泣いている星の姫セレイリの姿があった。


 汚れるのも厭わずに側に膝を突くエレナ。その身体は血と土にまみれている。怪我をしたのかと思い、血の気が引いたが、心理的な衝撃を受けている様子ではあるものの、身体に不自由そうな点はないので、おそらく熊の返り血だろう。


「ヴァン。ごめんなさい、ごめんなさい」


 しゃくり上げるエレナに、思わず手を伸ばす。その赤黒さに、エレナは一瞬驚きの視線を向けた。


 悪意は感じない。しかし、ヴァンの心には冷たい風が吹き抜けた。手を引っ込め、天へと視線を戻す。


 視界一面の青。どうやらヴァンは、清潔な麻布の上に仰向けに横たえられていたようだ。


「……ごめん、怖かったでしょう」


 熊だけではない。記憶がない間のヴァンも、魔物のように恐ろしかったはずだ。自身には傷一つないのに、ここまでの返り血を浴びたということはきっと、敵を必要以上に苦しめ殺したのだろう。


 ヴァンの最初の記憶も、血だまりの中だった。岩波いわなみ戦争の終戦直後、国境付近で混乱に乗じて略奪を行っていた盗賊の一団を、子供一人で返り討ちにしたのだ。


 どうやって成し遂げたのかは覚えていない。ただ、心を手放すと、自分が手の付けられない猛獣のようになるのだということは、おぼろげながら理解していた。だからこそ、鍛錬の時も本気になろうとはしなかったのだ。


 なおもしゃくり上げるエレナに、いたたまれない気分になる。側にこんな得体の知れない者を置いていただなんて、不気味なはず。


 周囲の大人を見回しても、一様に遠巻きにこちらを眺め、何事かを小さく囁き合うだけだ。やはり年端もいかぬ少年が巨大な熊を仕留めたというのは、恐ろしいものなのだろう。ヴァンの身体に傷がないか診察をする医師の手も、少し震えている。


「後悔していますか、僕を側に置いたこと」


 星の騎士セレスダとして呟いてみる。エレナの呼吸が一瞬止まった。それから何事もなかったかのようにはなを啜る。


「あなたは私を守ってくれたのに?」


 意外な言葉に少女の顔を見遣れば、泣き腫らした赤い目が、本当に意図がわからないというように見開かれていた。その大きな瞳に、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。


「僕が、怖いでしょう」

「なぜ? 怖いのは熊よ」


 言葉が出ない。現場に居合わせなかった大人ですら、得体の知れないものを見るように遠巻きにしているにもかかわらず、この少女は全く恐れていないというのか。もしかしたら都合の良い幻聴が聞こえたのかもしれないとまで思ったが、エレナの言葉は続く。


「ヴァンは、私を守ってくれた。大人よりもずっと大きな熊から。本当は、痛いのは嫌だってずっと言ってたのに。私が、あなたに痛いことさせちゃった。……もう、私のこと嫌いになった?」


 土と汗と血に塗れた状態の中にあってすら、心の靄が綺麗に霧散していくのを感じた。誰にも受け入れてもらえないと思っていた。自分ですら、この心に住まう獣が何者なのか、どうやって感情を制御すれば良いのかわからないのに。


 胸に込み上げるものがあり、それは喉元を遡上して鼻をつんと刺激し、目尻から涙となって溢れた。それを腕で覆うと、エレナが慌てて逆の腕に触れてきた。


「大丈夫? どこか痛いところがあるの?」


 答えることができず、ただ静かに首を横に振り、心が落ち着くまで涙を流す。隣で慌てふためくエレナを宥めたのは、ヴァンの心中をおもんぱかったハーヴェルだった。


 後から事の経緯を聞いたところによれば、熊を撃退した後、糸の切れた人形のように気を失ったヴァンを、エレナが引きずって森の入り口付近まで運んだのだという。


 知らせを受けた騎士が現場に向かうと、切り刻まれた熊の死骸が血の海の中に浮かび、周囲の木々も紅の飛沫を浴びて凄惨な状況だったそうだ。若い騎士の中には、堪えきれずに嘔吐する者もあったという。


 そのような状況であったため、制御の利かぬ得体の知れない少年を星の騎士セレスダにして良いものか、当然のように議論が紛糾したらしい。それを収めたのは、ハーヴェルである。


 彼は、後任を責任をもって指導し、自制心を身につけさせると星の女神セレイアに誓いを立てた。人望にあつい元星の騎士セレスダが、常にない饒舌でヴァンを擁護するものだから、星の宮の誰もが首を縦に振るしかなかったのだそうだ。


 今のヴァンがあるのは、ハーヴェルのおかげだ。


 それからもちろん、ヴァンの悩みをあっけらかんと受け流したエレナの存在は、代え難い心の拠り所となったのだ。


 エレナがいなければ、今のヴァンは存在しない。ヴァンをこの世界に留めてくれたのはエレナであり、彼女以外の人が星の姫セレイリだったとしたら、ヴァンはここまで全てを捧げて職務にあたることはなかったはずだ。その時はまた、別の運命が待っていたのだろう。


 だが、二人は出会った。あの薄暗くて湿っぽい、水路横の秘密基地で。これは何かの導きだったのか。そう、それこそ全てを統べる大神の意思のように、何か人知の及ばぬもの……。

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