5 王太子の目覚め
※
王太子が言葉を発した。その知らせがエレナの元に届いたのは、ヴァンが再度北に向かい五日経った頃だった。一生、元の聡明な王太子は戻らないのではないかと悲観的になっていたエレナは朗報を耳にして、星の宮を飛び出した。
イーサンの休む部屋の前には、いつも通り精鋭の騎士が立っていた。エレナは騎士と侍従が引き留める間もなく、自らの手で扉を開いた。
室内には、傷口を清潔に保つための薬品の臭いが微かに漂っている。突然の来訪者に驚き、王太子が目を丸くしてこちらを見ていた。その横には、何等かの会話を交わしていたらしく、白髪の混じる宮廷医長。こちらもまた口を開いたまま、驚きを露わに肩越しに振り返った姿勢のままだ。
彼らの様子を眺め、今更ながら、自分の無礼を恥じた。慌てて膝を折り許しを請う。
「申し訳ございません、殿下、先生。お話中でしたとは」
驚きが一段落すると、先に動いたのは宮廷医長だった。常日頃愛想が良い
「殿下、それではまた後程参ります。くれぐれも安静になさってください」
「ああ」
力のない声ではあるが、しっかりと頷くイーサンに涙が込み上げてくる。この優しい声を、もうずっと聞いていなかったような気がする。涙ぐむエレナの横をやや低頭して通り過ぎ、宮廷医が退出して扉が閉まる音がすると、もう堪え切れなかった。
「殿下、良かった、本当に良かった」
起き上がれないイーサンの横に膝を突き、清潔なシーツに包まれた左腕の辺りに顔を埋めた。幼い頃から慣れ親しんだ王太子の匂いに包まれる。まだ驚きの中にいたらしいイーサンは、その頃になってやっと苦笑交じりに言った。
「大げさな」
優しく髪を撫でてくれる大きな手は、昔から何も変わらない。ひとしきり安堵の涙を流した後、徐々に羞恥が込み上げるが、生まれた頃より兄妹のように過ごした仲なのだ。お互いの間に気まずい空気などない。
泣き腫らした自分の顔が相当酷いものであることは容易に想像できたが、躊躇なく顔を上げる。イーサンの青の瞳に正面から観察されても、不快には感じなかった。
「殿下、本当に急に良くなって。私、もう一生お話できないかと」
「縁起でもないことを」
口の端を少し持ち上げたイーサンだが、表情は硬い。言葉も少ないが、昨日までは声を出すこともできぬほどだったのだ。この快復ですら奇跡的なのだから、明朗な言葉など出なくとも仕方がない。イーサンの態度は、事故の後遺症によるものだとばかり思っていたし、実際それも理由の一端ではあったのだが、他にも原因があったということは、この時はまだ知る
相手が話せないのであればこちらから、とばかりに、エレナは近況を告げる。
「黒幕の捜索は進んでいるようです。陛下が激怒されて黒岩騎士を国中とオウレアスに遣わせています。きっともうすぐ手がかりが掴めるはずですよ。あ、イアンにはお会いになりましたか。謹慎を受けているのです。早く殿下のお側に仕えたいことでしょう。彼は悪くないと、陛下に進言してください。それから」
次々と捲し立てていると眼前で青白い手がひらりひらりと振られ、意図を察して口をつぐむ。怪我人に対して
「
エレナが一人なのが珍しかったのだろう、イーサンはヴァンの姿を探したが、当然ここにはない。詳細を説明するのもまた喧しいかと思い、首を横に振り簡単に答える。
「今は、別の仕事をしてもらっています」
イーサンはそれを聞いて少し額を抱えてから、眉根を寄せたまま、辛そうな面持ちである。打った頭が痛いのか、それともエレナの声が頭蓋に響くのか。答えはきっと、どちらともだ。
「すまない、まだ、体調が」
「ごめんなさい。私、配慮が足らず……」
おそらくヴァンにエレナを連れて出るように合図でもしようと思ったのだろうが、この場にいないと知り、仕方なく発せられた拒絶の声に、普段の王太子とは違うものを感じた。
無遠慮過ぎたのはエレナが悪いのだが、ただ単に体調が優れない、という様子ではない。まさかとは思うが、他の誰でもなくエレナがそこにいることが彼に苦痛を与えているようにすら見えたのだ。
釈然としない気持ちではあったが、自分が病床に伏せる時に周囲で騒がれたことを想像すると、やはり良い気はしないと思い、素直に立ち上がる。
「申し訳ございませんでした。殿下のご快復をお祈り申し上げます。女神の加護がありますように」
「エレナ」
不意に響いた、これまで聞いたことがないほどの憂いを含んだ声色に、肩越しに振り向く。窓から差し込む淡い光を浴びて、イーサンはこちらを見つめていた。思いつめたような表情だったが、その先の言葉はない。しばしの沈黙の後、彼は目を伏せる。
「すまない」
追い出したことに対する配慮か、もしくは意味もなく呼び止めてしまったことへの詫びだろうか。やはり今日のイーサンは何かおかしい。
だが考えてみれば、彼は生死の境を彷徨ったばかりなのだ。どんな人間でも、いくらか感傷的になるものなのかもしれない。
王太子の言葉に首を横に振ってから、再度膝を折り臣下の礼をする。急ぐ必要はない。もっと体調が快復すれば、以前のように他愛もないことで笑い合えるようになるはずだから。
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