1 出会いの日①
「エレナ様ぁ! いったいどこにいらっしゃるんですか」
遠くで呼ぶ侍女の声を聞き流しつつ、エレナは地下水道脇の茂みに隠された小さなくぼみに身体を押し込んだ。湿度が高く、むき出しの岩壁からは地下水が滴り、エレナの明るい亜麻色の髪を濡らす。
この場所は、幼いエレナの秘密基地。久しぶりに来てみたところ、育ちざかりの身体は数日で大きくなったのだろうか、以前より自分を押し込むのに難儀した。
四つん這いになり、奥へと進む。エレナを呼ぶ侍女の声は祭りの宵の喧騒がごとく遠い。
エレナは
本来
「エレナ様……もう、どこへ行かれたのかしら」
溜息交じりの声が近づいては遠ざかり、どこかに消える。しばらくしてからやっと、エレナは詰めていた息を吐いた。子供だって一人になりたい時はあるのだ。エレナ以外誰も知るはずがないこの場所で、誰の目にも晒されず、ただ一人の子供でいられる時間は、とても幸福だった。
苦手な器楽の練習から抜け出したエレナは、祭具である由緒正しい横笛を無造作に地面に置き、一人で昼寝でもしようと思い、体を伸ばそうと両腕を上げ。
「痛っ!」
拳が、岩壁にしては柔らかなものを叩く。次いで聞こえた人の声に、飛び上がりかけた。薄闇の中で目を凝らせば、さして広くもないくぼみの最奥に、子供の影があった。
「あなた、誰?」
秘密基地に侵入者がいることへの不満を隠さず
「ごめんなさい。そんなに痛かった?」
エレナは慌てて身を乗り出す。故意ではないとはいえ、人に暴力をふるった挙句、泣かせてしまうだなんて。しかしその影はもう一度鼻水を吸い、首を横に振る。
「ううん。違うんだ。君のせいじゃないよ」
声の感じからして、八つの歳のエレナよりやや年上の少年のようだ。
彼の涙と先ほど振り上げた拳に何ら関係性がないと知り、慌てたのが決まり悪くなる。
「じゃあどうして泣いているのよ、男の子でしょ。それにここは私の秘密基地なのに」
年の割に大人びている……いや、より率直な表現をすれば、ませている、と言われることの多いエレナだ。暗がりの中、お姉さんじみた口調で言われれば、まさか目の前にいるのが自分より小さな少女だとは思わなかったのだろう。少年は恥ずかしがる素振りを見せたものの、泣くのはやめなかった。
「……訓練が、辛いんだ」
「訓練?」
「そう。僕、騎士団の見習い生なんだ」
ああ、と納得する。隣国との先の大戦により孤児となった子らを引き取り、騎士見習いや針子などの労働者候補として養育しているのだと、侍女が噂をしているのを耳にしたことがある。
注意して聞けば、この少年の発音には、北方オウレアス王国風の訛りがあった。
中には、武芸の才能を持たない少年が騎士見習いとして訓練を受けざるを得ないこともあるのだろう。彼はきっとその苦痛に嫌気が差しているのだろうと推測する。
「何でそんなに辛いの?」
「……痛いから」
物心ついた頃から、騎士団員が護衛として身辺を警護してくれていたので、彼らのことは身近に感じる。何名か強面の騎士を思い浮かべれば、指導が辛くて泣きたくなる時だってあるのだろうと納得した。
「まあ、怪我するのは嫌よね。でもそんなこと言ってたら騎士になれなくて、どこかに捨てられちゃうよ。それに、今日は騎士団の大事な催しの日でしょう? 早く戻らないと怒られちゃうんじゃない」
本日は、昼過ぎから
訓練が辛くて泣いている彼が、選抜の対象となる上位に残ることはないだろうが、孤児には行き場がないのだ。平民の出ならば、ずば抜けた才能と、権力者に見初められるほどの器量か頭脳。ついでに果てしない運の良さがなければ、出世をすることは難しいだろう。それでも、騎士団の末席に居座り続けることができれば、食べるのに困らない程度の暮らしはできるはずである。
暗がりの中でも、少年が肩を落としたのが分かる。しょんぼりしている少年を見て調子が狂い、エレナは追撃を喉の奥に引っ込めた。
しばらく沈黙に包まれた後、不意に少年が口を開いた。
「君は?」
「ん?」
「君はなぜここに? 侍女見習いとか?」
ここ、というのはどうやらこの洞穴のことではなく、なぜ王宮にいるのか、という問いのようだ。正直に
「うん。そんなところ」
少年はふうん、と呟いた後、地べたに横たえられた金属の塊を指さした。
「これは?」
エレナは回答に窮する。ただの侍女見習いが、精緻な文様の刻まれた見るからに高価そうな笛を土まみれにしているのは妙だからだ。値打ちものを洞穴の中に持ち出しているこの状況。盗んだと思われても仕方ないと気づき、エレナは言い淀む。
「あ、こ、これは私の」
「君の?」
「練習しないといけないんだけど、苦手なの」
エレナの心配などよそに、少年には一切の疑いも見せない。暗がりの中、瞳が純粋に煌めいていた。
「へえ、そうなんだ。ちょっとだけ吹いてよ」
「私、これが苦手って言ったの聞いてた?」
「聞いていたけど、少しくらいいいじゃないか。僕、本当は騎士よりも音楽家になりたいって思うことあるんだ」
無邪気な調子で言われれば、これ以上拒否するのもしのびなく、エレナは大人びた溜息を吐いた。
「仕方ないなあ」
ふう、と吹き口に息を吹きかけ、砂を落としてから横向きに笛を構え、指を所定の位置に添える。大きく口を開き、腹いっぱいに息を吸い込み、下っ腹に力を入れる。習った通りに段階を踏んだ後、唇から鋭く息を吐いた。
ぷぴ、っと調子はずれな音の後に、辛うじて音階と呼べる程度の音色を奏でてから、エレナは眩暈に襲われて笛を下ろした。一息吐いてから、顔を上げて少年に言う。
「ほら、へたくそでしょ」
「うん。でも練習したら変わるかもよ?」
「練習が嫌なの」
「何がそんなに辛いの」
「だって息苦しいんだもん」
へえ、と返事をした少年の横顔が少し笑っているように見えた。
「じゃあ、僕と一緒だね」
そう言われ、先ほどまで優位な立場だったエレナは、少年にしてやられたことに気づく。少年は騎士の修練が嫌いだし、エレナは
「本当に。あーあ、頑張るしかないか」
薄闇の中、少年が頷くのがわかる。微笑みに弧を描く目の中には、淡くも濃くもない色合いの虹彩。相手から見て、暗がりに浮かぶエレナの金の瞳はどう映っているのだろうか。
生まれのせいで、いわゆる「普通の人」の暮らしができないのは、彼もエレナも同じである。
だが、エレナが高貴な身分として生きる一方、彼は敗戦国の孤児として、表向きは保護されつつも、陰では蔑まれる日々を送っているのだろう。
エレナが
「じゃあ約束。お互いに自分のやるべきことを精一杯頑張るって」
エレナはふと思いつき、小指を立てた。少年は指先を眺めたまま、動かない。
北国には、約束の印に小指同士を絡める風習があるらしいのだが、何か間違えただろうか。心配になったエレナは、つい、と指を前に押し出した。彼はやっと腕を上げ、おずおずと絡める。エレナは加減が分からないまま、軽く上下に振った。
「ここの人は、北の風習は嫌がるけど」
「べつに気にしない。あなたと私、なんか似てる気がするし」
彼もエレナも、生まれという
ぼんやりと小指を眺める。訓練が嫌だと言い大事な選抜前に洞窟に籠る、やる気など微塵も感じ取れない少年ではあるが、小指一本でもわかるほど、
さぼり癖がある様子とはいえ、彼も課せられた責務をきちんと果たさそうとしているのだと気づき、単純ながら励まされた。
「ねえ、あなたの名前は」
その時、エレナの耳は敏感に、自分の名を呼ぶ侍女の声をとらえた。今更ながら、こんなところで笛を吹くなんて、居場所を主張しているようなものだと気づく。
名残惜しい気持ちはあったものの、エレナは急いで腰を上げる。少年は驚いてこちらを見た。
「どうしたの」
「ごめん、もう行かなきゃ」
「え? あ、待って。僕はヴァン。君は……」
「ごめん、またね!」
申し訳なく思いながらも一方的に言い、エレナは狭い入り口に身体を押しつけ、勢いよく藪から転がり出る。そのまま脱兎のごとく逃げ去ろうとしたのだが、間が悪いことに、少し離れたところに侍女の姿があった。
いけない、と身を隠そうとしたが、目ざとくこちらに気づいた侍女により、少し逃げた先で捕獲をされてしまう。
侍女は、土埃にまみれた
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