6 動き始める運命


 気づけば柔らかな寝台の中で、心地よい朝の陽射しを浴びていた。どうやら昨晩はあのままソファーで眠りについてしまったらしい。


 侍女が慌ただしくカーテンを開き、置いたままになっていたティーカップを片付けている。ヴァンの姿はなかったのできっと、眠ってしまった主を寝台に落ち着かせてから、扉の外に戻ったのだろう。


「おはようございます、エレナ様」


 メリッサが微笑みを浮かべてこちらを覗き込む。開け放たれたばかりの窓から差し込む清々しい朝日を受けた横顔は、聖母のごとき神々しさすら感じさせる。


「おはよう、メリッサ」


 つられて笑みを返し、手足を大きく伸ばす。夜更かしのせいでまだ眠り足りない心地だが、そうも言ってはいられない。昼過ぎから、この訪問の最重要目的である、日蝕の儀の前祭を行うからだ。


 本来この祭儀は日蝕の最中に行うもので、実際、正式な儀式はサシャの聖都で行う。本日行うものは言うなれば、宗主国そうしゅこくの風習を属国にも知らしめて、一体感を植え付けるための、仮初かりそめの儀式だ。 


 俗人としてではなく、星の姫セレイリとしての祭儀であるため、準備も形式ばっている。昨日果実酒を飲んでいたことが不謹慎に思われるほど、今朝の清めは念入りだった。


 湯あみを終え、聖水で清めた香油を髪に塗り込み、月桂樹げっけいじゅの冠を乗せる。着慣れた純白の長衣を纏い、唇に薄く紅を引く。神妙な表情で歩けば誰もが頷く星の姫セレイリだ。我ながら上手に二重人格を演じていると思う。


 天候は晴れ。軽く汗ばむような陽気の中、王宮の外れに位置するバルコニーから見下ろす広場は、民衆で溢れ返っていた。十年前の戦争の傷は、癒えるには早すぎる。彼らは何を思い、かつての敵国からやってきた星の姫セレイリを見上げるのだろうか。


 形式的にはの儀の一部であると聞けば、誰もが滑稽に思うほどの蒼天。月どころか、ぼんやりと白く浮かぶ雲でさえ、陽光を遮ろうとはしない。それでも儀式は厳かに開始する。


 控えの部屋で大きく息を吸い込み、胸を張る。左後ろを見上げ、小さく声をかけた。


「ヴァン、行きましょう」

「うん」


 星の姫セレイリが神の祝福を述べ、天へと祈りを捧げる。ここがサシャならば、星の女神セレイアを第一の神とする民たちがエレナと同様に指を組み祈るのだが、眼下の民衆は皆、波の神オウレアを第一の神とする者たちだ。エレナと共に祈りを捧げるのは、サシャから共に来た少数の近習だけである。


 聖サシャ王国の前身、旧サシャ神国が支配した一帯は、星、波、岩の三神が信奉される地域である。すなわち多神教の体を成しているものの、それぞれの民らは、三神の中で一番に信ずる神を定めている。


 約八十年前のオウレア紛争のずっと前から、北方は波の民、南方は星の民と呼ばれ、地域により信仰に差があった。中でも南の文化は独特で、岩の神サレアが神話の時代までさかのぼってもこの地から隠れて久しいため、その御子たる王には俗人として尊敬の念を寄せ、同時に星の女神セレイアの御子たる姫には、宗教的な畏敬の念を抱いている。


 そう考えると、北方オウレアスはほとんど一神教に近い印象を覚えるが、それでも星の姫セレイリという存在自体を受け入れている様子からは、やはりこの地は三神の土地なのだと改めて実感させられる思いである。


 儀式は滞りなく進む。時間にして、半刻もない。退屈な祝詞のりとをこなし、今では大得意になった神笛しんてきを奏で、暗くもならぬ空を仰ぎ、日差しの眩しさに目が眩むと、不意に己が滑稽に思えた。


 日蝕の儀を蒼天の下で行っても、神は気分を害さない。逆に、御子の祈りを受けても、何の感動も表さない。つまるところ、お隠れになった神は、人間のことなんてもう、気に留めていないのだ。その職務に命を削ってきた歴代の星の姫セレイリは、ただの政治的道具だったのだろうか。


 鬱々とした思いを抱えつつも、エレナは笛を奏でることを止めない。神事の実態がどうあれ、これはエレナの責務であり、存在意義である。忠実に、役目を全うするまでだ。


 異国に訪れた疲労もあった上、眼前の民衆が星の姫セレイリを心からは歓迎していないことに気づかされ、気分が滅入っていたのかもしれない。どうしようもないことを延々と考え出してしまったが、呼吸をするように自然に奏でられるようになった神笛は、違和感なく神聖な音色を響かせている。ぼんやりと、無心で指を動かす……。


 その時。不意に腕を強く引かれ、笛は甲高い音を上げた。


 何事か、と思う間もなく、急に引かれた衝撃でよろけながら見上げると、銀の閃光が、何かを叩き落としたところだった。星の騎士セレスダの剣が、どこからか射られた矢を、真っ二つに斬り落としたのだ。そこは先ほどエレナの首があった位置である。


星の姫セレイリを室内へ」


 鋭い指示が飛び、紫波しは騎士の一人がエレナを守護するように脇に立つ。しかし彼は、すぐに黒岩くろいわ騎士に追いやられてしまう。


 矢を射られた。誰の犯行かわからない。王宮関係者とはいえ、異国の者に星の姫セレイリを預けるわけにはいかぬのだろう。


星の姫セレイリ、こちらへ」


 顔見知りの騎士のやや上ずった声。緊張が伝染する。室内に避難しつつも肩越しに振り返ると、広場は騒然としてるようだった。


 ほどなくして、星の姫セレイリに矢を射った実行犯は、なんとか汚名をそそぎたい紫波騎士団の近衛によって、王宮敷地内にて捕らえたそうだ。


 安全のため、滞在用の部屋に閉じ込められることとなったエレナは、肩を震わせて泣く侍女達と、気丈に振舞ってはいるものの顔面蒼白なメリッサと共に、不安な時間を過ごした。この調子では、首都と街道の安全が確認されるまで、帰国はお預けになりそうだ。


 聖サシャ王国の統治を善としない反体制派が潜伏していると聞いてはいたが、あと少し星の騎士セレスダの反応が遅ければ、頸部に矢が刺さっていたかと思うと、今更ながら肌が粟立つ。恐怖に戦慄しつつ、今はただ無事を感謝した。



第二幕 終

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