5 夜のお茶会
※
目が冴えて落ち着かない。晩餐後、周囲が気の置けない者のみになった途端、エレナはヴァンの様子を問いただした。こうなることを予想していたメリッサは、安心させるように微笑みながら、娘の背中を撫でる。
「今は眠っていますが、大事ありませんよ。おそらく過労でしょうと、宮廷医が」
様子を確認しに行きたいが、過労が原因なのであれば、そっと寝かせてあげた方が良いはずだ。
エレナは気持ちを落ち着けるため、ハーブティーを淹れてもらい、
眠れはしないが、
一人悶々として、どれほどの時間が経っただろう。不意に扉の外から、低くひそめた話し声が聞こえた。深夜の番についているのは、
しばしの問答が続き間が空いた後、片方が何事かを発してから、廊下を歩き去る足音が聞こえた。微かな音なので、眠っていれば全く気付かなかっただろうが、夜中に護衛番が代わるのは、妙なことである。
滅多なことはないはずと思えど、ここは慣れぬ土地。念のため状況を確認しようとして腰を上げる。丸腰で敵と遭遇したらどうしようと思い、しばしの思案の後、ポットを抱えた。扉に耳をつけてみる。廊下からは物音一つ聞こえない。エレナは意を決して、扉を豪快に開いた。そして。
「え」
思わず驚きの声が漏れる。扉の横に立っていた今宵の当直は、もっと驚いたようだ。
曲者と思い、反射的に動いたのだろう。抜き身の剣が目にも止まらぬ速さでこちらに向かい閃いて、鼻先から拳一つほど距離を置き静止する。驚きを宿してこちらを見つめる茶色い瞳が揺れた。
「申し訳ございません、とんだご無礼を」
「何しているのよ、こんなところで」
周囲を
「ごめん、まさか君だとは」
「そうじゃなくて」
エレナは怒りを抑えるために深呼吸をしてから、抱いたままのポットを置きに室内へ戻る。こんなものを武器として持ち歩き、滑稽にもほどがある。小さな円形のテーブルにそれを置く間も、彼は扉の側で捨てられた子犬のように立ちすくんでいた。
「何やっているの。早く入りなさいよ」
「いや、僕は仕事が」
「今夜の護衛は他の人にお願いしたはずよ、ヴァン。大方、無理言って代わってもらったのでしょうけど」
十中八九、先ほどの会話は、夜の番を代わる代わらないの交渉だったのだろう。部屋で休めと言いたいが、大人しく聞く性格ではないだろうから、室内で座っていてもらった方が安心だと思ったのだが、ヴァンは頑なに動かない。
仕方なく腕を掴み、強引に室内に連れ込み扉を閉める。一人掛けのソファに座るように促し、彼が渋々従ったのを確認してから、自分も向い側に腰を下ろした。
「明日のために休んで、と言っても聞かないでしょうね」
「さっき休んだし問題ないよ。その……晩餐会の時はごめん」
「反省してるのなら、すぐに戻って眠るのね。明日は他の人を連れて行く訳にはいかないのよ。あなたじゃないとダメなの。そういう決まりなんだから」
ヴァンからの返答はない。エレナは溜息交じりに棚からカップを取り出し、ポットから黄緑色の液体を注いだ。爽やかな匂いが辺りに広がる。心を落ち着かせる作用のあるハーブだと聞いていた。
精緻な文様のソーサーに乗せられ、無言で差し出されたカップを、ヴァンは躊躇いがちに受け取った。
「まあ、お茶の相手になってくれるのなら許してあげないこともないわ」
ヴァンが一口
「それで、体調はどうなの。少しは良くなった?」
「うん、心配させてごめん」
「心臓が飛び出すかと思った。危うく、大勢の前で取り乱すところだったわ」
ヴァンが肩を
「今さら仕方ないし、もういい。それよりどうしたの。あんなに身体が丈夫だったヴァンが、体調を崩すだなんて。やっぱり、無理させすぎちゃったかな」
そのことはヴァン自身も疑問に思っていたらしい。思案気に視線を彷徨わせ、微かに首を傾けた。
「なぜかはわからないんだけど、この国に来るといつも気分が悪くなるんだ。昼間、街を散策した時から頭痛と吐き気がして。決定的だったのは多分……
「陛下のお顔……それ体調と関係あるのかしら」
エレナの言葉ももっともだと思ったらしく、ヴァンは頭を掻いた。
「うん、確かにそうだよね。さすがに無礼か」
そういう問題でもない気がするのだが。
エレナが口を開きかけた時、ヴァンが「あ、そうだ」と声を上げ、腰に括り付けた巾着から何かを取り出す。
手のひらに乗せられたのは、水色のかわいらしい包装。よく見てみると、中には円形の何かが入っているようだ。くれるのだろうか。目顔で問えば、ヴァンはにこやかに頷く。両手で受け取り袋を開けると、香ばしい匂いが溢れた。焼き菓子のようだ。
「……買ってきてくれたの」
「うん。君は外に出れないのを残念がっていたから。それを食べて少しでも旅行気分になってくれたらと思って。塩のお菓子だってさ。甘いのに塩気があって、サシャではきっと食べたことがない味だ」
外に出たいとは明言しなかったはずなのだが、エレナの態度はそれほどわかりやすかっただろうか。少し頬が熱くなり、菓子の袋を胸に抱いた。
「ありがとう。嬉しい」
言われたヴァンの方が嬉しそうだったので、先日から感じていた心の靄は、ほとんど消え去った。
彼も一人の人間なので全てを共有することはできないが、心が通じあっていれば、それだけで良い。ヴァンが、それを煩わしいと思うようになった時、身を引けばいいのだ。いや、あえて離れなくとも、
「良かった。お土産なんて普段あげないから、喜んでもらえるか心配だったけど」
「さすがに初めてって訳じゃないでしょう?」
「どうだったかな。僕はただの孤児だし、相手もいない」
「そんなことないわ」
思わず鋭い声が出てしまう。ヴァンは首を傾けた。
「僕にはサシャに来る前の記憶がなく、家族もいないのは君が良く知っているでしょう」
「それは知っているけど。ほら、同僚とか親友のイアンがいるでしょう。何だかんだとあの選抜の後から仲が良いじゃない」
「イアンはともかくとして、僕を本当の意味で受け入れてくれているのは、君だけだと思う」
不意打ちを受け、エレナは言葉を失いカップを握る。指先から温い熱が流れ込み、心なしか頬が火照ったような気がする。
エレナは小さく咳払いをして調子を整えてから、意図して素っ気なく言った。
「急にどうしたの。体調が悪いから弱気になっているのね」
「本心だよ。ずっと昔からそう思ってた。……あの時のこと、覚えていない?」
「何を?」
本気でわからず問うが、ヴァンは自嘲気味な笑みを口の端に浮かべ、首を振る。
「何、気になるじゃない」
「いや、良いんだ。思い出を独り占めするのも悪くない」
「ふうん?」
懐かしむように遠くを眺める淡茶色の瞳が、優しく和んでいる。出会ったばかりの頃、八つの歳のエレナならば無理やり聞き出そうとしたのかもしれないが、十五のエレナは僅かとはいえ、自制と思いやりを身に着けていた。
心地の良い沈黙に身体を預け、ハーブティーを一口啜る。すでに爽やかな芳香の湯気は上がらなくなっていて、舌の上に乗せると体温よりも冷たくなっている。それなのに、胸は何か温かなもので満たされたような心地がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます