2 思わせぶりな言葉と動乱


 怒りが爆発しそうになるといつも、瞼を閉じて三つ数える。視界を遮断し、精神の世界に没入することで、少しばかり心が落ち着くのだ。ヴァンはそれをする度、己の中にいる猛獣のおりに、鍵をかけ直すような光景が脳裏に浮かぶ。今回もしっかり獣を閉じ込めてから、ゆっくりと目を開く。


 鉄格子の向こう側に囚われた眼前の男は、軽蔑を露わに唾を吐きつつ挑発を繰り返す。


「おい、聞いているのか、裏切り者が。オウレアスの遺民にもかかわらず、南の女の尻に敷かれる腑抜けめ」

「……それで?」

「恥を知れ。この売国奴」


 縄で拘束されつつも口だけ達者なのは言うまでもない、先ほどの儀式で星の姫セレイリに矢を射った実行犯だ。


 尋問中に、彼らの指導者からの伝言で星の騎士セレスダに伝えたいことがあるのだと申し出があったと聞き、薄汚れた牢まで来てやった。しかし、垂れ流したいのは情報ではなく暴言か。今すぐこの男の胴体と首を分断し、その口を黙らせたかったが、男の背後にいる敵に近づくためには、簡単に殺す訳にはいかなかった。


「無駄話はいらない。心酔しんすいする指導者の伝言とやらはもういいのか」

「ふん、つまらない奴だな。……お前の望みを叶えるために、良い情報をくれてやろうとしているのに」

「不届き者がもたらした情報など不要だよ」

「良いのか? お前は、あの女を守りたいのだろう」


 思わず言葉に詰まり、眉根を寄せたまま男を見る。鉄格子の隙間から、男の血走った眼が飛び出している。


「俺たちの組織からだけではない。御子として定められた運命から、解放したいはずだろう。違うか」


 彼はにやりと口の端を歪め、ヴァンの耳元に唇を寄せた。生温い息が耳朶を撫で、背筋に悪寒が走る。


 彼は言った。「鍵はシャポックラントに。行けばわかる」と。


 星の姫セレイリには、民のために命を捧げる義務がある。歴代の姫は皆短命で、最も長生きした者でも、三十まで生きた者はいないという。それを理不尽だと思う気持ちがあったとしても、周囲で紫波騎士や黒岩騎士が見守るこの状況では、首肯することなどできやしない。


 ヴァンは流血を思わせるかな臭さを放つ鉄格子から身体を離し、吐き捨てた。


「……星の姫セレイリも、それは受け入れていらっしゃる。僕にはそれに干渉する権利はない」


 その回答に束の間口を閉ざした後、何がおかしいのか高らかに笑い声を立てる狂った男を見下ろし、これ以上の会話は無用と、きびすを返す。肩越しに、居並ぶ騎士に言い放つ。


「厳粛な処分を。……この牢で死んでも、星の宮は気にしない」

「承知しました」


 ヴァンは階段を上りつつ、軽く目を伏せる。一、二、三、と数え心に鍵をかけた。殺しても良い、と指示を出したのは初めてだ。幼少の頃は、人に害をなすのが恐ろしかった。それは、心の中の猛獣が檻を抜け出すと、周囲をなりふり構わず破壊することを知っていたからだ。だから、人を傷つけず、かつ無意識に猛獣を開放することのないよう、自分が傷を受けるのも避けてきた。


 背後では、男の金切り声が響いている。彼は拷問の限りを尽くされ、知りうる情報をすべて吐き出した後、処刑されるだろう。もしくは、その途中で死ぬかもしれない。


 冷酷にも罪悪感は抱かなかった。彼らは星の姫セレイリあやめようとしていたのだ。あの矢は真っすぐにエレナの首に向かっていた。


 もし、弧を描き飛来する矢に気づくのが少しでも遅れていたら。彼女の腕を引くのをほんの少しでも躊躇ちゅうちょしていたら。エレナを失っていたのだと思うと、柄にもなく手が震えた。拳を握ってそれを押し隠す。


 星の姫セレイリは、星の騎士セレスダ岩の王サレアス、ほとんどの場合の波の御子オウレンと同じようには天寿を全うできない。それを知った日には反発をしたものだが、当のエレナがそれを受け入れるのであればと、一切考えないようにしていた。今この瞬間も変わらない。だがその時までは、他のどんな脅威も寄せ付けぬ盾になるのだと誓ったのに。こんなにも簡単に、誓いは破られそうになってしまうのか。


 階段を上りきり、かびと湿気に満ちた鬱々とした空気から解放されたが、気分は晴れない。あの男の述べたことなど、気にするに値しない。そう思うのだが。


「シャポックラント」


 すでに日が陰っている。行ってみるとしても後日になるだろう。ヴァンは、ひとまず眼前の仕事に没頭することにした。


 そして翌日。やっと職務から解放された後、密かに厩舎を訪れて旅支度を行った。


 しかしその最中、全てをを見透かしたように時期をはかり、エレナが慌ただしい足音を立ててやってきた。


「こんな時にどこへ行くの。大変なの。さっき、伝令が来て」


 あまりの剣幕に驚き馬具から手を放したヴァンを見て、エレナは呼吸を整える。それから続く言葉に、ヴァンの心臓は大きく一跳ねし、そのまま停止するかと錯覚した。


「イーサン殿下が襲撃されたの。詳しくは分からないけれど、容体はあまり良くないみたい。それと、イアンが……罪を問われて投獄されたって」

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