3 帰国


 帰国してみれば、エレナの言葉――元を辿れば伝令が寄越した情報には若干の誇張があった。


 王太子は襲撃されたのではなく、馬具の整備不良で鞍が落ち、落馬をしたのだという。そして、王太子付きの騎士であるイアンは、守護責任を問われ、部屋に軟禁をされていたのである。


 緊急事態のため、帰国の途は強行軍を強いられた。常日頃から身体を鍛えているヴァンや他の騎士とは異なり、エレナは旅に疲労困憊していたようだが、帰国早々、形式ばかりに埃を落としただけで、二人は王太子のせる部屋を訪れた。


 医者が片時も離れられぬ時期は過ぎたようで、王宮敷地内の医療院から自室に移って治療を受けているらしい。気を利かせて侍従が退室すると、部屋には三人だけになる。


 ヴァンの隣に立ち、疲労と心労で青ざめた唇を噛み、半ば包帯に包まれた王太子の顔を見下ろすエレナの横顔が痛々しい。先代の星の姫セレイリと当代の岩の王サレアスも幼少期より親密であったというが、エレナとイーサンも兄妹のように過ごしてきたのだ。そのイーサンが、横になったまま微動だにせず、ただ微かな呼吸の音だけが生を主張する様を見て、その苦痛はいかほどのものであろうか。


 ヴァンとて、星の騎士セレスダとして王太子には良くしてもらったのだから思うところはある。自身の心すら動揺する中、エレナを励ますための言葉一つ思いつかないことが歯痒かった。


 医者の話によれば、身体の怪我は安静にしていれば命に影響はない。だが、複雑に折れた左脚は、もう動くことはないかもしれない。それだけではなく、落馬時に頭部を強打したため、時折意識が戻っても曖昧な反応しか返ってこない状況が続いているのだった。


 岩の王サレアスの伴侶はエレナが生まれる前に早世しているし、後妻もいない。王子はイーサンのみであるため、不謹慎にも王宮内は、派閥闘争の気配に包まれていた。


 王太子に万が一のことがあれば。後顧の憂いを断つために、再度王妃を擁立しようという動きがあり、適齢の令嬢を持つ高官らが、こぞって王に取り入る素振りを見せていた。


 その一方で、王家の親戚筋から後継者候補を選出する向きもあり、こちらは国内二つの公爵家と、ここ数代のうちに王女が降嫁したことのある三つの侯爵家の子息がしのぎを削る。


 とはいえ、そのような権力闘争は、星の宮に住まうエレナとヴァンにとっては、対岸の火事である。誰が王であっても、星の姫セレイリはその役目を果たすだけ。


 それでも、ゆくゆくはイーサンに仕えることになるだろうと漠然と考えていたヴァンにとって、喫緊のことではないにしても、動乱の気配に言い知れぬ不安を抱く。


 そして、自分もまた不謹慎なことを考えていると気づいてしまえば、純粋にイーサンという人間の不幸を悲しんでいるエレナに、声をかけることなどできないのだ。


 しばらく王太子の動かぬ瞼を見下ろしていたエレナが、沈黙を破った。


「私のせいだわ。きっとこれも、反体制派の仕業。十年前の、岩波戦争の報復よ」

「事故かもしれないじゃないか」

「王太子の馬だもの。とても念入りに危険がないか調べられているはず。誰かが故意に馬具に細工したとしか思えないわ」


 おそらく真相は、エレナの言葉に近いと思われた。王太子の落馬後、厩舎番が聖都の用水路で死亡しているのが見つかったと聞いている。その首には縄状の物で締め付けられた跡があり、発見場所から察するに、自害ではあり得ない。定石通りに推察するのならば、王太子の落馬に関与していた厩舎番が、口封じのために絞殺され、王宮外に打ち捨てられたと考えるのが自然である。


 岩波戦争のきっかけは星の姫セレイリの毒殺未遂事件。あの戦争がなければオウレアスが属国となることはなく、今もあの国の玉座には、岩の王サレアスと通じた現在の王ではなく、藍色の瞳の王が座っていただろう。それであれば反体制派も存在しなかったはずだ。


 だから、これが反体制派の謀略によるものだとすれば、王太子の負傷の原因には、エレナも関与していることになってしまう。毒殺未遂の被害者でもある彼女には、責任などないのだといくら言い聞かせても、エレナの心は晴れないはずだ。


「でも、反体制派が主犯とは限らない」


 きっぱりと述べるヴァンの心中を見透かしたように顔を上げたエレナと、視線が重なった。


「ヴァンは、私に甘いわね」


 いつになく弱々しい微笑みに、胸が締め付けられる。何も出来ぬ自分にいっそう辟易する。


 そのまましばらく王太子の呼吸に耳を傾けていたが、エレナは不意にきびすを返し、寝台の側を離れた。


「どこへ?」

「イアンのところへ行きましょう」


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