3 宴の始まり


「やっぱりお似合いです、星の姫セレイリ


 夕刻。エレナは鏡に映る自分の姿を眺めていた。


 淡くくすんだ亜麻色の生地に、白のレースをあしらった、いささか素朴な印象のあるドレス。元は母のために用意されたものだったが、成人に際し、エレナの身体に合わせて仕立て直した。最近の流行りに沿い、腰元が細身に見えるよう腰に同系色の細いサテンの紐を編みつければ、とても二十年ほど前に仕立てられたものには見えない。


 星の姫セレイリは祭儀を執り行う聖職者ではあるものの、約八十年前のオウレア紛争時、岩の王サレアスくみして領地を賜ってからは、神の子としての立場と共に、王の家臣、それも重鎮と同等の政治的価値も保有していた。領地自体は何代か前に返還したとはいえ、彼女らの立ち位置に変わりはない。


 神の子としての神聖さを保つため、俗人として政治の場に現れる場合でも、あまり華美な装飾は好まれない。流行の最先端を行くのであれば、胸元が大きく開かれた意匠が最適なのであろうが、此度の仕立ては首元までをレースで覆うものである。


 姿見の前でお人形のように一回転させられると、長い髪に薄桃色の真珠が編み込まれているのがわかる。心ここにあらず、されるがままになっていたエレナは、この段階になってやっと、今宵の装いの完成形を把握した。


「うーん、やっぱり髪飾りはこちらのシャンパンゴールドの蝶に……」

「いえ、絶対にパールです。星の姫セレイリはお美しいんですから、飾りは少し控えめなくらいがお似合いです。ね、エレナ様。……エレナ様?」


 侍女らに首を傾げられ、現実に引き戻される。


「あ、うん。ごめんなさい。なんだっけ」


 母のドレスに袖を通すのを楽しみにしていた主が、無感動にぼんやりとしているので、若い侍女二人が顔を見合わせて首を傾げる。そのまま、年長者の意見を仰ごうとするように、侍女長に視線で助けを求めた。年齢は四十近いはずだが、なおも年相応の美貌を維持する侍女長が目を細めると、目じりの微かな皺が深まった。


「エレナ様、お疲れですか」

「ううん、メリッサ。そんなに疲れてないわ。ただ、緊張しているのかも」


 メリッサはエレナの乳母でもある。エレナが成長すると、彼女はその仕事振りを順当に評価され、星の宮の侍女長となっていた。メリッサに話せないことなど何一つなかったが、道中感じたヴァンとの微妙な距離感が胸に引っ掛かり、やや上の空になってしまった。


「……ヴァンってもう戻ってきたの」

「ずっと前から外で控えていると思いますよ。彼になにか?」


 エレナは少し思案してから、育ての母の包容力に溢れる微笑みを見上げる。エレナの心の中なんて、全て見透かされているのではないかと錯覚するような表情だ。


「今さらだけど、ヴァンの家族ってどうしているのかしら。ずっと私の近くにいさせてしまっているでしょう。星の騎士セレスダにならなければ、家族を探しに行けたかもしれない。本当はもっと……自由になりたかったりとかしないかな」


 自分で口にしたことだが、無性に悲しくなる。声に出すことで、この気持ちの整理がつき始める。尻すぼみになる声に、気を利かせたのか若い侍女二人は使わなかった装身具を片付けに席を立った。メリッサは優しい笑みを絶やさない。


「お母さんが亡くなったのが二十代前半。仮に私が同じくらい生きるとして、それまで彼を拘束することになるのよね。それってすごく残酷」

「急にどうされたのですか」


 急に、という訳でもない。エレナがヴァンを星の騎士セレスダに選んでしまったがゆえ彼の自由を奪っていることについて、心の奥底ではずっと罪悪感が燻っていた。それが今日、大きな炎になったというだけなのだろう。


 別行動が多くなったとはいえ、やはり一日のほとんどを共に過ごしていて、これは星の姫セレイリが代替わりするまで続く。つまり、エレナが死ぬまで。


「気に病む必要はないです。ですが、先代も同じように悩まれていましたよ。きっと先々代も、その前も」

「お母さんも」


 メリッサは頷く。彼女は元々、先代の星の姫セレイリの友人だったと思い出す。


星の姫セレイリに仕えることは何にも優る光栄です。それに」


 優しいが、芯の強い声ではっきりと言ってから少し気を抜くように微笑む、見慣れた横顔に言い知れぬ安堵を覚えた。


「あなたは、こんなに素敵なお嬢さんなんですから。……ねえ、星の騎士セレスダ


 メリッサの言葉に振り向くと、ちょうど扉が閉まるところだった。話の流れが把握できぬまま、ヴァンが瞬きを繰り返している。


「なんで急に入って来たの!」


 危うく恥ずかしい話を聞かせるところだった。理不尽な怒りをぶつけられたヴァンは怒りもせず、むしろ申し訳なさそうに頭を掻く。


「ごめん、準備が終わったので入るようにと、メリッサ様からご指示が」


 気づかぬ間に、侍女長は壁際に控える侍女に、合図を送っていたようだ。してやられたエレナは熱い頬を隠すように俯いて、盛大に溜息をついて気分を入れ替えた。悩んでいる時間ももったいない。


「まあいいわ。お出かけは楽しかった?」

「まあまあかな。それより、先代のドレスの着心地はどう」

「まあまあよ」


 話を逸らされて気分は良くない。我ながら子供のようだ。冷たい切り返しにも動じず、ヴァンは顎を撫でてエレナを観察した。それから裏のない調子で明るく言う。

「そっか。すごく似合っている」


 彼の性格に邪気が抜かれるのはいつものことだ。エレナは無駄な強情を斬り伏せて、頬を緩めた。


「ありがとう」


 微笑めば、より温かな笑みが戻って来るのはいつものこと。だが、改めて近くで顔を見つめて気づく。ヴァンは、何やら顔色が優れぬようだ。


「大丈夫? 具合悪いの」


 言い当てられたヴァンは目を瞠り、否定の意味に首を振りかけ、隠しきれないと考えたのか、思い直したように苦笑した。


「うん、少し吐き気がするけど問題ないよ」

「吐き気? 本当に大丈夫なの。辛いのなら無理せず、今日は休んだ方が」

「そういう訳にはいかない」


 意思の強い、はっきりとした声である。ヴァンは時々とても頑固になる。それは決まって、自分の職務に関する話題の時だった。


「十年前までは敵国だったんだ。波の王オウレスやほとんどの国民は君を歓迎しているだろうけど、城には色んな人がいる。どこにどんな危険があるかわからないから」


 胃の中のものを戻しそうになっている騎士の護衛を受けるのは果たして安全と言えるのか、という言葉が口から出かけたが、ヴァンの能力を良く知っている身としては、少々の体調不良程度であれば、他のどんな騎士よりも有能だという結論に至る。そんなことよりも、故郷を迷いなく「敵国」扱いするヴァンに、針で刺されたかのように胸が痛んだ。


 どちらにせよ、普段の温和な印象からは意外なほどに、彼は強情なのだ。これ以上何を言っても無駄だと悟り、エレナは溜息交じりに受け入れた。


 しばらく座していると、ヴァンの顔色も落ち着いてきたので、ひとまず胸を撫で下ろす。日中、どこに行っていたのか聞きたかったが、体調が万全ではない人間を問い詰めるのもはばかられ、当たり障りのない話しかできないまま、宴の時間になってしまった。

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