2 オウレアス王国へ
北方への出立準備は、滞りなく進んだ。
幸い、馬車の故障も街道の不調もなく、想定された最短日数で国境の町に入る。オウレアス王国内、安全上の理由から王宮以外に滞在するつもりはないので、国境の町を立つのは早朝だ。
入国予定日、エレナは日が昇りきる前に寝ぼけ眼で馬車に乗り込んだ。
聖サシャ王国内を移動する際には
通りには十年前の戦争の面影はなく、聖サシャ王国民と、オウレアス王国民の生活の様子には大きな差は見られない。もっとも、馬車を降りることのできないエレナは、ほんの小さな窓のカーテンの隙間からこっそり外を眺めるしかできなかったので、実際のところはわからぬのだが。
「ねえヴァン、あとどのくらいで着くかしら」
窓枠に肘を突き、エレナと同じようにぼんやり外に目を遣っていたヴァンは、意外そうな面持ちでこちらに目を向けた。どうやら、エレナは居眠りしているものと思っていたらしい。
「うーん、思ったよりも早く着きそうだよ。もう国境を過ぎてからの旅程の半分以上は進んだはずだ」
教養の授業で地図を見て理解はしていたが、首都は国土内のかなり南方にある。オウレアス王国の北部は、人の開拓が及ばぬ豪雪の山岳地帯であるため、自ずと南部が栄えたのだろう。
山岳地帯をさらに北へ抜けると、星、波、岩の三神を信仰せず、聖なる剣とやらを神と
幼い頃、教育係の司祭に聖なる剣とその民について質問したことがあった。
御神体は黒曜石のごとく漆黒の剣。世界創造の残滓から生まれた存在で、全知全能の大神……三神を生み出した存在でもある大いなる神が人に授けた恩恵の一つだという。度重なる戦乱により人の血を吸い込んだその剣は、次第に生物に干渉する力を得て、神性を宿したらしい。
空も海も大地も自然物であり、それらを司る神を信仰するエレナにとっては、剣という無機質な存在が神であるということに、不思議な感覚を覚えたものだ。
「着いたら晩餐会よね」
エレナの声から億劫そうな色を察したのか、ヴァンは苦笑してから頷いた。
「大丈夫。向こうの人々は気の良い人が多かったから」
「そっか、この前会ってたのね」
以前は彼の行動のほとんどを見知っていたのだが、今は違う。エレナの把握していないところで交友関係があるというのは不思議な気分だ。その上、ヴァンは思い出したように言った。
「君が晩餐会の身支度をしている間、少し側を離れてもいいかな」
「え、何かあるの」
急な申し出に驚き、瞬きしながらヴァンの柔和な印象の目を覗いた。
「うん。……ほら、オウレアスは僕の故郷でしょ。少し外に出たら何か思い出すかなって」
ヴァンの過去のことは、エレナはあまり知らない。それは、彼が口を開かないからではなく、彼自身にその記憶がないからだ。辛うじて残る断片的な記憶によれば、終戦後、オウレアスとサシャの国境付近の町で保護されて、そのまま騎士団の見習いとして迎え入れられたのだという。
エレナが王宮に半ば幽閉される中、城下に出られる立場にあるヴァンにやや嫉妬を抱かぬでもないが、禁ずるのも心が狭い。エレナは意識して鷹揚に答えた。
「いいわ。気を付けて行ってきて。晩餐までには帰ってね」
「感謝いたします、
ヴァンの言葉に曖昧に頷き、エレナは物思いに耽る。思えば、彼とはもう七年間共に過ごしたが、互いを良く知っているようでいて、根本的なことは何も知らないのだ。出会ってからのことは、ほとんどすべてを共有してきたと思う。だが、それ以前はどうだろう。
記憶がないヴァンを責めるのは筋違いだが、気にならないと言えば嘘になる。
彼は本当は何者で、どのような幼少期を過ごしたのか。どんな両親から生まれ、どんな友人がいたのだろう。
知る術はないが、もしすべての記憶が蘇ったとして、その時もヴァンはエレナの側にいることを望むだろうか。彼から故郷を奪った戦争の引き金となった、
「エレナ、どうしたの」
いつもの柔らかな声に呼ばれ、こちらに向けられた視線を辿り、眉間に皺が寄っていたことに気づく。そこを拳で軽く擦ってから、エレナは首を振った。
「なんでもない。それよりも帰国後のことだけど……」
意識して別の他愛もない話をする。
妙な心地だ。家族ほどに良く知っているはずのヴァンの姿が、一瞬だけただの顔見知りのように見えた。
そのまま馬車は、首都を囲む深い堀に架かる跳ね橋をがたごとと進み、城門をくぐり抜けて街に入る。人目があるので、いよいよ忍んで外を眺めることすら禁止されたエレナは、振動で身体が軋むのに耐えながら、
やっとのことで停車し扉が開くと、午後の日差しが差し込み、目に痛い。目を慣らしてからヴァンに助けられて下車すると、旅装の
「長旅お疲れ様です」
俊敏な敬礼を受け顔を上げれば、見慣れた黒岩騎士の黒衣と、初めて見る紫色の隊服姿。先に到着していた聖サシャ王国の騎士と、オウレアス王国の
「あなた方も、出迎えご苦労様です」
「お会いできて光栄です。紫波騎士団副団長のリュアンサン・バークと申します。お気軽にリュアンとお呼びください。お疲れでしょうから、さっそくお部屋までご案内いたします」
王宮の造りは、サシャのものと大差ない。元々は同じ国であったのだから、当然のこと。若干の意匠の違いは、外国だからというよりは、この地も含めてサシャ神国であった時代から続く、文化の差によるものであろう。
わずか八十年ほど前に起こった内戦であるオウレア紛争により、今でこそ別の国家となっているが、元はと言えばこの地も旧サシャ神国の一地方だった。
この王宮は、
客室として用意された部屋は適度に広く、オウレアスの象徴色である藍色を基調に統一されていた。華美ではないが、すべてが上質で、北方の堅実な気風を表している。
「素敵なお部屋ですね」
「お気に召されたようで光栄です。短期のご滞在、残念ではありますが、ごゆっくりお過ごしください」
案内役のリュアンがにこやかに言い、壁際に控えたオウレアスの侍女に視線を遣る。
「何かあれば彼女らにお申し付けください。御国のお側仕えの方々に御用でしたら、隣の部屋にいらっしゃいます」
武人らしからぬ柔らかな物腰の騎士に礼を述べる間も、リュアンは微笑みを絶やさない。国民性なのか、どこかヴァンと似た印象を受けた。
「今宵はささやかながら宴を予定しております。お時間になりましたらお迎えに上がりますが、それまでいかがお過ごしになりますか」
「私はこちらで過ごさせてもらいます。彼は外出を」
「かしこまりました。ではごゆっくりと」
とはいえ、身支度には時間がかかる。出来ることならばひと眠りしたいくらいだが、あいにくそのような余裕はなさそうだ。
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