第二幕 

1 騎士の帰還、王の晩餐

 子供の成長とは、なんと早いものだろう。それは単に身体の大きさのことだけではなく、鍛錬した技術の伸び方も比例して速度を上げたようだ。以前はあれほどに苦痛だった神笛しんてきの演奏も、今や言葉を発するのと同じように、いとも自然にこなせる。


 もちろん、身体の成長とともに肺活量が増えたのも要因の一つであるのだが、教育係の司祭にさえ、先代の星の姫セレイリを越えると言わせることができたのは、毎日の努力の賜物だろう。


 時を経ても輝きを失わない銀色の神具に、薄紅に色づく唇が寄せられ、繊細な加減の吐息が筒を鳴らす。細く、形の良い指が旋律に合わせて上下する。練習室内は、軽やかな音楽に満たされた。


 軽く伏せた瞼を縁取る淡い色の睫毛が、緩急ある呼吸に合わせて細動し、開け放した窓から吹き込む風に優しくなびく亜麻色の髪は、陽光を受けて金糸の束のように煌めいた。


 聖なる星の姫セレイリ。星の宮に住まい、王宮の外には滅多に姿を見せないが、一目彼女を見たものは、口を揃えてその神々しい姿を女神の化身と褒め称える。


 とはいえ、毎日顔を合わせていれば次第に慣れてしまうもの。加えて、神の代理人というよりは王女然としたエレナの性格を知る側近は、彼女を女神と表現することはなく、もっぱら「姫様」扱いをするのだった。星のであるのだから、間違ってはいないのだが。


 エレナは一曲奏で終えると一息吐いてから、神笛をピアノの上に無造作に置き、身体ごと振り向いた。


 黄金色の視線を受け止め、いつからそこにいたのか、旅装姿の騎士が柔らかく微笑んだ。


星の姫セレイリの神笛は相変らずお美しい。ですが神具をそのように扱っては、また司祭に叱られますよ」

「やめてよ、ヴァン」


 わざと仰々しく言われ、エレナは少し拗ねた口調で返してみたが、数週間ぶりの星の騎士セレスダの姿に、不覚にも頬がほころぶ。


「お帰りなさい。オウレアスはどうだった?」

「首都はだいぶ落ち着いているみたいだよ。あの様子なら、来月の式典も問題なさそうだ」


 気軽に言って、こちらに歩み寄る。


「それでも用心に越したことはないし、終戦十年の節目だから、反体制派が何かをしでかす可能性もなくはない。これから数か月はいっそう注意しないと」

「大丈夫よ。私には優秀な騎士がいるんだから」


 とばっちりを受けることになる当のは、肩を竦め、感慨深そうに銀の笛を眺めた。


「それにしても、久しぶりに聴いてもやっぱり上達したね。最初に聴いた時は、笛がかわいそうなくらいだったけど」

「それはあなたも同じ。斬るためではなくただ相手を殴るだけの鈍器にされていた剣がかわいそうだったもの」


 思わぬ反論を受けて一瞬言葉に詰まったヴァンと視線が絡み、それからほとんど同時に笑い声が上がる。


「あれからもう七年も経つと思うと、不思議な気分。さっきまで、あなたと初めて会った時のことを思い出してたの」

「僕もだよ。また儀式の年が来るんだと思うと、自然に思い出すよね。……君のがちがちに緊張した月食の儀の演奏とか」

「それは思い出さなくていいわ!」


 頬を紅潮させて叫んだが、ヴァンは変わらず笑みを浮かべている。幼少期より星の騎士セレスダとして四六時中ともに過ごしてきたヴァンにかかれば、姫様の扱いなど慣れたものなのだろう。


 エレナは頬を軽く膨らませながら、ヴァンの旅装を観察する。暗い色合いの布を用いた旅装には、外ではたいてきたとはいえ、土埃の跡が残っている。聖サシャ王国の聖都から、北方オウレアスの首都までは、馬を駆り片道七日はかかる。それだけの移動をこなしてきたばかりだというのに、休みもせずエレナの前に馳せ参じた騎士に、少し申し訳なくなる。


「まあいいわ。疲れたでしょう。今日は他の人に護衛を頼んであるから、あなたはゆっくり休んで」

「お心遣い感謝します、星の姫セレイリ。でも、身体を清めたらまた来るよ。陛下が今宵は晩餐を共にとられるとのことだったから」

「陛下が? でも、今日戻ったばかりなのよ。ヴァンだって休まないと」

「大丈夫」


 この場合の陛下とは、無論この王宮の主、岩の王サレアスだ。王宮の敷地内に星の宮があるため、以前から定期的に王族との交流がある。


「とりあえず、晩餐までは下がって休んで。また夕方に会いましょう」


 ヴァンは主に一礼をして、部屋を辞す。


 翌月に控える成人の儀と、続く日蝕の儀のために属国オウレアス巡視に赴いていたヴァン。離れたのはたったの数週間だが、思えばこれほどの期間顔を合わせなかったことは一度もない。何一つ変わらぬ騎士の姿に安堵する同時に、再会に躍る自身の胸に微かな戸惑いを覚えた。



 星の騎士セレスダは、その生まれや経歴によらず、その任に就いた瞬間より、星の姫セレイリの片翼として扱われる。岩の王サレアスを前にしてすら、星の姫セレイリと同列に並び、神殿の要職として、言葉を交わすことができる。エレナが許されることであれば、大抵のことがヴァンにも許されるのだ。


「王都は統制が及んでいる様子でしたが、昨年話題になった反体制勢力自体は一定数潜伏しているようでした。滞在は最低限の時間に抑えた方が無難でしょう」


 冷菜を口にするエレナの斜め後ろに控えたままヴァンが言うと、長い食卓の角で額に拳を当てて思案していた岩の王サレアスは深く嘆息した後に、やっとフォークを手に取った。続いて、感情の読めぬ視線で騎士を一瞥する。それが、寡黙な王の「続けよ」の合図である。


星の姫セレイリの滞在は民衆に対面する日と、長くてもその前後一日。いえ、可能であれば日帰りだって良いでしょう。先遣隊せんけんたいの滞在はその前後の短期間が良かと存じます」

「そうは言うが」


 王は視線を銀食器に向けたまま、低くごろつく抑揚の少ない声で返した。


「もろもろの準備もある。余とてあれを危険にさらすつもりは毛頭ないが」

「それであれば黒岩騎士団からもう一隊お借りできませんか」

「無論、星の姫セレイリには精鋭をつけるつもりだ」


 一連の流れをポタージュを掬いながら聞いていたエレナは、口を挟みたい衝動を抑えながら、その濃厚な液体を一口含む。普段暮らす星の宮とは料理長が違うため、岩の宮の食事は味覚に新しく、とてもおいしい。もちろん、エレナの好みを知り尽くしたいつもの料理には敵わないのだが。


「ご配慮感謝いたします。いずれにせよ、我々としては最短の予定を組む予定です」


 本当は観光くらいしたいけれど、と心の中で呟いてみたものの、言っても周囲を困らせるだけなので口をつぐむ。王宮からほとんど出たことがないエレナは、幼少の頃には不自由さに反発を覚えたものの、今はもう無理な主張を声高にする年齢でもない。翌月には、成人の儀を経ておおやけに成人するのだし。


 その場にいながら、当事者であるのに一言の発言もないエレナの様子を哀れに思ったのか、向い側に座っていた黒髪の青年が、口元を軽くぬぐって言った。


「まあまあ。以前に比べて世情も落ち着いてきてはいるし、少しくらいエレナに自由をあげてもいい気がするけどね」


 予期せぬ味方の登場に顔を上げると、青年は軽く片目を閉じて微笑んだ。つられてこちらも頬が緩む。一方、過保護な二人は固い表情だ。


「しかしな、イーサン。オウレアスは」


 王は息子の名を呼んで何かを言おうとしてから、エレナを一瞥して口を閉ざす。みなまで言わずとも、何を口にせんとしたのか、一同にはわかっていた。オウレアス王国は、星の姫セレイリを憎んでいる。先の戦争のになったから。


 幼少ゆえ記憶は朧げだが、なんでもエレナの食事に毒が盛られる事件があり、侍従の一人がオウレアスの指示で行ったと自白した。これがきっかけで開戦となったそうだ。幸い、毒物を口にする前に判明したので大事には至らなかったものの、このような暴挙は許されるはずもない。


 次に給仕された白身魚の香草ソース焼きを一切れ口にしたのだが、いよいよ食欲が減退してきた。なにも食事の場で、物騒な話などしなくても良いではないか。その点、エレナを妹のように思ってくれているイーサン王太子は、怜悧れいりさを醸し出す容貌からは予想外なほど気遣いを見せてくれる。


「他国での祭儀の計画はひとまず後にして、国内のことについて話しましょう。そういえばエレナ、ドレスはもうできたのか?」

「はい。侍女長の実家のつてで、良い職人にお会いできたのです。といっても、母が成人の儀で着たものを少し調整するくらいですけれど」

「遠慮せず新しいものを用意すれば良いではないか」


 配慮に欠ける無骨な王の言葉に苦笑しつつ、エレナはもう一切れ魚を切った。


「良いのです。費用がもったいないし、それに母の数少ない遺品ですから」


 聖なる儀式である日蝕の儀とは違い、俗人として行う成人の儀においては、いつもの重苦しい白の貫頭衣かんとういは不要だ。エレナの成人の儀と日蝕の儀が一纏めに議論されているのは、性質が似ているからではなく、たまたま時期が重なるからに他ならない。


 予定では、まず属国であるオウレアスにて略式の日蝕の儀を行い、帰国後、三日かけて国内の重鎮を招き成人の儀を行った後、日蝕が起こる日程に合わせ、国民に向けて儀式を行う。たいそう忙しい月になりそうだ。


「母君……先代の星の姫セレイリか。お会いしたことがあるはずだが、幼かったのであまり記憶にないな。父上は、先代をよくご存じですよね。どのような方でしたか」


 香草ソースを絡め、魚を口に運ぼうとしていた岩の王サレアスの手が止まる。それも一瞬のことで、次の仕草には違和感なく、口内のものを咀嚼し嚥下えんげした後に、王は答えた。


「強い信念を持った、尊敬に値する人物だった」


 亡き母の評価については、誰に聞いてもおおむね同じような当たり障りない回答しか返ってこない。実子であるエレナに対し過敏に気を使っているのであろうか。


「母ともこうして食卓を共にされていたのですよね」

「うむ」

「親しかったのですか。母の成人の儀はどんな様子でした。神殿の祭儀の様子は司祭から聞きますが、それ以外のことは彼らもあまりわからないようで」


 岩の王サレアスはしばしの沈黙の後、珍しく口元を緩めた。しかし結局、質問をはぐらかされてしまう。


「王太子と星の姫セレイリほどには親密ではなかった。少なくとも、二人で宮殿から抜け出して野草を満腹まで食べて帰ってくるような仲ではな」


「父上、いつの話をしているのですか」

「陛下、野草ではありません。野苺です」


 恥ずかしい幼少期の話題を持ち出されて赤面する二人だが、もっぱら堅物と噂される王は、なぜ二人が慌てるのか理解できなかったようで、パンで香草のソースを拭っていた。


 ヴァンしかり、岩の王サレアスしかり、なぜか今日は昔の恥ずかしい出来事ばかり話題に上がる。エレナは密かに嘆息した。

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