9 それぞれの絆、そして真実

「どういうこと」


 泣き腫らした上に拍子抜けしたエレナの顔は、目も当てられない様子に違いない。しかしハーヴェルは意に介した風もなく、答えを拒み首を振るだけだ。これ以上聞いても回答はないだろうし、ハーヴェルを困らせるだけだと判断し、エレナは小さく溜息を吐いた。


「お母さんとお父さんは愛し合っていたの?」


 そうだ、と言えば娘は安心するだろうに、ハーヴェルは口ごもる。すぐに取り繕うように「存じ上げません」と言ったが、嘘が下手な男の表情は硬い。それが全ての答えだった。


「そう」


 小さく呟き、カップを両手で包んでその香りを吸い込む。母は結局、政治の道具にされただけなのだろうか。


 星の姫セレイリが子を産む。これまでであれば、そのような可能性は誰も考えてみなかったことだろう。だがそれも、エアリアが前例を作ることで、権力層の意識は変わる。星の姫セレイリが世襲化することもあるかもしれない。だが、それは自分の代では決して起こらないと、エレナは確信していた。


 本来星の姫セレイリの身体は、神に捧げられることで最期を迎えるべきなのだ。エレナを産み命を落としたがゆえに成し得なかった義務を、母の代わりに娘が忠実に果たさなければいけない。


 母の最期を思い瞑目したエレナにハーヴェルは、案外しっかりとした声で続けた。


「ですが、嫌い合っていた訳ではないでしょう。仲は睦まじかったはず。それに、あなたを身ごもることを望んだのは、エアリア様です」


 驚いて顔を上げると、緑の瞳が真っすぐこちらを見つめていた。


「彼女の覚悟を思い起こせば、そこで命を落とすことすら知っていたのではないかと思うほどでした。ですが彼女は、生きた印……血を分けた我が子をこの世に残すことを望みました。あなたを授かった後のエアリア様は、とても幸せそうでした」

星の姫セレイリの責務を投げ出そうとしたの」

「そうではありません。ただ、心からあなたを望んだのです。それこそが、星の女神セレイアの意思であると仰っていました」


 暖かな寝床、飢えなど無縁の食卓、周囲の尊敬の眼差しと、神の絆で結ばれる星の騎士セレスダ。そのどれもが星の姫セレイリに与えられたものである。しかしそれも神の元に召されるまで。


 実際のところは、彼女たちの「もの」は何一つない。その中でエアリアは、まだ見ぬ未来へと続く血脈を望んだのだった。


 見方を変えれば、神への反抗のようにも感じられる。だなんて、そのような詭弁、母の口から発せられたものとは思いたくもなかった。


 想定外の真実に、言葉を失う。想像の中にしかいない母が急に、完璧ではない、一人の人間の姿として脳裏に現れた。


 真実を伝えればエレナの心中に複雑なものが巣食い始めることは、彼もわかっていただろう。それでもハーヴェルは、彼の仕えた星の姫セレイリの選択を受け入れ、支持し、その忘れ形見に語ったのである。


 黙り込んでしまったエレナの様子をしばらく見守った後、ハーヴェルは頭を掻いた。


「少しお話が過ぎました。しかし、これでもまだ、私があなたを疎ましく思っているのでは、などとはおっしゃいませんね」


 確認の言葉に、エレナは頷く。ハーヴェルが父親のように思えたのはきっと、彼がエアリアの半身であり、同じ望みを共有しているからだ。彼の主が命を賭して産み落とした生命いのちはきっと、それだけで慈しむに足る存在なのだろう。


「ハーヴェル」


 呼びかけると、騎士はこちらを覗き込む。


「ありがとう」


 気恥ずかしさを滲ませた言葉を耳にして、彼はただ静かに微笑んだ。




 時は、光のように過ぎ去った。ハーヴェルが決めた期日は過ぎ、例の悪趣味な贈り物の出どころもわからぬまま、何一つとして手がかりは見つからない。星の宮にも、それを管理をする岩の宮にも、諦めの空気が漂っている。


 約束通り、ハーヴェルを自身の邸宅に帰し、エレナは自室で物思いに耽る。


 ヴァンの生存は絶望的だ。黒岩騎士が捜索をしたところによれば、シャポックラントの地には廃屋しかなく、ヴァンや黒幕の明確な痕跡はなかった。唯一の手がかりと言えるのは、とある半壊した住居の中に、夥しい量の血痕が見つかったこと。それがヴァンのものなのか確認の術はないが、状況から察して、ほとんど間違いないだろう。


 あのヴァンが、敵に斬られるだなんて。この話を聞いた時、最も首を捻ったのはイアンである。


 ヴァンはいつも、相手を仕留める間合いにさえ入らなければ、まるで木の葉のように斬撃を躱す。幼い頃から共に鍛錬をしてきたイアンは、そのことを身をもって理解していたのだ。


 とはいえ、多勢に囲まれてしまえば、彼も人。太刀打ちできない場面もあるのだろうと結論づけられた。


 黒岩騎士の調査隊が報告書を出すと、宮殿は一気に選抜のための準備に動き始める。エレナに直接の打診はないが、イアンやハーヴェルの様子から、騎士団がそれを進めていることは明白だった。


 ハーヴェルが、彼にとっての星の姫セレイリはエアリアだけだと語ったように、エレナにとっての星の騎士セレスダはヴァンだけである。それでも、新たな騎士を選任しなければ、祭儀の際に不都合が生じるのも理解していた。これが役目なのであれば、ただの星の姫セレイリであるエレナには、受け入れるしかない。


星の姫セレイリ


 ぼんやりと窓の外を眺めていると、控えめな侍女の声がした。肩越しに振り向けば、彼女は少し肩を縮めているようだ。言いづらいことがあるのだろう。


「どうしたの」

「陛下が、お呼びです」


 新たな星の騎士セレスダの選抜に関する勅命だろう。とうとう来たか、というのが正直な感想だ。エレナは直ぐに腰を上げた。思いの外軽いその足取りに、侍女は安堵したらしい。


 侍女侍従を引き連れて向かうのは、岩の宮。小雨の降りしきる中庭を横目に回廊を進み、白と金を基調とする星の宮の敷地を抜けると、黒に銀の垂れ幕が壁掛けられた、岩の宮に入る。そのまま、通り慣れた大理石の上を言葉なく歩み、岩の王サレアスの広間に向かった。てっきり謁見室に案内されるものと思っていたが、これはいったいどういうことか。


 重厚な扉の前で侍従が一礼し、室内の王に星の姫セレイリの到着を告げる。いつ見ても重たそうな扉が引かれる。そして目に飛び込んだ光景に、エレナは柄にもなく足が竦んだ。


 驚きに硬直したエレナに、壇上の岩の王サレアスが、やや硬い声音で言う。


「どうした。早く入るが良い」


 その言葉で正気に戻り、膝を折って礼をして、銀色の絨毯を進む。エレナが驚いたのは他でもない。予想だにしない面々を見たからだ。


 岩の王サレアスまで続く灰銀の両側には、国内の重鎮。先月、日蝕の儀に際して一堂に会したばかりである貴族らが、たったのひと月後に聖都に集まっている。胸騒ぎがした。


 エレナはあえて両側には視線を向けず、目の端で観察するに留めて、玉座の前で改めて膝を折る。臣下の最敬礼をしようと、そのまま脚を引いた時、不意に王の右手が上がる。その意味を理解するより前に、王は言った。


「良い。そのように畏まるな」


 言葉の意図が理解できない。広間中に重鎮が集う中で、一介の臣下である星の姫セレイリにだけ、礼を失する行為が許されるというのか。


 エレナは対応に困り、王の横に座る王太子に目を向けた。このひと月、距離感のある態度は変わらず、今日もやや複雑な表情でこちらを見下ろしている。それでも、心根の優しいイーサンはエレナを安心させようとしたのか口元で微笑んで、小さく顎を引いた。


「陛下、これはどのような」

「皆、聞け」


 戸惑うエレナの言葉を遮り、王は声を高らかにし、立ち上がった。上質な漆黒の外衣が翻る。布が風を揺らす音がしんと静まり返った広間に響いた。そして、王は耳を疑う言葉を発したのだ。


「これは、血を分けた我が娘である。ここに、この者を岩の宮の王女として迎える」


 息を吞んだのは、エレナだけだった。臣下たちは口々に、示し合わせたように「王女殿下万歳」などと唱和している。思考が停止してしまい、再度イーサンに目を向ける。彼は黙りこくったまま、瞼を伏せていた。




第三幕 終

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