第9話 草むしり

 朝起きれない。学校に行こうという気力が湧いて来ない。体を起こす気力すらが湧いてこなかった。重い腕を無理やり持ち上げると、手がしびれたみたいに無気力に丸まっていた。

「・・・」

 そんな力の抜けた自分の丸まった手を、ぼーっとした頭で純は見つめた。

 動こうとしない体を無理やりたたき起こして、純はベッドから起き上がった。そして、何かを拒否するように、思い通りに動こうとしない鉛のような自分の体を引きずるようにして学校へと向かった。あの以前、自ら誰よりも早く起きて自主的な朝練へと向かう、あの誰よりも早くにグラウンドにいたやる気満々の自分が信じられなかった。

 何か、何か大事な糸が、今まで張りつめていた大事な心の糸が切れてしまっていた。修復できないほどにそれは完全に切れてしまっていた。

「・・・」

 純の中の何かが、確実に壊れ始めていた。がんばろうと思っても気力が湧かない。違う目標を見つけようとしても、どれもが、ただ虚しい何の魅力もないゴミのようなものとしてしか感じられなかった。

 今まで嚙み合っていた心の歯車が、うまく噛み合わず、うまく回っていなかった。それを、何とか元に戻そうと、純は必死でもがく。しかし、もがけばもがくほど純の心は、無気力に、そして、虚しさへと飲み込まれていった。そして、噛み合わない歯車がさらなるズレを生み、純は、その歪の中で自分を見失い、溺れていった。

 

「ふぅ~」

 今日も執拗な走り込みの練習だった。それがやっと終わった。一年生全員が、ほっと息を吐く。次は、ボールを使った練習だった。みんな意気揚々としてグラウンドに入る。

 日明も久々にボールが触れる。そう思い、他の一年に続いて一緒にグラウンドに勢い込んで入ろうとした。

「日明っ」

 その時だった。そんな日明を、突然楢井が呼び止めた。

「はい」

 日明は、何事かと楢井を見る。

「お前はその辺の草でもむしってろ」

 楢井は、グラウンドの周囲を見ながら、ぞんざいにそう言い放った。

「えっ?」

 日明は、しばし呆然とする。楢井のその今言った言葉が信じられず、頭が混乱する。しかし、楢井の酒太りした脂の溜まり膨らんだ重厚な瞼の下のその細い隙間から覗く目は、確かに意地悪く日明を見つめていた。

「・・・」

 今の日明には、楢井に抵抗する力も、この状況を変える術も何も持っていなかった。日明は、黙ってそれに従った。

 他の部員たちがグラウンドでサッカーボールを蹴る中、一人そのグラウンド周辺の草をむしる日明。ミニゲームでもしているのだろう、ピッチでは、時折楽しそうな歓声が上がる。そちらを見るのも辛く、日明はひたすら草をむしった。最高に惨めだった。これほどの屈辱はなかった。体全体が冷たくなるほどの屈辱を日明は全身で感じていた。

 どれくらい時間が経ったのだろうか、グラウンドでは選手たちの笑い声や、のんびりとした話し声が聞こえ始めた。多分、練習が終わったのだろう。しかし、日明には、なんの指示も、声かけもなかった。勝手にやめるわけにもいかず、日明は一人、そのまま草をむしり続けた。

 そんな日明の背後から、練習の終わった先輩たちの話声が聞こえて来た。それが日明の方に近づいて来る。

「おい、あいつまた来てるぜ」

 そして、日明の少し離れた背後でとまり、そう声がした。皮肉と嘲笑を含んだ言い方だった。周囲の先輩たちもそれに呼応するように反応し、同じようにせせら笑う。

「いつまで来るんだあいつ」

「草むしってるぜ」

「何やってんのあいつ」

 しゃがむ日明の背後で、上から見下すようにして、口々先輩たちが嘲笑うように嫌味を吐く。

「調子こきやがってなぁ」

「まったく」

「ふざけてるよな」

 日明が反発しないことをいいことに、嫌味は続いていく。

「早く死ねよ」

「おいっ、それは直球過ぎるだろ」

 そこで笑いが起こった。

「さすがに言い過ぎだと思うなあ。それは」

 また笑いが起きる。先輩たちは盛り上がる。

「・・・」

 日明は振り向くこともせずに、それに黙って耐えていた。

「よっ」

 すると、足元のボールを、二年の肥後がつま先で持ち上げ、浮かせるようにして蹴った。肥後は受験に失敗し一年遅れて入ったため、年齢は三年生だが、学年はまだ二年だった。そのボールがふわりと、ゆっくり大きく弧を描いて日明の上に落ちていく。そして、それは、ちょうど草むしりをしてしゃがむ日明の頭のてっぺんに見事に当たり、ぽこんと軽妙な音を発して地面にコロコロと転がった。

「ナイスショット」

 そして、先輩たちの間でまた笑いが起こり、また盛り上がる。大盛り上がりだった。

「お前マジ天才」

 ボールを当てた肥後を讃え、先輩たちは大爆笑だった。

「・・・」

 ゆっくりとしたボールで、身体的には別に大したダメージではなかったが、日明の屈辱感は半端なかった。

「・・・」

 しかし、日明は何も言わず、ただその場で耐え、草をむしり続けた。

「ごめんな」

 そんな日明に笑いながら肥後があやまる。わざと、相手のプライドをどこまでも追い詰め、傷つける屈辱的なやり口だった。

「・・・」

 日明はそれでも、ただ黙ってその屈辱に耐えた。

「あんまいじめると、日明くん泣いちゃうぜ」

 二年の酒井がそこにさらに追い打ちをかけるように言った。そして、また笑いが起こる、

「・・・」 

 日明は、ひたすら黙っていた。

「おいっ、そろそろ行こうぜ」

「そうだな」

 いじめにも飽きたのか先輩たちは帰ろうとし始めた。 

「しかし、よく、仲間殺しといて、またサッカー部に来れたよな」

 その去り際、就職組でまだ練習に参加している三年の中川が、ポイっと手軽に爆弾でも投げ落とすように、ぼそりと言った。それが、何とか耐えていた日明の胸をざくりとえぐった。

「うううっ」

 それは、日明にとって一番辛い言葉だった。日明は震え、むしりかけの草を握ったまま動けなくなった。

「・・・」

 日明はその場にしゃがんだまま動けなかった。

 他のどんないじめも嫌がらせも嘲笑も耐えられた。しかし、その言葉は、耐えられなかった。その事実は日明を許すことはなかった。絶対に許すことはなかった。日明が隆史を殺したのだ。その事実は、日明を決して逃すことはなった。

「行こうぜ」

「ああ」

 そんな日明の姿に、十分に傷つけた手ごたえを感じたのか、冷たい視線を残して、先輩たちは去って行った。

「・・・」

 そこには立ち上がれない日明が一人残された。

「・・・」

 日明は、グラウンドの土を思いっきり握りしめたまま、その場で動けず固まっていた。今まで何とか持ちこたえ、耐え続けていた日明のその根底にあった何かがガラガラと崩れていくのを感じた。

「うううっ」

 日明はその場で震えた。地面が割れ、そこに自分が落ちていくような絶望的な感覚に日明は襲われた。

「おいっ」

 そこに背後から声がした。日明が振り返る。楢井だった。

「いつまでやってんだ。もう練習は終わってるぞ」

「・・・」

 冷たい言い方だった。わざと、意図的に声をかけずほったらかしていたのだろう。それが分かる言い方だった。 

 日明は立ち上がり、一人のろのろと他の一年たちの後に遅れてついていくようにして部室へと向かった。その姿は魂の抜けた、生ける屍のようだった。

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