第9話 草むしり

「・・・」

 純の中の何かが、確実に壊れ始めていた。がんばろうと思っても気力が湧かない。違う目標を見つけようとしても、どれもが、ただ虚しいものとしてしか感じなかった。

 今まで嚙み合っていた何かの歯車が、うまく噛み合わず、うまく回っていなかった。それを、何とか元に戻そうと、純は必死でもがく。しかし、もがけばもがくほど純の心は、無気力に、そして、虚しさへと飲み込まれていった。そして、噛み合わない歯車がさらなるズレを生み、純は、その歪の中で溺れていった。

 

「ふぅ~」

 今日も執拗な走り込みの練習だった。それがやっと終わった。一年生全員が、ほっと息を吐く。次は、ボールを使った練習だった。みんな意気揚々としてグラウンドに入る。

 日明も久々にボールが触れる。そう思い、他の一年に続いて一緒にグラウンドに勢い込んで入ろうとした。

「日明っ」

 その時だった。そんな日明を突然楢井が呼び止めた。

「はい」

 日明は、何事かと楢井を見る。

「お前はその辺の草でもむしってろ」

 楢井はぞんざいにそう言い放った。

「・・・」

 日明は、しばし呆然とする。楢井のその今言った言葉が信じられずうまく理解できなかった。しかし、楢井の酒太りした脂の溜まり膨らんだ重厚な瞼の下から覗くその細い目は、確かに意地悪く日明を見つめていた。

「・・・」

 今の日明には、楢井に抵抗する力も、この状況を変える術も何も持っていなかった。日明は、黙ってそれに従った。

 他の部員たちがグラウンドでサッカーボールを蹴る中、一人そのグラウンド周辺の草をむしる日明。ミニゲームでもしているのだろう、ピッチでは、時折楽しそうな歓声が上がる。そちらを見るのも辛く、日明はひたすら草をむしった。最高に惨めだった。これほどの屈辱はなかった。体全体が冷たくなるほどの屈辱を日明は全身で感じていた。

 どれくらい時間が経ったのだろうか、グラウンドでは選手たちの笑い声や、のんびりとした話し声が聞こえ始めた。多分、練習が終わったのだろう。しかし、日明には、なんの指示も、声かけもなかった。勝手にやめるわけにもいかず、日明は一人、草をむしり続けた。

 そんな日明の背後から、練習の終わった先輩たちの話声が聞こえて来た。それが日明の方に近づいて来る。

「おい、あいつまた来てるぜ」

 そして、日明の少し離れた背後で声がした。皮肉と嘲笑を含んだ言い方だった。周囲の先輩たちもそれに呼応するように反応し、同じようにせせら笑う。

「いつまで来るんだあいつ」

「草むしってるぜ」

「惨めだよなぁ」

 しゃがむ日明を上から見下すようにして、口々先輩たちがチクチクと嫌味を言う。

「調子こきやがってなぁ」

「まったく」

「早く死ねよ」

「おいっ、それは直球過ぎるだろ」

 そこで笑いが起こった。

「よっ」

 そして、足元のボールを、受験に失敗し一年遅れて入ったため、年齢は三年生だが、まだ二年の肥後がつま先で持ち上げ、浮かせるようにして蹴った。それがゆっくりと大きく弧を描いて日明の上に落ちていく。そして、それは、ちょうど草むしりをしてしゃがむ日明の頭のてっぺんに当たり、ぽこんと軽妙な音を発して地面にコロコロと転がった。

「ナイスショット」

 そして、先輩たちの間で笑いが起こる。

「お前マジ天才」

 先輩たちは大爆笑だった。

「・・・」

 ゆっくりとしたボールで、身体的には別に大したダメージではなかったが、屈辱感は半端なかった。

「・・・」

 しかし、日明は何もできなかった。ただその場で耐えるしかなかった。

「ごめんな」

 そんな日明に笑いながら肥後があやまる。バカにした言い方だった。

「・・・」

 日明はその場に固まり、ただその屈辱に耐えた。

「あんまいじめると、日明くん泣いちゃうぜ」

 二年の酒井が言った。そして、また笑いが起こる、

「・・・」 

 日明は黙ってただそれに耐えた。 

「よく、仲間殺しといて、またサッカー部に来れたよな」

 そこに、中川が、ポイっと手軽に爆弾でも投げ落とすように、ぼそりと言った。それが、何とか耐えていた日明の胸をざくりとえぐり取った。

「ぐぐぐっ」

 それは、日明にとって一番辛い言葉だった。日明は震え、むしりかけの草を握ったまま動けなくなった。

 打ちのめされた。たったその一言で日明は完全に打ちのめされた。他のどんないじめも嫌がらせも嘲笑も耐えられた。しかし、その言葉は、日明を許すことはなかった。絶対に許すことはなかった。

「・・・」

 日明はその場にしゃがんだまま動けなかった。

「行こうぜ」

「ああ」

 そんな日明に、十分に傷つけた手ごたえを感じたのか、冷たい視線を残して、先輩たちは去って行った。

「・・・」

 そこには立ち上がれない日明が一人残された。もうダメだと思った。このままもう二度と立ち上がれないと思った。ここまで、なんとかいじめにも屈辱にも耐え、やって来たが、もうダメだと思った。日明は、グラウンドの土を思いっきり握りしめた。

「うううっ」

 何とか今まで耐えていた自分の中の何かが崩れていくのを感じた。

「おいっ」

 そこに背後から声がした。日明が振り返ると、楢井だった。

「いつまでやってんだ。もう練習は終わってるぞ」

「・・・」

 冷たい言い方だった。わざと、意図的に声をかけずほったらかしていたのだろう。それが分かる言い方だった。 

 日明は立ち上がり、一人のろのろと他の一年の後に遅れてついていくようにして部室へと向かった。その姿は魂の抜けた、生ける屍のようだった。

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