第5話 サッカー部への復帰
いつもと同じ教室のいつもと同じ席に座っているはずなのに、そこはまったく別の世界の別の場所みたいだった。部活を辞めてから、世界がなんだか急に灰色のツートンカラーのように、純には見えていた。
すべてが虚しかった。ありとあらゆるすべてが虚しかった。勉強も、同級生との会話も、テレビを見ていても、漫画を読んでいても、何かを考えていても、何をしていても、すべてが堪らなく虚しかった。
「なんだこの世界・・」
今までサッカーのことしか考えていなかった自分に気づく。それが今は失われ、もうない。サッカーのない世界が、こんな世界だったことに純は愕然とする。
目の前が、明日が、自分の未来が、急に真っ暗になり何も見えなくなっていた。
「なんなんだこの世界」
自分の人生に、こんな世界が待っているなど純は想像もしていなかった。
闇の中で息をしているようだった。重苦しい闇の中を歩いているようだった。出口のない絶望の闇の中を生きているようだった。 日々、なんてことなかった日常が、突然、まったく別の世界に変わってしまった。それは、もう決して取り戻すことのできない希望を失った、光も何も見えない迷宮の暗闇の中で彷徨い、這い回るような苦悩の世界だった。
学校に復帰したその日の放課後、日明が一か月振りにサッカー部のグラウンドに姿を見せた。その瞬間、すでにほとんどのサッカー部のメンバーが集まり、練習が始まる前の適当にボールを蹴り合っていたのほほんとしたその場の空気が、一瞬で光りの届かない北極の氷の下のように凍りついた。
そして、その空気感だけで精神を病んでしまいそうになるほどの無言の圧力が、日明をビシビシと打ちつけた。先輩たちの顔は鋭く切り立った山々の如く険しくなり、視線は毒矢のように鋭くなった。そして、全員が、日明を睨みつけるように見る。
「申し訳ありませんでした」
日明は、その場にいた全員に向かって大きな声で頭を下げた。その声が静まり返ったグラウンド全体に響き渡る。グラウンド横の道を歩いていた帰宅途中の生徒たちが、その声の大きさに何事かとグラウンドの方に顔を向けるほどだった。
「・・・」
しかし、誰も何も言わない。先輩たちの冷たい視線がさらに増しただけだった。
「本当に申し訳ありませんでした」
それでも日明は頭を下げ続けた。
「・・・」
しかし、その場の空気は凍っていく一方だった。その場のそのいたたまれない空気に、一年生や二年生の弱い立場の部員たちは耐えきれず、みな一様にその光景から目を反らし、顔を伏せる。
「申し訳ありませんでした」
日明はあやまり続ける。
「・・・」
先輩たちは何も言わない。その無言の圧力が余計に恐ろしく残酷だった。
「勝手なお願いですが、サッカーを続けさせてください。お願いします」
そして、日明はその場で地面にしゃがみ込み、土下座した。そして、その刈ったばかりの青々とした丸坊主を地面にこすりつけた。
「お願いします」
額を地面にこすりつけ、日明は懇願した。自分の犯した事故によって、先輩たちが県大会決勝に出場できなくなったことは知っていた。サッカー部の信頼と名誉を大きく傷つけたことも承知していた。自分が部に残ることなどありえないことは分かり過ぎるほど分かっていた。自分がとんでもない無茶苦茶で自分勝手なお願いをしていることも分かっていた。
「お願いします」
しかし、それでも、日明は頭を下げ続けた。日明はどうしても残らなければならなかった。サッカーを続けなければならなかった。隆史の母の言葉があった。隆史の母の思いがあった。隆史の母の許しがあった。
「・・・」
だが、先輩や同級生のこれ以上人を傷つけようのないほどの冷たい沈黙と視線が、頭を下げる日明を容赦なく突き刺す。
「お願いします」
日明は、その丸刈りの頭を地面に強くこすりつけ、土下座し続けた。
怒りと困惑と冷笑といたたまれなさの入り混じった凄まじい空気が、グラウンドを覆っている。
二年生、三年生、特に三年生の先輩たちの表情はむしろ険しさを増していた。それは、怒りを通り越した凄まじい恨みつらみの入り混じった怨念のようだった。自分の実力を鼻にかけた今までの先輩たちに対する日明の舐めた態度、口の利き方、扱い、練習もさぼり、来たかと思えば自分勝手に帰り、我がまま放題。日明のそういった行状に、すでにはらわたの煮えくり返っていた先輩たちは、いまさらといった感じだった。事故を起こす以前の問題だった。そこにさらに今回の事故だった。そして、そのせいで三年生はその青春が終わった。許すわけがない。許せるわけがない。許せる要素が何一つなかった。
怒りを含んだ蔑むような視線が、日明に四方八方から突き刺さった。
「すみませんでした」
そんな中、日明は頭を下げ続ける。痛かった。心を抉られるような痛みだった。罵られた方が、よっぽど楽なほどのその射るような怒りに日明は必死で耐えた。
正直すべてから逃げてしまいたかった。その方が楽だった。そうしたかった。サッカーも辞め、学校も辞め、すべての嫌なことから逃げて、夜の街に逃げ込む。その世界でも十分生きていける自信はあった。でも、日明は、再び学校へ行く道を選んだ。そこには固い決意があった。
「お願いします」
日明は土下座し続けた。しかし、反応は冷ややかだった。どう考えてもそれが当たり前だった。それほど日明の日頃の態度、そして、日明の起こした事故の大きさはかんたんに許されるものではなかった。本来であれば、日明はここに来ていること自体が許されない立場だった。どんなことがあっても決して、日明が許されることはありえなかった。
「お願いします」
しかし、日明は戻らねばならなかった。どうしても戻らねばならなかった。無茶でもなんでも戻らねばならなかった。何が何でも戻らなければならなかった。
「お願いします」
日明は歯を食いしばって、叫び続けた。
「お願いします」
「お願いします」
その時、日明の声に被せるようにして、隣りでそう声がして、日明が慌てて顔を上げて横を見る。マネージャーの美希だった。美希も日明の隣りで頭を下げていた。
「お前・・」
日明は驚き、その横顔を呆然と見つめる。
「コイツはバカだけど、もう一度チャンスを与えてあげてください。コイツはほんとバカですけど、ほんとにほんとにバカですけど、サッカー取ったらバカしか残らないんです。お願いします」
他の部員たちは、そんな美希の突然の態度に驚いていた。
「俺からもお願いします」
そして、さらに声がした。二年の片桐だった。周囲はさらに驚く。
「こいつは色々問題があると思います。大きな事故も起こしました。でも、こうして反省して、頭も丸刈りにして、頭下げてます。やり直すチャンスは与えてやってもいいんじゃないでしょうか。それに才能もあるし、それはみんな認めるところでしょ。もちろん、もっと反省と贖罪は必要ですけど、でも、この才能をつぶすのはもったいないですよ」
「・・・」
日明は片桐を見る。
二年生の片桐は、レギュラーとはいえ、日明の味方をすれば同じように先輩たちに睨まれる危険性があった。三年生の先輩に睨まれれば、部での立場も危うくなる。それでも、片桐は日明の側に立ってくれていた。
「・・・」
美希と片桐の突然の日明に対する味方に、他の部員たちは驚き困惑する。その場の空気が少し変わった。
「こいつは俺が預かることになった」
その時、突然、楢井の声がしてみんなその方を見る。いつの間にか楢井もグラウンドに来ていた。
「まあ、コイツがやったことはみんな知っているだろうが、片桐が言ったみたいに、チャンスは与えてやってほしい。もちろん反省と贖罪がすんでからだが」
「・・・」
全員黙っている。
「俺にそこは任せてくれ」
「・・・」
監督の楢井にそう言われると、誰も何も言えなかった。渋々みんなうなずいた。
「よしっ、じゃあ、練習始めるぞ」
「はい」
そして、いつものように練習が始まった。
「・・・」
日明はとりあえず部に残れることになりホッとした。だが、しかし、なぜ、楢井がこれほど日明をかばってくれるのか不思議だった。さんざん楢井にも噛みつき、我がまま放題をしてきた日明だった。それを許すほど、楢井が寛容な人間とは思えなかった。
「美希・・、お前・・」
立ち上がった日明は美希を見る。しかし、美希は日明の方を見もせずに、何も言わず練習の準備へと行ってしまった。
「片桐さんありがとうございます」
その後、日明はすぐに片桐のところに行き、頭を下げた。
「がんばれよ」
体の大きな片桐は、見下ろすように日明にやさしい言葉をかけた。
「はい」
片桐のやさしさは今の日明に本当にありがたく、深く染み入るようだった。
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