第3話 決意
いつしか、心にもやもやと白い靄のかかったような、漠然とした抑鬱が純の心を覆っていた。無力に漂う死にかけの軟体動物のような心。
ちょっと前まであれほどサッカーに燃え、努力し、がんばっていた自分が嘘みたいだった。
抜け殻のような体を引きづって、茫漠とした砂漠を彷徨っているような虚無感が、鉛の鎧を全身に身に着けているように重くのしかかる。すべてが虚しく、無気力だった。純の中の今まで流れていた何かが止まってしまったみたいだった。
謹慎中の日明は、毎日隆史の家に通った。隆史の家に行くと、日明は毎回、玄関先で土下座し、隆史の母親に謝罪した。しかし、玄関先に出てきた隆史の母親は日明を見ようともしなかった。ただ呆けたように、土下座する日明が見えているのか見えていないのか、虚空を見つめていた。その姿は、以前の元気だった頃とは違い、魂の抜けたまったくの別人のようだった。
「・・・」
日明は隆史の家から帰る道すがら、変わり果てた隆史の母の姿を思い出し、胸をナイフでえぐられたような痛みを感じた。以前の隆史の母の姿を知っているだけによけに辛かった。自分のしでかしてしまったことの重大さと、そして、取り返しのつかなさとを実感した。その痛みを引きずるようにして日明はいつも家へと帰って行った。
日明は隆史の家に行く以外は、毎日自宅に閉じこもり、カーテンも開けない暗い部屋で一人壊れた機械のように一日中力なくうなだれていた。
「隆史・・」
自分が隆史を殺してしまった。自分が殺してしまった・・。考えることは自分を責めるそんな言葉ばかりだった。自分がしてしまったことの大きさと、失ったものの大きさを受けとめきれず、しかし、それは現実で、今日明はそこにいる。その現実に日明は絶望し、その深い泥沼の中に沈んでいった。
「死のう・・」
死んで詫びよう。そんな考えが日明の頭の中をぐるぐる回り、徐々に支配していく。
数日前まで二人の目標である全国高校サッカー出場という夢の一歩手前にいた。二人は夢の絶頂にいた。それが今、無惨に消えた。そして、消えただけでなく、唯一無二の親友の隆史までをも失ってしまった。しかも、それは日明自信の責任だった。それを考えると、日明は堪らない気持ちになった。
「少しは何か食べないと」
心配して、親戚のおじさんおばさんが日明の家にやって来て、そんな日明に声をかける。
「うん・・」
しかし、日明はそれに力なく答えるだけだった。
「もう少ししたら、お父さんお母さんも中国から帰って来るぞ」
おじさんが励ますように言う。
日明の事故のことを聞いて、すぐにでも赴任先から日本に帰りたかった日明の両親だったが、仕事や飛行機の関係でなかなかすぐに帰るわけにいかず、まだ日明の下には帰れていなかった。
「うん・・」
しかし、日明に見えているのは、力なくうなだれる隆史の母親のあの魂の抜けた顔だった。
当たり前だ。自分の大切な息子を殺されたのだ。
「俺が殺したんだ」
俺が・・。
それからも毎日、隆史のうちに通ったが、隆史の母の反応はいつも同じだった――。
「死・・」
それしかない。日明は、そんな考えに憑りつかれるように、常に頭の中で考えるようになっていた。
「死ぬしかない。死んで詫びるしかない」
日明はノイローゼのようにそのことを考え続けた。
それから数日たったある日、日明は突然意を決し、家を出た。日明は歩いた。そして、家の近くの国道の脇に立った。
「・・・」
国道は、交通量も多く、今、この目の前にも、たくさんの車が走っている。日明はうつろな顔でその車の流れを見つめる。
日明は、一歩を踏み出した。そこに大型トラックがやって来る。トラックから激しいクラクションが鳴る。それは、ぶつかりそうなタイミングだった。トラックの巨体が日明に迫る。
だが、日明はそんなことまったく気にする風もなく、その天性の俊敏さでトラックをあざ笑うようかのにそのまま国道を渡って行った。
日明は、国道を挟んで反対側にあるバーバー井上に入って行った。
そして、一時間後、バーバー井上から日明が出てきた。その日明の頭から、あのトレードマークの美しい長髪が消えていた。そこには五分刈りの青々とした丸刈りがあった。
そして、日明はバーバー井上から出ると、その足で隆史のうちに向かって歩き出した。
「・・・」
日明は隆史の家の玄関チャイムを押した。その表情には何かを決意した深い何かがあった。
玄関の開き戸が開き、いつものように隆史の母が顔をのぞかせた。
「申し訳ありませんでした。俺、あの・・」
隆史の母の顔を見た瞬間、日明は頭を下げ、自分の思いを語り始めようとした。
「上がってください」
だが、この日、隆史の母もいつもと違っていた。
「えっ」
日明は驚き顔を上げる。
いつも呆けたようにしていた隆史の母が今日は口を利き、日明を家の中に招き入れた。
「・・・」
日明はそのことに驚き、しばらく呆然と、隆史の母を見た。だが、隆史の母はそのまま奥へと行ってしまう。
「・・・」
日明はしばらくためらった後、隆史の母に従い、家の中に上がった。
葬式の時以来の隆史の家だった。以前通いなれたその家は、やはりあの家だった。それほど時間は経っていないはずなのに、妙な懐かしさを日明は感じる。そこに自分がこういう立場でいることに、日明は寂しさと悲しみを感じた。
「・・・」
日明は、隆史の遺影の掲げられた仏壇の前で、座卓を挟んで隆史の母と向かい合って座った。
「俺、高校辞めます」
まず、日明が切り出した。
「サッカーも辞めます。それで働いて、金稼いで償います。お金でどうこうなるもんじゃないですけど、それしかできないですから」
そして、日明は畳に頭をこすりつけて土下座した。
「そして、死にます。死んで詫びます」
日明は、頭を畳にこすりつけたまま、叫ぶように言った。
「すみませんでした」
そして、日明は、さらに畳に額をこすりつけあやまった。
「すみませんでした。本当にすみませんでした」
日明は何度も何度も全身を震わせてあやまった。
「・・・」
隆史の母はただ黙って、日明のその姿を見つめていた。
「すみませんでした。必ず死にます。金を稼いで償ったら必ず死にます」
日明は必死で頭を下げた。
「生きてください」
「えっ」
隆史の母が突然口を開き、日明は驚き、顔を上げた。
「生きてください。あなたは隆史の分まで生きてください」
隆史の母は、あのいつも呆けた目から覚めたみたいに、凛とした眼差しで日明をしっかりと見つめていた。
「あなたは小さな頃からよくうちに遊びに来ていましたね。三人で一緒にごはんもよく食べましたね。私はあなたが隆史の本当の兄弟のような気がしていました。本当に自分の息子みたいな気がしていたんですよ」
やさしい眼差しだった。
「・・・」
日明は唇を噛み、震えた。
「私はあなたを許します」
「えっ」
日明は再び顔を上げ、隆史の母を見た。隆史の母は、とてもやさしい目をしていた。そこには、微塵の憎しみや怒りも宿ってはいなかった。
「私はあなたを許します」
隆史の母は、真っ赤にしたその目に涙を溜め、日明を見つめていた。その目に宿る決意は、揺るぎのない力がこもっていた。
「そのかわりサッカーを続けてください」
「えっ」
「何があっても続けてください」
「・・・」
日明はあまりのことに何も言えずにいた。
「隆史の分までサッカーを続けてください」
隆史の母の目には、何かを乗り越えた者の、決意の感情が滲んでいた。
「・・・」
日明は言葉もなく、ただその場に固まっていた。
「隆史はサッカーが本当に好きだった。あなたとサッカーをすることをいつも楽しみにしていた。高校だって、もっと上の進学校だって行けたの。担任の先生にもそう勧められた。でも、サッカーがやりたいって・・。多分、あなたと離れたくなかったのね」
日明の拳が力いっぱい握られ、全身が震えた。
「隆史は最近こんなことを言っていたわ。俺高校卒業したら、南米に行くかもしれないって」
「ううううっ」
日明の力いっぱいつぶられた目から大粒の涙が零れ落ちた。それは、日明が隆史に言った言葉だった。
「生きて下さい。隆史の分まで生きて、サッカーを続けて下さい」
日明は、しばらく固まったまま動けなかった。
「はい・・」
そう声を出すのが精一杯だった。
「ありがとうございます」
日明の土下座した手が固く握られ震えた。
「ありがとうございます」
畳にこすりつけた日明の顔は、くしゃくしゃになり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
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