25.国境の看板娘(2)
移動商人と飯屋の馬の周りには、何事かと足を止める人が集まってきている。商人は鼻血を袖で拭いながら上体を起こした。
「なんのことだよ。言いがかりはやめろや、馬の分際で生意気に」
「人間様のくせにうちの飯を食う金もねえのかよ。みんな見ていたんだから下手な嘘つくんじゃねえ。ほら出せよ、代金八十イエマ」
「だから食ってねえって。それに俺ぁ、ここアガラッツから出たことねえもん。ウィンジョウの金なんて持ってねえよ」
「移動商人のくせに何言ってんだ。じゃあ一万六千エアでもいいよ。これで文句ねえ」
飯屋の話が終わらぬうちに商人は飛び起き、体全体でぶつかるように突進した。
飯屋が身を引く。その勢いで革靴を履いている方の脚をひねる。体勢を崩して倒れそうになった彼女は、小麦色の逞しい腕に抱きとめられた。
エオウの腕だ。
そのまま飯屋を庇うように身をかわす。勢いのついていた商人は、もう一度転ぶはめになった。
エオウは飯屋をひょいと抱きかかえて自分の背後に立たせた。
商人と対峙する。もともと馬は人間より大きいが、エオウはその中でもさらに大柄な方だ。もし取っ組み合いをしたら、商人が負ける未来しか見えない、と、誰もがそう思うだろう。
エオウが腕を組んで商人を見下ろす。
「おっちゃんさあ、さっさとお金払った方が自分のためじゃないの。一食分浮かせるために逃げたりこの子に突っかかったりして、俺にぼこぼこにされるの、嫌でしょう」
「なんだてめえは」
「なんだっていいよ。でもさ、俺、結構強いよ。それにそこにいる、なんかぬぼおっとしたお兄さんも、実は国内最高峰の武術の達人なんだから」
そう言いながら俺を指さす。
「ぬぼおっ」は置いておいて、武術云々は盛りすぎだ。姫の鍛錬の相手をするにあたり、姫の師匠から多少の手ほどきを受けた程度に過ぎない。
それすらも、ずっと昔のことだが。
とにかく、「武術の達人」風な構えを取ってみせる。おそらく素人目にはそれっぽく見えているはずだ。
商人はエオウを見、俺を見、周りを見渡した後、舌打ちをして懐に手を入れた。
「食ってねえけど、そんなに言うなら施しをくれてやらあ。ほらよ。釣りはいらねえぜ」
巾着袋から小銭を掴み取り、地面にばら撒く。
そして肩をいからせてずんずん歩き、しばらくすると転がるように逃げ去っていった。
「おととい来やがれ、カスが!」
飯屋が商人の後ろ姿に怒声を投げつける。俺は散らばった小銭を拾い集め、飯屋に渡した。
「釣りはいらない、なんて言っていましたが、百エア足りないみたいです」
「あああ、なんだあいつっ! あ、ありがとうございます。すみませんねえ変なことに巻き込んじゃって」
彼女は俺とエオウに繰り返し頭を下げた。
「いえ、そんな頭を下げていただくようなことは何も……」
「あ、ねえねえ君。この辺で、まあまあ安くて安全な宿と、旨くて量が多い
エオウが俺の話に割って入ってきた。それを受けて飯屋が腕を組んで少し考えるようなそぶりを見せる。
「ごはんならウチで食べていきなよ。客引きみたいであれだけど、ウチのかあちゃんが作る料理は絶品らしいよ。でもなあ。この辺の宿で安全な所は高いんだ。しかも基本、
「ええ。何それえ。ここはアガラッツだろ。なんで自分とこの金が使えないの」
「そんなん知らないよ。それよか、どうするの。ウチで食べる? 定食なら全部一万六千エア前後だよ」
本当は宿を先に決めたかったが、これも縁だろう。俺たちは彼女の飯屋に向かった。
「馬のおじちゃんさあ、喧嘩強いの」
「え、わかんない。取っ組み合いみたいなの、したことないし」
「へえ。そんなら逆に凄いじゃん、さっきのやりとり。度胸あるね」
「度胸なら、このぬぼおっとしたお兄さんの方があるよ」
「なあエオウ。もしかして、その『ぬぼおっ』っていうのを言いたいだけなんじゃないの」
俺やエオウと話している間、飯屋はずっとにこにこしていた。先ほどの気性の粗さはすっかりなりを潜めている。
よく見ると、第一印象よりさらに若い。まだ三歳になっていないのではないか。
しばらく歩くと彼女の飯屋に着いた。
大通りに面してはいるものの、小規模でかなり古い。中は数人が囲めるテーブルが四つあり、そのうちの三つは既に埋まっていた。
「かあちゃん、ただいまあ。お客さん来たよお」
彼女が声を掛けると、仕切りの向こうから小柄な年配の女性が顔を出した。
「かあちゃん」と呼んでいたが、人間だ。
飯屋は俺たちの方に向き直り、腰に手を当てて微笑んだ。
「いらっしゃい。いっぱい食べてね。あ、そうだ。あたしはエヴァ。この飯屋の看板娘だよっ」
氷華の姫に焔の果実を 玖珂李奈 @mami_y
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