第5話 出藍グループ総理事長

 その日、2年生となり生徒会長に選出されたばかりの蒼未麗奈は、憂鬱そうに私立出藍大学院内にある総理事長室に向かっていた。送迎のクルマから降りて玄関を入り、廊下の1番奥の部屋までの距離がとてつもなく長く思えた。

 総理事長である祖母と麗奈との関係は、良好である。だがそれは家での祖母と孫娘での関係であった。

 わざわざ、大学院内にある総理事長室に呼び出されたのも初めてだし、出藍グループ総理事長と出藍学院中等部の生徒会長としての立場での会見も初めての経験である。

 祖母からどんな話が出て来るか、検討もつかない麗奈は気が気ではなかった。

 麗奈はふと、

「こんなに動揺しているわたくしを見たら、アイツはどんな顔をしてからかって来るんでしょうね」

と考えた。

 アイツの愉悦に満ちた顔を思い浮かべただけで、麗奈は自分の動揺してた心が、半ば強制的に落ち着いて行くのを感じる事が出来た。

 コンコンと総理事長室の扉をノックすると、扉を開け入室する。

「失礼致します。おばあさま、総理事長室にお招き頂きありがとうございます」

 麗奈の祖母でもある、出藍グループ総理事長の蒼未那智そうみなちは総理事長室の奥にある重厚な机から立ち上がると、老眼用の眼鏡を外しながら、

「麗奈ちゃん、ダメよ~!そんな堅苦しい挨拶。おばあちゃんの寿命縮めるつもり。あら?それが目的ならアリねこれ」

「なに言ってるの、おばあさま。わざわざ総理事長室に呼ばれたから、それっぽくしてみたんじゃない」

 麗奈がいつもの口調に戻して答える。

「あらあら、誤解させちゃった?ゴメンね~、でも家や中等部の校舎ではちょっと話しづらい内容なのよ」

「そういう事なら、ホッとしたわ」

 麗奈がため息をつきながら、総理事長室の中央に置かれている高級なソファーに腰を下ろした。

「どうかしら、お婿さん候補の選定は順調?」

 那智が麗奈の隣に座って、手を握りつつ聞く。

「それなりにね、洞察力と観察力に加えて記憶力が並外れているわ」

「あら、それだとあなたのお父さんの様な忠実な犬って感じじゃないわね」

「そうね、どっちかって言うと猫かもね」

 麗奈がその端正な顔に、猫キングだものねと苦笑いを浮かべた。

「猫ちゃんか~、あなたも難しい人を婿候補に選んだわね。大人しく言うこと聞くかしら?」

 那智が、孫娘の流れる様な綺麗な黒髪を撫でながら囁く。

「それは、わたくしも蒼未家の女ですから」

「そうね、とても頼もしいわ。ああ、そうそう肝心の話をしなくちゃならないわね」


 そう言いながら那智は、テーブルの上に置かれていたティーポットからカップへと紅茶を注ぐと、麗奈と自分の前に置いた。

「ありがとう、おばあさま。それでお母様にではなく、わたくしにお話という事は、出藍学院中等部の生徒以外の問題なのでしょうか?」

「麗奈ちゃん、理解が早くて助かるわ」

「いいえ」

 そう言いながら麗奈は紅茶のカップを口許に運ぶ。

「気になっているのは、去年出藍学院中等部に赴任した鷹峯たかみね先生に関してなの」

 那智も紅茶を1口飲んでから、話を始めた。

「鷹峯先生のお母さん、溝口潤子みぞぐちじゅんこさんはワタシの教え子なのね。溝口は旧姓だったわ、今は鷹峯潤子たかみねじゅんこさんね。つい、教え子だと昔の呼び方になってしまうわ」

 那智はその当時を思い浮かべつつ、笑った。

「わたくしも教わってるわ。とても優秀な先生で、生徒への面倒見もいいから人気があるわね」

 麗奈は、あの凛とした鷹峯先生のどこに問題があるのだろうかと思考を巡らす。

「少し前に潤子ちゃんから国際電話が来てね。赴任先のニューヨークから出張で日本に帰れるから、自宅に行くわねって娘の凛子先生に連絡入れたんだって」

 麗奈はゆっくりと紅茶のカップを、ソーサーの上に置いた。

「そうしたら、凛子先生が家は教材や授業資料で散らかっているから、お母さんの泊まるホテルで会いましょうって言われたらしいのよ」

 麗奈はそれのどこに問題があるのだろうかと、悩んだ。

「娘が独りでどんな生活をしているか、心配している親にとっては堪らないでしょう?」

 那智が麗奈の手を握りしめて来た。一方、麗奈はマジですか!と思った。

「と言うことは、もしかして凛子先生の私生活の様子を確認して欲しいって事なのかしら?」

「麗奈ちゃん、頼める」

 麗奈は頭を抱えたくなった。

 子離れ出来ない母親と、面倒見の良すぎる恩師がタッグを組むと、こんな面倒くさい事態を引き起こすのかと思った。

 しかも、この状態の祖母のお願いはお願いにあらず。ほぼ命令であることは、長い付き合いの中で麗奈は嫌と言うほど思い知らされて来た。

 この微妙なニュアンスを全く読まない天然な麗奈の母親であれば、笑いながらシャットダウンするんだろうなと、麗奈は母の顔を思い浮かべながら羨ましく思った。

「わかりました。でも凛子先生のプライベートな部分に立ち入る事になるので、少し時間がかかると思いますわ。」

 それを聞くと那智は手を叩いて喜ぶと、

「麗奈ちゃんだったら、そう言ってくれると思っていたわ。凛子先生の住んでるマンションは、学院で管理している物件だから何の問題もないわ。はい、これ凛子先生の部屋の合鍵ね」

 マンションの部屋の合鍵を渡された麗奈は、開いた口が塞がらなかった。

 なんでこの人は明晰な学院経営が出来るのに、一旦身内が絡むと、こんな非常識な振る舞いになってしまうのだろうと嘆いた。

「これで潤子ちゃんに良い返事ができるわ。あ、潤子ちゃんは1週間後に日本に帰って来るから、それまでにヨロシクね」

 麗奈は祖母に対して、油断していた自分が許せなくなった。

 だがそんな感情はおくびにも出さず、

「おばあさま、任せて下さい。凛子先生に何も問題ないことをすぐに確認して、報告致しますわね」

「ヨロシクね、麗奈ちゃん」

 祖母と孫娘はそう言い合うと、総理事長室には2人の甲高い笑い声がしばらく響き渡る。

 それは面倒事をうまく押し付けた満足げな笑いと、押し付けられてヤケクソになった笑いが混じりあったものであった。

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