第15話

 ◇◇◇


 服部が水を取りに行った。急に三人も人を連れてきたときはこれ以上荷物を増やすなんてどういうつもり、と思ったがなんでもあの三人の中の一人は拳銃を保持している警察らしい。

 それならなにかあったときに助けてくれそうだと判断してまあいいかと仲間に加わることを許してあげることにした。


「おい、根暗くんってばなに見てんの? きもいんだけど」

「みっ、見てない、です」


 腰より高い位置にあるボウリング場の受付カウンターに腰掛けて足を組んでいると、平井と目が合って睨みつける。すると平井は簡単に目を逸らしてボウリングの球が出てくる装置の隣に、真里亜から身を隠すように逃げ込んでしまった。


「これだから気の弱い男は……ほんっとイライラする」


 真里亜は昔から気の弱い人間がきらいだった。というよりも、自分以外の人間がきらいだった。

 自分以外の人間はみんな馬鹿だ。とくに男はもっと馬鹿。真里亜が少し甘えた声を出せば、大体の男は言うことを聞いた。

 体を売れば気持ちの悪いおじさんも、嬉しそうに大金を真里亜に手渡した。また会おうねなんて気持ち悪いことを言ってくる姿を見て、ああやっぱり男って本当に馬鹿だなと思いながら笑顔を返したのは一度や二度のことではない。


 すべて自分の思う通りにいかないと気が済まない。そんな横暴な性格に育ったのは誰のせいだっただろうか。


「なんてどうでもいいけど」


 父親は好きじゃない。母親も好きではない。真里亜にとって、自分以外の人間は役に立つか立たないかの違いでしかない。

 この意味のわからないデスゲームに参加させられて出会った服部は役に立つ男だ。強面で裏社会に通じているのは後々別れるときに面倒くさそうではあるが、まずはやはり生き残ることを優先しなければならない。

 そう考えるとちょっと体を売っただけで真里亜に夢中になった服部は利用価値が高くて扱いやすい。

 それに比べて地味な風貌をした黒髪の平井は気が弱くてなんの役にも立たない。もしなにかあったときに囮にするくらいにしか利用価値を感じなかった。


「キッモ」


 死んでくれたらいいのに。真里亜は平井のかすかに覗く毛先を見つめてそう思った。

 気の弱い人間が追い詰められて苦悶の表情を浮かべながら死ぬゆくさまはなかなかにおもしろくはある。しかしそれ以上になよなよとした自信なさ気な動きが真里亜の苛立ちを増加させる。


「あたしトイレ行ってくる。ついてくんなよ」

「行きません」


 平井は見た目の通り真面目な性格なのだろう。しかもおそらく、いや高確率で童貞だ。

 そんな人間が隙をみて襲ってくる勇気を持っているはずがないとは思ってはいるが、いちおう念を押してからカウンターを降りるとトイレに向かう。


 体を売るとしても相手は選ぶのが石里真里亜という女だった。

 ボウリングをするエリアを抜け、稼働していない自動販売機の設置された休憩スペースを横目に女子トイレの中に入る。


 そこには――赤、赤、赤。気が狂いそうな赤。

 かつてはそれなりに活気があったであろうボウリング場のトイレの壁は一面が鮮やかな赤色で染められていた。


「何度来ても思うけど……きたなっ」


 口紅よりも鮮やかなその色の壁紙は、よく見ると端の方は剥がれ落ちて下の木材がさらけ出ていて、その木も湿気を吸っていてカビが生えている。

 不衛生な環境で、しかもここのトイレは水道が通っていない。そのため前回排泄した尿が残っていてひどい臭いを放っていた。


「こんな空間、気が狂うっての」


 今は廃墟とはいえ、昔は誰かが遊んでいたはずの空間なのにどうしてこうも気が狂いそうな色で壁を塗りたくったのだろうか。

 真っ赤なのは口紅だけでじゅうぶんだ。

 少しでもはやくこの空間から抜け出したくて用を済ませると早々にトイレから出る。もちろん水道が通じていないここでは手も洗えないのでペットボトルの水で手を洗った。


「あ? なに?」

「な、なんでもないです」


 どばどばと水で手を洗っていると平井がこちらを見ていた。睨み返せばすぐに顔を逸らしたが、貴重な水を、とでも言いたげな顔をしていたのを真里亜は見逃さなかった。

 しかし気にすることなく手を洗う。そしてポーチからコンパクトミラーを取り出すとファンデーションを塗り直す。

 化粧ポーチを入れていたスクールバッグ自体は服部に渡してしまったのでここにはない。

 よれ始めていた化粧を直して数回瞬きする。


「ん、やっぱあたしってかわいいわ」


 この世にはモデルや女優、それ以外の一般人にも容姿の整った人間はいる。それこそ腐るほどいるだろう。

 しかしそれでも真里亜は自分のことをモデルたちに引けを取らないくらいかわいいと思っているし、スタイルも抜群だと思っている。だから花に虫が集まるように、男が寄ってたかってくるのもしかたがないことなのだ。


 ――ぐしゃ。


「あ」


 トイレ終わりの手を洗う用に、と少し離れたところに置いておいたペットボトルが音を立てて床に転がり落ちる。

 年季の入ったペットボトルは簡単に萎れて潰れ、緩んだキャップから水が滲むように漏れ出てくる。


「……」


 その光景を見て思い出すのは一年前の出来事。駅のホームで人身事故を目の当たりにしたときのことだった。

 あのときもぐしゃりと、なんと表現すればいいか難しい人体の潰れた音と、割れた頭部から血がじわじわと滲み出ていたのを覚えている。

 本来なら真里亜より少し背の高い中年男性は線路の上で横たわり、ホームに立つ真里亜のことを虚ろな瞳で見上げていた。

 ふざけるなと言っているようにも見えたが、真相はわからない。ただ真里亜がそのとき思ったのは、こんなに簡単に人は死ぬのか。という恐怖心でもなんでもない純粋な感想だった。



「この人、あたしのお尻触った!」

「なっ、さ、触ってない! 触ってないぞ!」


 ことの始まりはとても些細なことだった。

 その日の真里亜は妙に苛立っていて、駅の改札を通ろうとしたとき、目の前にいた男性が残高不足で立ち止まった。そのせいで真里亜も一度立ち止まらなければならなかった。

 それだけ。たったそれだけの理由で真里亜はその男性に痴漢の冤罪をでっち上げた。

 平日の駅のホームは混雑している。真里亜の後ろにたまたま並んでしまった男性を痴漢の冤罪で責め立てるのはそう難しいことではなかった。


 ホームは人が多くて混んでいるが、みんなの視線は各々の手元のスマホにあった。だから誰も真里亜が痴漢に遭っているところを目撃しておらず、男性が痴漢をしたという目撃証言はなかったが、若い女性の真里亜の声だけが周囲の人間に信じられて、中年男性の言葉には誰も耳を貸さなかった。

 騒ぎを聞いて駆けつけた駅員でさえも一方的に真里亜の言葉を信じて男性を責め立てた。

 ホームを行き交う人々が蔑みの視線を男性に向ける。


 あたしの進行を邪魔したから悪いのよ、と真里亜は心の中で思いながら、周囲にいる大人たち全員が自分の言うことだけを信じている状況に愉悦感を感じていた。

 男性は何度も触っていないと容疑を否認する。それでも駅員は男性を事務所に連れて行こうとした。行き交う人々の目。男性はそれに耐えられなくなったのか、突如ホームを飛び降りると反対側のホームがある方に走って行った。


「俺はなにもやってな」


 それが男性の最後の言葉だった。

 甲高い汽笛の音が響き、続いてぐしゃりという音と共に視界に赤い血肉が飛び跳ねる。

 駅のホームは騒然とした。先程まで男性を事務所に連れて行こうとしていた駅員は大声をあげて事態を落ち着かせようとして、真里亜の周囲にいた女性たちはショッキングな光景に悲鳴を上げた。

 男性たちも悲鳴をあげ、中にはショックのあまりか吐いている人もいた。


「こんくらいで死ぬとかありえね」


 みんな一様に慌てたり顔を青ざめさせている中、真里亜だけが静かにそうつぶやいた。

 真里亜は人に冤罪を着せるばかりか死に追いやってもなお、罪悪感を抱くことはなかったのだ。

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