こどくなみんな

西條セン

第一章 蹂躙

第1話

 頬に当たる冷たい感触。雑踏の中にいるような人々の囁き声が鼓膜を通った。

 なにも見えない暗闇の中、光川みつかわ成大せいたは自分が横になっていることに気がついて瞼を上げた。

 先程まで閉じられていた瞳に明かりが差し込み、眩しさで思わず目を細める。数回瞬きを繰り返し、立ち上がってみると徐々に周囲の状況が目に入る。


 灰色の壁に、同じく灰色の床。床は暖房の類いは入っていないのだろう、ひんやりとしておりカーペットもひかれていないので硬かった。

 成大も見慣れぬこの部屋には家具の類いは見当たらず、この質素な作りは学校の体育館のようにも感じるが、体育館にしてはステージがない。前方らしき周囲の人々が見上げる方角には大きめの液晶モニターが一つ、壁に貼り付けられているだけだ。

 場違い感もはだはだしい大型液晶モニターにはなにも映っておらず、暗闇のままだ。それを数十人の人間が見上げて首を傾げている。


「あ、の……ここは?」


 ここが来たことも見たこともない、モニター以外なにもない大きな空間ということだけを理解した成大は隣に立っていた男性に声をかけた。

 百八十センチはありそうな身長に、大柄ではないが華奢でもない肉体をした男性はモニターを見つめていたが、成大に声をかけられてこちらに顔を向けると、


「目が覚めたか。それはよかった。だが悪い、ここがどこかは俺にもわからないんだ」


 神妙な顔つきのまま、淡々とそう告げた。


「そう、ですか」


 この男性が嘘を言っている、というわけではなさそうだ。

 成大の周囲にいる人たち全員が訳がわからないという顔で周囲を見渡したり、怯えた表情でしゃがみ込んでいた。誰もこの場所や、ここにいる理由などが理解できていないらしい。

 成大はポケットの中を弄ってみるが、スマホの類いは見つからない。周辺を軽く見てみるが普段愛用しているトートバッグも無くなっていた。


「クソッ! 開かねぇ!」


 成大がなぜ自分がこんなところにいるのか昨日のことを思い出そうとした時、背後から大声が響いて振り返った。

 成大が寝かされていたのはどうやら部屋の前の方だったらしく、成大の背後には数十人をゆうに超える、百人以上が困惑した顔で立っていた。

 その人混みの向こうには扉が見える。

 成大と隣にいた男性が扉の方に駆け寄ると、そこには金髪のがらの悪そうな制服を着崩した高校生くらいの男性が扉を押したり引いたりしていた。

 周囲の人も手を貸すが、本来なら扉にあるはずの取っ手らしきものが見当たらず、だいぶ苦戦しているようだ。

 金髪の青年は不機嫌そうに舌打ちをして、疲れたのか扉の前を離れて座り込んだ。

 その代わりにとがたいのいい男性や力の強そうな男性が扉を開けようとするが、高さ三メートル、幅四メートルはありそうな大きな金属でできた扉は一向に開く気配がない。


「お、重てぇ……」


 数十人がかりで同時に扉を押しても開かない。疲労で次々と扉の前を離れては硬い床に座り込んでいった。

 力自慢ぽさそうな男性ですら開くことができないのなら、平均的な体格の成大には何日かけても開けることはできないだろう。

 成大は自らの力の無さに自覚があったので扉を開けるのには参加せず、少し後ろで扉が開くのを待った。

 大型モニターがひとつしかないこの大きな部屋の、出入り口になりそうな場所はこの扉しかない。ここは小窓どころか窓が一つもないのだ。モニターと扉を除いて、そこにあるのは一面灰色の世界。


「チクショー! どうなってんだよ、ここは! 誰か、誰かここから出してくれぇ!」


 男性が大声をあげて暴れ出す。おそらくこの灰色の世界に、扉が開かないという事実が重なって気が狂い始めたのだろう。

 男性以外にも、あちこちで奇声を上げた人や小さな乱闘のような騒ぎを起こし始める人が増えてきた。


「困ったな……」


 目を覚ましたとき成大の隣にいた男性は扉の様子を見ていたが、部屋の中の異常に気がつくと眉を顰めた。

 発狂し始めた人々を見つめるその視線は、眼光が鋭いからか睨みつけているようにも見える。


「いやぁ、ここから出して!」

「助けてくれぇ!」

「いやだいやだいやだ」


 まるで感染していくように、発狂する人の数が増えていく。

 なんとか正気を保っている人たちが発狂した人々を諌めるが、それでも奇声をあげる人の数は増えて泣き出す者も多い。

 下は中学生程度、上は八十代程度の後期高齢者の姿もある。男女の偏りはやや男性が多く感じるが、老若男女さまざまだ。

 この部屋にいる人間にこれといった共通点は感じず、互いが知り合い同士というわけでもない。周囲は知らない人たちで知らない部屋に閉じ込められている。これはたしかに気が狂ってもおかしくない状況だった。


「おい、るっせぇぞ! ギャーギャー喚くんじゃねぇ!」


 先程まで扉の前にいた金髪の青年が怒鳴り声をあげるが周囲は一向に静かにならない。

 泣きじゃくる人に奇声をあげる人、中には宥めようとしてくれた人に暴力を振るい始めた人もいる。


「やめろ」


 恐怖心に飲み込まれて周囲の人間に殴り掛かろうとする男性を、成大の隣にいたはずの男性が止めた。見事な背負い投げだった。


「あー! ああー! あー!」


 背負い投げされた男性は随分と錯乱状態らしく、まともな言葉が出てこない。ただ奇声をあげて床の上で暴れ回っている。


「落ち着け、大丈夫だ。俺がなんとかしてみせる」


 周囲の人に襲いかかる様子は無くなったものの、床の上を子供が駄々をこねるように暴れる男性に、しゃがみ込むとそっと声をかけて立ち上がった。


「きみたちも大丈夫だ。俺がこの部屋から脱出できるようになんとかしてみせる。これでも俺は警察署の捜査一課に所属している警察官だ。きみたちを守ると約束しよう」


 どうやら成大がこの部屋で初めて声をかけた男性は警察官だったようで、周囲の人たちもその言葉を聞いて多少の落ち着きを取り戻し始めていた。


「よかった、警察の人がいたんだ!」

「これで助かる!」

「チッ、ならさっさとなんとかしろよサツごときが」


 安堵の表情を浮かべる人に、ほっと息を吐く人。そして不満げに舌打ちを打つ人。

 周囲の人たちの反応はさまざまだが、男性が警察だと知って彼のそばを離れた人が数人いたことが少し引っかかった。


「きみも大丈夫か?」

「えっ? ああ、はい。俺はまだ発狂しそうとかそういうのは大丈夫です」

「そうか、それはよかった。俺は飯島いいじまけん。きみは?」

「光川成大です」


 警察官の男性は成大に近づくと声をかけてきた。

 名前を名乗ったので、成大も名乗り返す。


「光川くんか。申し訳ないが周辺で暴れ回っている人を抑えるのを手伝ってくれないか?」

「はぁ、まあべつにいいですけど」


 成大は飯島と違ってとくに鍛えているというわけではないので、先程の飯島のような背負い投げを披露することはできないだろう。しかし声をかけるくらいならできる。

 本当は誰が発狂しようとどうでもよかったが、あまり騒がしいのも面倒なので飯島の協力の申し出を受けることにした。


「ありがとう、じゃあまずはあそこの男性を……」

「おはよう、人殺しの諸君!」


 飯島がべつのところへ移動しようとした時、急に部屋中に子供の声が響き渡った。

 とっさに声のした方に振り返る。声の出どころはどうやら大型の液晶モニターらしい。

 ずっと暗かったモニターは電源が入り、声も聞こえる。なんだ、だの誰だだの、至極真っ当な疑問の声をあげる人が多かった。


「ごめんね、ちょっと寝坊しちゃった」


 そう言って頭――というより被り物を掻いた、モニター越しの人間の声は若い。青年、いや少年といった方が正しいだろう。


「学校に初日から遅刻しちゃった気分だよ」


 学校という単語。そしてモニターに映し出されたその体の小ささと声の若さから、やはり彼は少年くらいの年齢のようだ。

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