第10話
◇◇◇
冨山和沙という女は昔から優柔不断なところがあった。
中学生のとき、仲良しグループがクラスメイトの悪口を言っていた。同意を求められた和沙は流されるように、思ってもいない悪口を肯定した。
大学生に上がったとき、飲めもしない酒を断れずに薦められるまま飲んで体調を崩した。
吐き気が止まらず、悪寒まで走り出したときは二日酔いではなく風邪を引いたのではないか、とそう疑ったほどだ。
大学を卒業すると、内定を貰った企業に入社した。
そこでも流されるように仕事をこなし、雑用ばかりを押し付けられていやな思いをしたが、舞い込んでくる仕事を蹴る勇気など持ち合わせていなかった。
もし、自分がこの仕事をいやだと言ったら嫌われてしまうだろうか。もしかしたら嫌がらせや陰口を言われてしまうかもしれない。そう思うと本当はやりたくない業務内容でも断れなかった。
でも、だって。みんな忙しいから、しかたがない。そう自分に言い訳をしては他人の言葉を否定する勇気がない自分を何度も何度も肯定した。
和沙の運命が変わった一度目の出来事。それはいつものように通常業務の間に押し付けられた給仕の仕事がきっかけだった。
なんでもお得意の取引先の人が来社するので少し高級な茶菓子を用意しておけ、と上司に言われて和沙は言われるがまま、昼食の時間を犠牲にして有名店の行列に並んだ。
そうして和沙の昼休憩を犠牲にした茶菓子を取引先の座る席の前に置いた。
四十代くらいの男性と、和沙と同じくらいの若い男性の二人組だった。
二人は和沙の用意した茶菓子を口にすると満足そうに笑い、和沙の上司と会談を始めた。
このままここにいても邪魔になるだけ。そう判断した和沙はおとなしく部屋を出ると通常業務に戻った。
「これもよろしく」
「えっ、でももう上がりの……はい、頑張ります」
定時を超えるのはいつものこと。それでも今日は早めに帰れそうだった。しかし帰宅しようとした途端、見計らっていたかのように先輩に新しい仕事を押し付けられた。
断る勇気のない和沙は案の定、先輩に言い返すことができず渋々その仕事を受け継ぎ、和沙に仕事を押し付けた先輩はルンルン顔で職場を後にした。どうせ彼氏とディナーにでも行くのだろう。
自分は誰かに仕事を頼まれると断れない、気が弱い人間だ。そんなことは和沙本人が一番理解していた。しかし、周囲の人間も和沙の気の弱さをじゅうぶんに理解していた。
いいように使われている。そうわかっても、和沙は言い返さない。面倒な仕事を押し付けるには格好のいい
和沙は人付き合いもうまくいっていない会社などはやく辞めてしまいたいと思いながらも、親に心配をかけないように、生きるために、心がずたぼろになりながらも働き続けた。
そうした日々を繰り返して数ヶ月。いつも通勤に利用している駅のホームでどこかで見たことのある顔と出会った。
「あ!」
男性も和沙の顔に覚えがあったようで、一言声を上げると人懐っこい笑顔を浮かべながら和沙の元に走ってきた。
「この前……いや、だいぶ前に会いましたよね? 俺、じゃないや、僕のこと覚えてますか?」
「あっ、えっと、は、はい」
先程男性が見せた人懐っこい笑顔で誰かを思い出した。彼は勤め先の会社のお得意の取引先の人だった。
和沙が用意した茶菓子をおいしいと言って食べたときに見せた笑顔と同じだったので、なんとか思い出すことができてホッとした。
もし男性のことを忘れていてどちら様ですかなど尋ねたりしたら、良くしてやった会社の人間が取引先の人間の顔を覚えていなかったという話が会社まで回ってきて、お得意さんの顔くらい覚えておけ、と上司にそうきつく叱られることくらいやすやすと想像できた。
「わっ、本当ですか? 嬉しいなぁ。僕は綺麗な女性だなって思って覚えてたんですけど……これ、覚えてもらってなかったら僕、不審者扱いされてましたよね」
ハハッと軽やかに笑う男性に和沙は戸惑った。
彼からは悪意を感じない。気の弱い和沙を利用してやろうという雰囲気を漂わせていなかった。そんな人は稀有で、しかも仕事関係の人とプライベートで会ったのは初めてだったのでどうすればいいのか対応に困った。
「あの、もし夕食がまだだったら一緒に食べに行きませんか? 友人が経営してる店なんですけど、そこのパスタがすごくおいしくて。あっ、べつにやましい気持ちがあるとかそんなことはなくてですね!」
困惑する和沙を他所に、男性は顔を赤くさせながら顔の前で手を振った。
「いやならべつにいいんですけど! もし、もしよかったら!」
「は、はぁ」
いつもの流され方だった。
勢いに負けて、和沙は男性とディナーをともにした。
仕事の話をされたらどうしようと心配する和沙を他所に、男性は仕事に関係のない話ばかりしていた。
この前友人と釣りに行ったときに間違えてタコを釣り上げてしまった話とか、買い物に行こうとして財布やスマホの類いをすべて忘れて行ったとか。どうでもいいような、明日には忘れてしまいそうな雑談の中の雑談。
人によっては退屈に、むしろ暇すぎて苦痛に感じてしまうかもしれない。しかし和沙は仕事や人間関係がうまくいっていなかったこともあり、こんな明日には忘れるくらいの、しょうもない話を聞くのが楽しい、とそう思った。
なにより男性が和沙を楽しませようと時折和沙の顔色を伺っているあたり、本当に仕事とか関係なく自分と食事をしたかったんだなと察せられて嬉しかった。
食事が終わるとその男性と連絡先を交換し、一年も経てば交際関係にまで発展した。
そして付き合って二年が経った頃、彼からプロポーズをされて和沙は結婚した。
優柔不断で、気が弱くて、人に利用されるばかりだった人生。しかしその暗い人生に、夫が光を与えてくれた。
結婚した年には子供も授かり、仕事も辞めて夫の収入に支えられながら専業主婦として生きる人生はそこまで悪くなかった。
もちろん言うことを聞いてくれない子供の相手は大変だ。片付けたと思ったおもちゃは気がつけばまた床中にばら撒かれていたり、壁にクレヨンで落書きされたり。
けれど、愛する子供と愛する夫の三人で過ごす日々は今までの流されるだけの人生に比べると何倍、何十倍も楽しくて、なにより充実していた。
この幸せな日常が永遠に続けばいいのに。そんな和沙の思いは虚しく、いとも簡単に幸せな日常は崩れていった。
近所のスーパーへ買い物に行くために車を運転していた和沙が交通事故を起こしたのだ。
これが単独事故ならまだよかった。しかし悲しいことに、歩道に乗り上げた和沙の車は家族連れの親子を轢き殺した。
なんてことのないどこにでもいるような、ただ気の弱かった専業主婦が人殺しになった瞬間だった。
車が歩道に乗り上げ、親子を轢いた事件はマスコミに大々的に報道された。
そして和沙は名前を世界中に晒され、警察に身柄を拘束されることになった。
留置場にいる間、夫は何度も和沙の元にやってきた。
息子は自分の母親が死者の出た交通事故を起こしてしまったことをいまだに理解できずにいて、ママはいつ帰ってくるのといつも純粋な瞳で和沙を見つめては首をこてんと傾げていた。
親子を轢き殺した和沙は裁判にかけられ、その罪を問われた。
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