第8話


 規則正しく生活していた、河崎は。まるで会社員のよう起きて食事をして研究をする。眠る時間こそ遅かったけれど着実に研究を進めるにはこれが最も効率的だった。

「おかしなもんだ」

 自分がしているのは人間の視線で見れば悍ましい研究だろう。それが真っ当な生活をしているなど、笑えて仕方ない。河崎にとっては研究こそが正しかった。日に日にいままでの人生が嘘になっていく。

「慶太」

 その中にあってただひとつ、河崎が人間らしさを失っていないとするならば、ただひとつだけ。守谷慶太のことだけは、心の奥に守り続けている。彼の狂気を作ったやつらを許しはしない。彼を殺した己が彼のための復讐などとは言わない。すべては己自身のため。そうであったとしても、慶太は河崎のいまだ残る柔らかい部分に残り続けていた。

 ゆっくりと首を振り、河崎は支度をする。今日はこのまま研究というわけにはいかなかった。訪問客がある。はじめてではないか、ふと気づいて苦笑した。

「突然現れた、とかならあったがな」

 深きものだの黒き使者だの。この家に住みはじめてから人外の訪問しかなかったのではないか。そこまで考えて小さく笑う。懐にある銃を意識した。

「相沢、生きてるか?」

 あれから彼はどうしているだろう。これを届けてくれてからまったく接触していない。河崎の方にそのつもりがなかったし、相沢も遠慮したのだろう。

「こちらの動向くらいは、掴んでいるかな」

 手下はいくらでもいる。見張られていたならば河崎にも少し自信がない。もっとも、この集落は古い家ばかりで他人が歩いているとそれだけでずいぶんと目立つ。恒常的に監視するのは難しい土地柄でもあった。

 ――もしかしたら。

 死んでいるかもしれない。稼業が稼業だ、あり得なくはない話だった。いずれ河崎は興味がない。慶太を可愛がっていた男であっても相沢はもう遠い。彼がどう動こうと自分の邪魔さえしなければどうでもよかった。

 つらつらと考えつつ片付けものをし、茶菓の支度まで調えた。来客を出迎える準備ができた自分に驚く。他人のような振る舞いであっても、身についた習性で勝手に体が動いた、そんなところかもしれない。

「こんにちはー」

 ちょうどそこに声がした。この家であっているはずだけれどな、というようなためらいのある声音。河崎は出迎えに立つ。

「よう」

 笑顔で迎えた河崎に来客は嬉しげに笑った。

「どんな風の吹きまわしだ、相楽」

 突然に遊びに行きたい、相楽がそう言ってきたのは三日ほど前のこと。河崎は快く了承し今日がある。問われた相楽は玄関を見回し物珍しげ。

「いや、会いたいなぁと。それだけですよ」

「うん?」

「心配、じゃないですか。どんな暮らししてるのかな、とか」

「まぁ……なんとかやってるさ。上がれよ」

「はい、お邪魔します」

 ふふと笑う相楽の照れた風情が奇妙に映る。これは懐かしいという感覚かと遅れて気づいた。相楽に悟らせることなく河崎は苦笑する。

 ――まともな人間関係なんか、やってなかったからな。

 言えばお人好しのかつての部下は心配するだろう。何度となく放っておいてくれ、勝手にやると言い続けた河崎。そのたびに手を貸す、何かできると言い続けた相楽。

「ほら、茶だ」

「わー。警部……じゃない、河崎さんがお茶淹れるとか、違和感ありますね」

「お前な……いい加減に呼び間違えるなよ」

 さすがに呆れる。わざとかと疑うほど相楽は毎回のように間違えるのだから。それににやっと笑うから、案外とその感想は間違いではないらしい。

「俺にとっては、いまでも警部ですよ」

「とっくに退職しただろうが」

「退職してても、です。それにまだ戻ってもらう望みは捨ててませんし」

「無茶言うな」

「ほら、特別捜査官とか、なんとかなりますって。ね?」

 手段があるだけで、それは無理というのだ。河崎は言わずに笑っていた。いま、自分がしているのも、そうではないだろうかと思ったせい。

 ――手段はある。魔術を手に入れた。だが……これで神を殺せるのかは、わからない。神は死ぬのか?

 攻撃はできる。おそらくあのときの銃弾のよう、弾かれることはないはず。だが、それ以上の結果が出るかどうかはわからない。むしろ、現時点では無理だと思う。だからこそ、研究を続けている彼だ。

「まぁ、それはそれとして。ちょっと安心しました」

「なにがだ」

「ちゃんと生活してるのかな、とか。けっこうきちんと片付いてるじゃないですか、家」

「そりゃ一人暮らしだからな」

 肩をすくめた河崎の真実を相楽は知らない。しばらく前までの河崎は窶れ削げた頬をしていたことも、残った片目を血走らせていたことも、床は吐瀉物に塗れていたことも。決定的な黒き使者との接触が河崎を変えた。以来、河崎は当たり前の生活を取り戻している。こうして相楽が見て安心する程度には。それを思って河崎は内心に笑っていた。

「こんなとこ住んでたんですね」

 広い居間は小綺麗に片付いていて、かつての住人の趣味だったのだろう本棚には多くの書籍。ずらりと並んだ本に埃ひとつない。たいしたものだと相楽は感嘆していた。

「お前が手配してくれたんだろうが」

 不法侵入の上、勝手に住み着いた河崎だ。相楽がなんらかの手をまわしてくれなければいまごろ手が後ろにまわっている。

「ま、そうなんですが。でも見たのはじめてですから」

 照れる相楽に河崎は呆れつつ笑っていた。登記をいじるなりしてくれたのだろうが危ない橋を渡ったものだと思う。相楽の腕のほどはよく知っていたけれど、そこまで期待してくれる理由はわかったためしがない。魔術に染まり、なおわからなくなった。

 ――そういや、正式に借り受けたか。

 ここに住んでいたらしい深きものから直接住んでよいと言われた、それを相楽に言ったならばどんな反応をするだろうか、ふとそんなことを思う。

 相楽にとって、この家は昔の同僚が失踪した切っ掛けともなった可能性がある家、ではないだろうか。河崎はいまとなってはだいたいのところを察している。口にする気はなかった。

 ――お前まで、こちら側に来ることはないんだ。

 甘いことを感じたものだと我ながら違和感が募る。この感情はなんというのだろう。以前は知っていた知識も魔術をひとつ覚えるとひとつ、抜け落ちた。とことんまで染まれば自分は人ならざるものになるだろう、河崎は思う。それを厭うことはなかった。

「ねぇ、河崎さん」

「戻らんぞ」

「いまは言いませんよ」

 にっと笑って相楽はその話題ではない、と目顔で語る。ならばなんだというのか。河崎には、わからない。

「まだ、あのときの事件。一人で追ってるんでしょう?」

 相楽にも詳細は語っていない河崎だった。監禁され、協力者は行方不明。それだけを相楽は知っている。河崎が独力で追い続けていることも。

「一人でもないだろう。何かにつけてお前が協力してくれてる」

 いまの自分はどういった立場なのだろう、河崎は今更疑問になった。相楽は公安警察官であり、協力者から情報を得ることはあっても逆はない。だがしかし。

「河崎さんが動いてるのを知るだけでもけっこうな情報でしたし。こっちはそれで充分ですよ」

「そう、か」

「河崎さんが当たって外れだったら俺が当たるまでもない。手間が省けたようなものです」

 買われているな、小さく河崎は微笑む。その笑みに相楽もほんのりと笑う。忙しい中でも上手に時間をやりくりしているのだろう、相楽は以前と変わらず日に焼けて健康そう。ちらりと己の手に視線を落とす。研究にかけているせいで現役時代に焼けた肌はすっかりと色が抜けた。誤魔化すよう煙草に火をつける。かつてのものではないライターに、相楽は何も言わなかった。

「最初のころはね、鬼気迫るってやつでしたよ」

「まぁ、な」

「そんなときには言えなかったことがあるんです。聞きますか」

 当時の河崎ならば情報を得た瞬間に飛び出しかねない。その懸念がある以上伏せていた件がある。相楽の真摯な眼差しに河崎はゆるりとうなずく。背筋に感じる痺れは、確信の予感か。冷静さを吸い込むよう煙草を深く吸う。

「もうだいぶ前の話です」

「わかったから。飛び出したりせんよ」

 苦笑する河崎に相楽は疑わしげ。だが茶目っけのある目をしていた。にやにや笑いの情報担当者。危険を渡り歩いてそれを楽しんでいた男。そして、こんな顔のときには決定的な情報を持ってきた男。

「エスニック料理店のチャイチャイ、押さえてますよね?」

「そりゃな」

「あそこの従業員を逮捕しました」

「……なに?」

「だから前の話ですって! 座ってください、河崎さん!」

 知らず腰を浮かせていた河崎を相楽は不安そうに見ていた。事件直後、都津上をさまよっていた河崎が保護されたところを相楽は見ている。片目を失って精神に異常を来した河崎を見ている。いま、それが蘇ったのかもしれない。

「あ、あぁ。すまん。興奮したな」

「大丈夫です?」

「茶でも入れ替えてくる。ちょっと待っててくれ」

 自分のため、というよりは心配する相楽のために。否、ここで話を止められたくない己のために河崎はそう言う。急須を持つ手が震えた。

 ――慶太。もうすぐだ、もうすぐだからな。

 懐の銃に語りかける。相楽は気づいているかもしれない、ふと思う。姿勢から銃を吊っている程度、見抜けなくては公安は務まらない。それでいて見逃しているか、それと察して河崎の呼吸は静まる。

「悪かったな」

 入れ替えた茶を心配そうにしながら相楽は飲む。茶菓子を口にする。もう大丈夫か窺っているのが河崎の目にも見て取れる。火のついたままだった煙草に気づいてねじ消した。それに相楽はようやく微笑んで話を続けた。

「俺の協力者が絡んだ件なんですけどね」

 河崎の事件と前後して起きた同時多発通り魔事件。あれを取材していた雑誌記者が自分の協力者だ、と相楽は言う。そして、その男が巻き込まれたのだと。

「念のために香港マフィアだと忠告はしたんですが」

「記者さんじゃあ、な」

「はい。かなり突っ込んだみたいで。あちらに目をつけられたらしいです」

「……無事、だったのか?」

 相楽は協力者を大事に扱う。彼らこそ情報の源泉なのだから大事に扱わねば仕事にならない、相楽は嘯くけれど本当は危ない目になど合わせたくないのでは、と思ったこともあったのを河崎は思い出す。ゆえに出てきた言葉だった。

「えぇ、ちょっとした武道の心得ってやつがあったみたいで。返り討ちにして俺に即座に連絡くれて」

 おかげで所轄を通さないで確保ができたのだからありがたい話だったと相楽は言う。だが問題はまだ先だと河崎は感じていた。

「……逮捕した従業員」

「うん?」

「狂ってました」

 ぽん、と放り込まれた言葉。相楽にはわからない事実。だが河崎は悟る。それは、やつらだと。チョー=チョー人が確保されたのか、愕然とするほど。

「話にならないとはあのことですね。完全にイっちゃってて、薬物疑ったんですけど……」

 違った、相楽は言う。それはその通りだと河崎は内心にうなずいていた。やつらは正気ではない、人間の言う意味での正気など持ち合わせていない。テーブルの下で握った拳がかすかに震えた。

「すみません……言うかどうか、ここに来るまで迷ってました」

「いや、聞かせてくれてよかった」

「……ねぇ、河崎さん。相手は狂人です。もう」

「調査は続ける。ありがたいとは、思ってるよ、相楽」

 ここまでにしないか、河崎を止めに相楽は訪れたのだと知る。ゆっくりと首を振る河崎を相楽は哀しげに見ていた。その顔を見ても河崎は止まらない止まれない。

「だったら、無茶する前にお伝えしておきます」

 そのときには、察した。ぞわり、背筋が震える。それは期待といった。相楽は言う、ブラックロータスの連中が戻って来る気配があると。

 河崎が片目を失い、慶太が死んでから五年が経っていた。




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