残された願いは

第1話




 あれから二年。もしかつての知人が彼を見たとしても河崎佑とは気づかなかったかもしれない。それほど人相が変わっていた。

 あの晩、何があったか河崎は誰にも語っていない。いったいどうやって自分があの地下から脱出したのか、彼は覚えていなかった。左目の傷に手当てがしてあった、そしてやつらも像も慶太の死体もなかった。ただそれだけが河崎の記憶にあるすべて。

 あとから聞いたところによると都津上をさまよっていた正気とは思えない男の姿に誰かが通報したらしい。それによって相楽に連絡が行き、保護されたのだと。

 ――保護、か。

 失った左目に手を当てる。そこには精巧な義眼があった。一見して本物の目と区別はつきにくい。だが、紛れもない偽物。河崎自身にとってこの義眼は罪の象徴だった。

 二年の歳月が経とうとも、彼は忘れていない、あの瞬間の慶太の目を。信頼しきって瞼を閉ざした慶太を。そして己の口中に溢れた彼の生温かい血を。噛み破った肉の感触までまざまざと。

「慶太……」

 自分の責任に他ならない。捜査に協力してくれていた守谷慶太。真っ当にはなれなくとも、相沢組長に可愛がられ組織の中で生きていく術を身につけた慶太が死んだ、否、殺したのは自分だと河崎は肝に銘じて忘れない。

 保護された直後の記憶はいまだ戻らない河崎だった。気づいたら病院にいて、処置を受けたあと。相楽の手配か、捜査中の事故で眼球を失った、ということになっているらしい。視神経は酷く損傷し、どうにもならなかったと残念そうだった医師がいた。河崎にはもうどうでもいいこと。己の目より失ってはならないものを亡くした。

 義眼ができてきて、その扱いにも慣れたころ。河崎は退職した。復帰すると信じてくれていた同僚、部下。上司。すべてを振り切って河崎は公安を去る。未練など一片たりともありはしない。

 ――俺は。

 いかなる手段を取ろうともあの輩を殺さずにはおくべきか。ならば警察の身分は邪魔でしかない。

「そう、ですか。残念です」

 無念そうだった相楽の言葉が遠い。公安の仲間たちの記憶のすべてが遠い。他人の人生でも眺めているかのよう。そこまで相楽が買ってくれる理由などまるでわからない。

 ――俺は人殺しだ。

 相楽はあるいは察しているのではないだろうか。それでもなお、公安を去る自分に助力は惜しまない、戻ってくれと言った相楽。すげなく振り払って河崎は退職した。

「あいつらを」

 殺す。絶対に殺す。あれは人間ではないだろう。人ならざるものを殺しても殺人ではない。そんな理屈などどうでもいい、一人残らず殺し尽くす。いまの河崎にある思いはただそれのみ。

「あんなものが、この世にあっていいものか」

 人間ではない化け物がのさばるなどあってはならない。あんなものがいたから、慶太は死んだ。狂って、死ぬより他に救いがなかった。

「慶太」

 きつく拳を握る。敵討ちなど言わない。あれ以外方法がなかった、河崎は信じて疑わない。それでも殺したのは自分だ。だからこそ。

「やつらを殲滅する」

 握った拳に痛みを覚え、なお河崎は笑う。歪んだ、熱に潤んだ笑み。慶太が見れば愕然とするだろうか、そんな顔をさせたことに後悔するだろうか。河崎は気づきもしなかった。

 薄暗い中、手元だけの明かり。河崎はじっと本を読み続けている。この二年、こうして過ごしている。やつらを確実に殺すために。

「そういえば……」

 今更ふと思い出した。相楽があれほど尽力してくれた理由に思い当たった。河崎負傷の原因、正気をすり減らすほどの何かがあった原因、それは自分だとでも相楽は考えていたのではないだろうか。

「関係ない」

 河崎は皮肉に笑う。もし即座に相楽が介入したとして、間に合っただろうか。河崎はそうは思えない。あのとき突入したのが間違いだった。ならば悪いのは、慶太が死んだのは自分の責任だ。

 入院中、河崎はようやく相楽が救出に動けなかった理由を知った。おそらくは捕らえられた翌朝のことだろう。

 都津上市で起きた未曾有の事件。同時多発的に起きた集団通り魔事件。市内各所で起きた事件に相楽は忙殺され、河崎がブラックロータス地下に潜入したと知りつつも手がまわらなかった。

「やつらだ」

 あの小柄な連中が起こした事件と河崎は気づいている。入手した黒い錠剤を分析した結果を相楽が報告してくれたではないか。その際、相楽は言っていた。

「強烈な殺害衝動、ね」

 鼻で笑うかのような河崎だった。犯人たちはあの薬を投与され、事件を起こした。間違いなく、ブラックロータスの連中が逃亡する時間を稼ぐためだけに。

「辻褄は合う」

 やつらも彫像も多くの死体もなかった理由はそれでわかる。すべて痕跡を消してやつらは逃げ果せた。

 ――逃すか。追い詰めてみせる。

 元公安を舐めるな、河崎の口許が歪んだ。犯罪行為を摘発する気など毛頭ない。この手で血の一滴残らず絞りとって殺してくれる。

 報復。河崎に残されたのはそれだけだった。自ら望んで只中に飲み込まれた。

 そのために、確実な手段を求めた河崎を助けてくれたのも相楽だった。狂人の勘と言わば言え、いまは逃げたやつらもいつか必ず都津上に戻ってくる。その確信が河崎を都津上に向かわせた。貯金を切り崩し、ホテル住まいをしていた河崎の元、相楽からの知らせ。

「あんまり言いたくないんですがね。警部……いえ、河崎さんは失踪したあいつを覚えてますか」

「――忘れられるようなもんじゃない」

「そうですか。あいつが残した報告をまとめる機会がありまして」

 そこで見た情報だ、と相楽は言った。失踪したかつての部下がくれた朗報のよう河崎には思えたものだった。奇妙な本を多数所持している家が郊外にある、と。

「助かる」

 相楽からの連絡にそれだけを応え、河崎は郊外に向かった。昔ながらの人々が暮らすらしい落ち着いた集落だった。人気が少ないのは古いせいと河崎は気に留めてもいなかった。

 そしてそこで見つけたのは正に宝の山としか言いようのない書籍の数々。河崎は憑かれたようそれを読み漁る。不法侵入だとの意識はまるでなかった。

 旧家なのだろう。二つある蔵には一杯に書籍が納められていた。まるで書庫だ、と河崎は思った。あるいはその通りだったのかもしれない。明かり取りの窓は潰され、電灯が引かれていた。

 いままで無人だった家に人気がある。明かりは漏れ、出入りする姿さえ見られていたかもしれない。それでも不審に思われなかったのも、相楽のおかげだった。なんらかの工作をした様子。河崎が正当にこの家を入手したとでもしてあるのだろう。

 ――ありがたいが。

 感謝だとか申し訳ないだとか、そんな当たり前の感情が湧かなかった。

「こんなところで倒れてもらっちゃ困るんですよ」

 そう笑っていた相楽の声がなぜか記憶に残っている。まだいつか公安に戻ってくるとでも思っているのだろうか。あり得ない希望を持たれてもどうしようもない、河崎は知らず笑っていた。

 そうして、河崎はこの家に住んでいる。ここが誰の家でどうして住人が去ったのか、気にしたことはない。河崎にとってここはやつらを追い詰める手段が入手できる場所であるだけだった。

 ――化け物ならば、こちらもそれらしくなるだけだ。

 人間を辞めてもかまわない。復讐できるのならば捨てるものなど惜しくもない。人間らしい生活も感情も常識も、あの瞬間に消し飛んだ。

「面白いもんだな、慶太」

 煙草に火をつけ、ライターに見入る。慶太の頭文字が刻まれた彼のライターだった。殺した相手に語りかける不自然、河崎はそれを思ってかすかに笑う。守谷慶太のことを思うときだけ、人間らしさを取り戻す彼だった。

 書籍を読み耽り、報復だけを志し。倒れるよう眠る河崎に安眠はなかった。どれほど時間が経とうとも、慶太の夢を見た。毎晩毎晩、繰り返し何度も覚えてしまうほど何度も何度も。目を閉じるだけで鮮明に思い描ける。慶太のあの目。噴き出した鮮血。鉄錆た味。

「忘れない、心配するな。やつらは俺が殺す」

 河崎の手が口許へと。慶太の血の味に誓うような仕種だった。

 悪夢にうなされることができるようになったのは、実は最近のことだ。この家に来た当初はそれどころではなかった。

「なんだこれは」

 書庫の本を見た河崎はそう呟いたのを覚えている。それは人ならざる知識の数々、あってはならない書籍が山のように。だが、いまの河崎には福音の調べ。笑いすら込み上げて読んで読んで読み続けた。

「その、せいだったんだろうな」

 悪夢すら見られないほど、精神をすり減らした。俗に血反吐を吐く、と言う。本当に吐けるものだと河崎は身をもって知った。

 書庫にあったのは、あり得べからざる本だけではなかった。あるいはそれだけであったのならば河崎には手も足も出なかったかもしれない。

「ありがたいことだ」

 彼の手元には各種言語の辞書が。河崎が揃えたものではない。元々書庫にあったものや、母屋にあったもの。はじめこそ多少の遠慮があった河崎だったが、いまでは母屋に寝起きしている。そちらに赴いた際、誰かが暮らしていた形跡も生々しい部屋に辞書を見つけた。

「こんなものが、な……」

 いったいこの家の住人は何者だったのか、河崎の口許に笑いが浮かぶ。あの部屋で見つけたのは辞書だけではなく、特別な一冊も。

 ――魔道書、か。夢物語だな。

 いまでもそう口にするにはためらいがある。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて。だが、その馬鹿馬鹿しい事件で慶太は死んだ。

 この本を手にした瞬間を河崎は思い起こす。魔道書と確信したのは正に手にしたとき。触れただけで悟った、これはあってはならない知識の書だと。

 ――悍ましい、忌まわしい、禍々しい。どれだろうな。

 そのいずれでもありそれではない。感情のすり減った河崎でも感じた恐怖にも似た思い。震える手で本を開いた河崎は愕然としたものだった。

 仕事柄、外国語には堪能なつもりだった。だが、この本は。相当に古い英語とはわかる。一部はラテン語らしいことも。けれど読み解けるほどではなかった。多くの辞書と格闘し、なんとか翻訳できたのも最近のこと。無論すべてではない。

 ――あれが役に立った。

 書籍の一冊に記されていたお伽噺のような記述。呪文だ詠唱だと書かれていて、以前の河崎ならば鼻にもかけなかったはず。この世ならざる怪異を知った河崎は読んだ。そして、実践した。

「やればできるものだな」

 小さく笑う、己の成果を誇るように。魔術、なのだろう。精神を限界まで研ぎ澄ませ、本の通りに詠唱し。河崎が手に入れたのは知識。否、知識を得るための手段。その魔術を会得してから解読は面白いように進んだ。いまだわからないことの方がずっと多いが、それでも。

「あぁ、そういえば。ここは……」

 余裕ができたせいか。今更になって河崎は気づく。この家はあの失踪した部下が行動確認していた大学教授の家ではないか、と。河崎にとってはもうどうでもいいことだった。




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